安倍晋三首相が意欲を燃やす日ロ交渉には期待と不安が付きまとう。「1956年の日ソ共同宣言に基づき、北方領土問題を解決して日ロ平和条約を結ぶ」という方針は高く評価できる。


 だが、首相の交渉に臨む方針にはいくつもの不安が湧く。なにしろ、北朝鮮の危険性を厳しく批判していたのに、米トランプ大統領が北朝鮮のトップ、金正恩朝鮮労働党委員長と会談すると発表するや、突然、態度を豹変。トランプ大統領に金委員長との会談で拉致被害者問題を取り上げてもらうように頼み、続いて韓国の文在寅大統領にも依頼した。その後は拉致被害者救済を高く掲げていたのに、交渉に糸口さえつかめなかったためなのか、今度はロシアと北方領土問題解決を宣言。拉致問題はどこかへ行ってしまった。安倍外交の目玉が猫の目のように変わるからだ。


 それは別として日ロ交渉に臨む安倍首相の言動、態度には幾つもの懸念材料が窺える。


 まず、第一には日ロ交渉に臨む安倍首相の基本方針がハッキリしないことだ。もちろん、安倍首相を支える自民党とその支持者が「交渉の内容は明らかにできない」というのはよくわかる。だが、1956年の日ソ共同宣言では北方領土を歯舞、色丹とし、残る択捉、国後は曖昧というか書かれていない。その後、1998年の橋本龍太郎首相とエリツィン大統領との共同宣言ではロシア側は「択捉、国後を含めた4島の帰属問題がある」ことを認め、その後も日ロには4島の帰属問題があることをロシア側は認めてきている。


 ところが、安倍首相の方針ではプーチン大統領の主張する1956年の日ソ共同宣言の話でスタートしているから2島なのか4島なのか日本側の立場が曖昧だ。1月末の国会答弁で野党の質問に「ロシアとの平和条約交渉は4島の帰属の問題である」と答弁したが、明確に4島は日本に帰属するとは述べなかった。それどころか「1956年の共同宣言が両国の立法府が承認し、批准した唯一の文書だ」と強調している。なんだか4島の間に線を引き、国境線にしてしまいそうなのだ。


 首相が日ロ交渉を主張して以来、自民党関係者や保守層から「歯舞、色丹の2島プラスアルファだ」という説が主張されている。しかし、国家間の交渉で「プラスアルファ」などということが通るのだろうか。譲歩を求められるロシア側から言い出してくれない限りあり得ない。それどころかプーチン大統領は「日ソ講和条約では2島の主権を譲るとは書いていない」と言い出している。日本のロシア通の間からも「、2島プラスアルファではなく。2島マイナスアルファになりかねない」という声も上がっている。こちらの意見のほうが実現しそうだ。1956年の共同宣言だけを強調して交渉を進めることは「4島返還を求める日本側の悲願」と矛盾するのではないのだろうか。2島返還で国境線を画定し平和条約を結んだらプラスアルファを求めることなどできない。戦争でもしてプラスアルファを要求するつもりなのだろうか。


 2つ目は交渉術だ。ロシア側はラブロフ外相以下、国内で「南クリル(千島列島)をカネで譲り渡すな」という声が上がっている。これは外交交渉の常套手段である。プーチン大統領が進める外交交渉を有利に進めるためには「国内の反対を抑える必要がある」と、日本側の譲歩を要求するものである。事実、プーチン大統領は安倍首相との共同会見で「環境整備が必要だ」と日本側を牽制している。


 かつて日米貿易摩擦のとき、米国内で日本車をハンマーで叩き壊す様子が大きく報じられたが、当時のクリントン大統領は「議会を説得する必要がある」と日本側に譲歩を迫ったのは誰でも知っている。外交交渉を有利に進めるためには、対ロ交渉に厳しい声を上げなければならないのは当然なのである。


 ところが、日本では国会でも在野でも安倍首相を支援する自民党と保守層から厳しい条件を主張する声がまったく上がらない。逆に「2島プラスアルファだ」などと甘ったれた声を上げている。まるで「2島でも1島返還でも構いません」と言っているようなものだ。交渉に臨む安倍首相の方針がハッキリしないことから、安倍首相の考えは「2島の帰属を決め、平和条約を結んでロシアへ輸出を増やす」という企業の経済的利益だけを狙っているのだろうか。もしそうなら、後世、安倍首相は北方領土を売り渡したということになる。安倍首相を支援する日本の保守、さらに右翼の真価が問われる。


 万が一、2島返還だけだったり、それ以下ということだったら、今まで歴代の首相が「4島の帰属問題が存在する」とロシア側に認めさせた努力はどういうことになるのだろう。  第3には交渉の期限を限ったことだ。安倍首相は「70年間解決できなかった北方領土問題を私の時代に解決して平和条約を結ぶ」と言ったことだ。安倍首相の首相任期はあと3年である。相手のロシアは期限など示してもいないのに、安倍首相は自ら3年以内と期限を示してしまった。領土問題という最も難しい外交交渉に期限を示したら、相手に足元を見られるのは必至である。


 そもそも過去、北方領土問題を解決するチャンスは幾度かあった。第1回目はソ連の体制が崩壊した時だ。だがこのとき、日本は何もしなかった。手を叩いて喜んでいただけだった。


 2回目はゴルバチョフ政権に対して一部のはねあがり分子である旧共産党体制支持派が“クーデター”を起こした時だ。この混乱でエリツィン政権に代わるが、このとき給料が支払われないことから多くの科学者や技術者が国外に脱出したがった。当時、週刊誌に「旧ソ連には飛び抜けた技術がある。なぜ日本は科学者、技術者を受け入れないのか」と記事を書いた記憶がある。新生ロシアは援助を欲していたのに、政府と与党は手を差し伸べることもなく、ただロシアの混乱を眺めていただけだった。


 プーチン大統領が独裁体制を築いたときもチャンスだった。外交交渉は相手の国内経済が弱ったとき、国内の反対を押し切れるときこそ有利に進められる。だが、それをしなかった反省もみられない。


 もちろん、今もチャンスがある。ウクライナ紛争、ロシアのクリミア併合に対して欧米は対ロシア経済制裁を行っている。日本も欧米と歩調を合わせているが、実際には経済制裁は何もしていない。逆にロシアにとっては日本との貿易は欧米の経済制裁の抜け穴なのである。しかし、この状況を対ロシア交渉に利用しようとしてもいないのはどうしたことか。日ロ交渉だけに絞っているからだが、交渉は欧米とロシアとの対立、制裁を俯瞰して臨まなければ有利な進展は望めない。


 どだい北方4島と日ロの国境線の歴史を見れば、日ロの国境線は幕末に徳川幕府がロシアと結んだ和親条約で4島の北側を国境線とし、その後、日ロ混在だった樺太(サハリン)の日本領とされていた南半分と千島列島を交換。カムチャッカ半島の南を国境線とした。これらはすべて平和裏に決められたものだ。


 その後、日露戦争勝利で樺太の南半分を日本領に組み入れ、第2次世界大戦で無条件降伏を受け入れたとき、旧ソ連が侵攻、北方4島を占拠してソ連領にしたという経緯だ。いま、ロシアは「第2次大戦で手に入れたロシア領だ、それを認めろ」と言っている。


 だが、第2次大戦時に連合国側は「領土の割譲を要求しない」ことを謳った。旧ソ連、ロシアは連合国の“憲章”を反故にしていることを訴えなければならないのに、政府も自民党も自民党を支持する層もロシア側に反論しない。このままでは日ロ交渉の行方が心配になる。(常)