声を挙げればたたかれる閉塞感、それでも


 沖縄県名護市辺野古の米軍新基地建設現場に、海を埋め立てる土砂が投入された2日後の昨年12月16日の夜だった。


 Facebookにこんな投稿がアップされた。


 優しさで溢れるこの島で  誰も望んでないのに  どうして外からやってきたものによって  対立させられなきゃいけないんだろう。


 投稿したのは、名護市内の大学に通う女子大生だ。30行ほどの穏やかな言葉遣いの行間から、葛藤にあえぐ息遣いが聞こえてきそうだ。生まれたときから基地があり、しがらみによって分断されてきた沖縄を見て育った世代の逡巡と苦悩だ。


 辺野古への土砂投入から、ちょうど1週間が経った12月21日、その投稿主と名護市内のハンバーガーチェーン店で待ち合わせた。


 新垣優奈さん(23歳、仮名)は、待ち合わせに少し遅れてやってきた。長い髪をアップにして、沖縄県人(ウチナーンチュ)特有のクリクリとした大きな目は、緊張のせいか、さらに大きく見開かれている。背筋を伸ばして、言葉を選びながら静かに答えていく。


 昨年12月14日、辺野古の海への土砂投入が強行されたとき、彼女は大学で授業を受けていた。「とうとうか」と思った。前日から、この日に土砂が投入される可能性が高いことはわかっていたが、現実のものとなると胸が苦しくなる。すぐに現場に駆け付けたかったが、余計に落ち込んでしまいそうで大学に留まった。


澱んだ気持ちどこにぶつければいいのか


 その辺野古に赴いたのは翌朝だ。米軍基地のフェンスの向こうでは、緑がかった薄い青い海に、容赦なく赤土の土砂が流し込まれている。先の知事選で、辺野古新基地建設に反対を掲げた玉城デニー現知事が当選したことで、沖縄は民意を示したはずなのに、その心を踏みにじる無慈悲で大きな力を感じる。仲間と話し合ったが、この澱んだ気持ちを、どこにぶつけたらいいのかわからない。


 自分の思いをFacebookに投稿するかどうか、迷っていた。沖縄の若者たちの間で基地問題に触れることは、いわばタブーだ。基地で土地収入を得ている人や高給の米軍雇用はあこがれの的でもある。米兵と結婚した人だっているし、現に自分の親戚は米軍人と結婚した。もちろん基地に賛成している人だっている。基地問題について何か言葉を発せば誰かを傷つけるし、友だちとも気まずくなる。その問題に触れさえしなければ、人間関係に波風は立たず、何より自分が楽だ。それが沖縄の若者の処世術でもあると思う。もしFacebookに投稿するとなると、その「掟」を破ることになる。


 同じようにショックを受けた仲間の何人かがFacebookに投稿している。でも、これまで自分は一度も政治的な発言をアップしたことがない。どんなリアクションがあるか不安だし、無用な反発も受けたくない。かといって、この大きな節目に声を挙げておかないと後悔しそうだ。心は乱れ、堂々巡りに陥る。


 それでも基地と向かい合うことの苦しみを、なんとか伝えたい。同じように苦しんでいる人たちだけでなく、努めて無関心を装っている若い人たち、諦めてしまっている人たち、それに基地を容認する人たちにも、「みんな苦しいよね」って、心の扉を叩いてみたいから。


 決心がついたのは、翌16日の夜だった。自分の部屋でひとり、スマホに向かった。「基地」とか「米兵」「民意」など、とがったフレーズは使わない。真意が伝わらないし、誰かを批判することにもなりかねない。こと基地問題に関しては、この島に加害者はいないと思っているから、誰かをターゲットにはしたくない。


「みんなの幸せってなんだろう」


 書き始めてはみたが、スマホのキーボードを操る指先が何度も止まった。この島で生活する心優しい人たちが、自分ではないだれかのために、どれだけ涙を流してきただろう。必死に抗い、そのたびに打ち砕かれてきた。それを思うと、涙が止まらなくなった。2時間ほどで書き上げた文章をFacebookに投稿した。


