●遠回りだが文学世界からの発信をみておく
前回、安楽死容認先進国であるオランダなど、海外の動向から眺めてみたいと予告したが、安楽死に関する議論などを脈絡なく見ていくと、どうも日本国内のこの問題に関する議論は