私は沖縄で生まれて、沖縄で育ってきた。 この島で生きる人たちはとっても優しくて、 とってもあたたかくて、とっても強い。 大切な人をまもりたい。 未来の沖縄を生きるみんなをまもりたい。 どんなにその思いが踏みにじられようとも 歯を食いしばって闘ってきた。 どれだけの人が沖縄のために 自分ではない誰かのために たくさんの涙を流してきたのだろう。 どうしてこの思いが届かないんだろう、 くやしくって かなしくって たまらない。 優しさで溢れるこの島で 誰も望んでないのに どうして外からやってきたものによって 対立させられなきゃいけないんだろう。 わかっているはず、 対立なんて誰も望んではいないこと。 誰かを傷つけたくて 傷つけている人なんていないこと。 誰かを傷つけることで 自分も傷ついていること。 ただしあわせになりたいだけ。 私たちはすでに 平和をつくるための知恵だって術だって ちゃんと持っているはず。 本当に大切なものはなんだろう。 本当にまもりたいものはなんだろう。 みんなにとってのしあわせってなんだろう。 しっかり見つめ直したい。 もう誰かが傷ついているのをみたくない。 ただそれだけ。


 対立によって分断されたこの島では、どんな立場の人も傷ついていることを嘆きながら、誰かを責める言葉を排した文章の中で、唯一彼女が遠慮がちに名指ししたのが「外からやってきたもの」だ。逃げ場のない切羽詰まった状況を招いたのは、紛れもなく本土の人間であることを、実は突きつけているのだ。 


瀬長島より夕日を望む。天使の梯子が。


基地に向き合うことは、それほど苦しいこと


 彼女は沖縄県南部の高校から台湾に留学し、卒業後も台湾の大学に進んだ。2年前に沖縄に戻り、編入した名護市の大学で教員をめざしている。米軍基地がほとんどない沖縄南部の出身だから、あまり問題意識を持ったことはなかった。祖父は沖縄戦で大切な弟を亡くしている。米軍機の機影から逃れるために、弟と畑を走っていた。急に弟の姿が見えなくなったので振り返ると、機銃掃射の弾に当たって倒れ亡くなっていた。そんな話を聞いていたから、戦争を連想させる基地には漠然とした違和感を覚えていた。


 名護市の大学に通い始めてから、基地建設に反対する座り込みが行われている辺野古のキャンプシュワブのゲート前に行ったことがある。いつもは優しい沖縄のおじぃやおばぁが、こんなに怒っているのを初めて見た。荒々しい声で相手を罵っている。その矛先はウチナーンチュの警備員や警察官に向けられている。彼らも、ある意味で被害者だと思った。この島には加害者がいないはずなのに、県民が分断されていることを実感した。


 友人に誘われて、昨年2月の名護市長選を手伝った。関わったのは辺野古の基地に反対する現職候補の陣営だったが、政府与党の推す候補に敗れた。


 そして9月の知事選でも、基地建設に最後まで抵抗しながら逝った翁長雄志前知事の後継となる玉城デニー現知事を応援した。劣勢が伝えられながらも、最後は圧倒的な民意が示されたはずだった。が、中央から返ってきた答えは、土砂投入の強硬策だった。


「基地問題に関心のない人は、いないと思う。無関心を装っているだけ。関わったら先が見えないし、いくら闘っても無視され続ける。何をしてもダメだと諦めている人も多い。この問題に向き合うことは、それほど苦しいことなんです」  そう話す彼女の瞳に、涙があふれていく。


 Facebookへの投稿直後から、コメントやメッセージが届いた。


「一人じゃないぞ!」


「シェアさせてね」


 投稿して気持ちの整理がついてきたような気がしている。いまは、声を挙げてよかったと思えるようになった。


 触れてはならない閉塞感に支配され


 今年、12万人以上の県民の命が奪われた沖縄戦から74年が経つ。日本の捨て石となって戦ったにもかかわらず、その日本が独立を果たした52年のサンフランシスコ講和条約で、沖縄は切り捨てられて米軍施政下に置かれる。民有地は米軍に取り上げられ、基地反対闘争が激しさを増す本土から米海兵隊が移転してきた。72年にやっと本土復帰を果たしたものの基地は残され、米軍専用施設の沖縄と本土の負担割合は7(沖縄):3(本土)と固体化されていく。


 その苦難の歴史を経験した世代にとって、新たな米軍基地は本土の差別意識の表われに映る。本土では基地を拒否する民意が尊重されるのに、なぜ沖縄の民意はないがしろにされるのか。差別構造を抱えたまま、沖縄は耐え忍んできた。だが、外形的な基地の存在とは別に、ウチナーンチュは内面的な苦悩を深めてきたのだ。


 戦後75年近く、基地との共存を余儀なくされてきた県民のなかには、生活のために基地への依存を深めてきた人も少なくない。さらには新基地が建設される予定地の住民の一部には、国から県を通さない「直接補助金」が交付されるなど、政府の分断策は巧妙だ。諦めてしまって「経済優先」を選択する人も少なくない。


 選挙のたびに基地への賛否が焦点となり、容認派と否定派が泥沼の戦いを繰り広げ、地域とともに心も分断されてきた。基地問題でしこりを生む地域社会の実像を見て育ったのがいまの若い世代だ。基地問題と真剣に向き合えば心がささくれ立つことを知った若い世代は、この問題を遠ざけるようになり、やがて「触れてはならない」という閉塞感に支配されていく。


 その分断は、匿名のネット空間では、さらに人々の心を切り裂いていく。


 コールセンターの電話受付のアルバイトをしている与那覇卓也さん(24歳、仮名)は、土砂投入の日は那覇にいた。前日からわかってはいたが、あえて現地には行きたくなかった。理由は単純だ。見るのが辛かったからだ。


 土砂投入の写真が、SNSで拡散されてくる。内臓を切り付けられたような痛みに襲われた。その日は午後からコールセンターで電話受付のアルバイトだったが、深夜に原因不明の高熱に見舞われた。心に受けたショックに身体が反応したのかもしれない。


暗闇から飛んでくる槍のネット空間


 与那覇さんには政治的な運動の経験もなく、基地問題についての活動もしたことがない。高校を卒業後、観光を学ぶためにハワイのコミュニティカレッジに進学した。そこで出会った沖縄からの移民たちの子孫が踊るエイサーや、祝い事で舞うカチャーシーを見て鳥肌が立った。沖縄で生活していたときには感じなかったウチナーンチュとしてのアイデンティティーが芽生えた。将来は沖縄のために役に立ちたいと思うようになれたのは、彼らとの出会いがきっかけだった。


 ところがハワイでの生活を始めて約1年後、車に乗っていて事故に遭い、背骨と首を骨折する大けがを負った。帰国したが半年以上もリハビリに通った。治ってからは予備校で働き始めたが、自分の身体に自信が持てなくて落ち込む。新たな刺激を求め、東京に出ようかとも考えていた。そんなとき、後に「辺野古」県民投票の会の代表になる元山仁士郎さん(27歳)から声を掛けられた。昨年3月のことだ。


 当時は翁長前知事が、辺野古新基地建設反対を掲げて国と訴訟の応酬を繰り広げていた時期だ。沖縄の民意をはっきりさせて、翁長知事の後押しになればと、元山さんは辺野古新基地建設の賛否を問う県民投票を計画していた。


「沖縄のことは自分たちで決めたい」


 そう言う元山さんの言葉に賭けてみたいと思った。


 署名集めを始めたのは昨年5月からだ。2ヵ月で有権者の50分の1に当たる2万3000筆を集めることが条例制定の条件だ。街頭に出て署名集めに奔走した。その様子がメディアで報じられると、ツイッターでの批判や攻撃が殺到した。


「中国の手先だ」


「カネをもらってやってるんだろう」


「普天間基地が固定化されるのは、お前たちのせいだ」


 よくここまで罵詈雑言を浴びせられるなと感心する。新聞に自分の写真が載ると、「あの服装、キモイ」などの暴言が浴びせられる。匿名だから、相手がまったく見えない。暗闇を歩いていて、あちこちから槍が飛んでくるようだ。本土の人間なのか、ウチナーンチュなのか。いずれにしても悲しすぎる。


 与那覇さんが、メディアの取材に応じなくなったのはそれからだ。余計な神経を使って無駄に時間を費やすことがバカらしく思えた。


 昨年9月、沖縄市のコザの街に彼の姿はあった。県知事選で玉城デニー現知事の応援で企画されたブロックパーティー(街中で踊るイベント)でラップに乗せて思いをぶちまけた。


海を埋め立ててできるものは何か 失うものは何か 色々見てきたぜ この街のリアル 目を背けたくなることもいっぱいある 同じ人間、同じ生活、同じ島で生まれた俺たち いろいろあるさ、と一言で片付けられて ふざけんじゃねえ!


 自ら招いたわけではない分断によって傷つけ合う沖縄を、自分たちの手で変えたいと思った。 


 県民投票への投票を呼び掛けをしながら糸満市から辺野古まで約80キロを行進する若者=北谷のアメリカンビレッジで


 生まれたときから基地と共存してきた世代ゆえの葛藤を抱えた若者たちが、いま、その分断を乗り越えようともがき始めている。その中心にいたのは、政治運動とは無縁の若者たちだ。彼らの胸中を追いながら、苦悩する沖縄のいまを探っていく。 (ノンフィクション作家・辰濃哲郎)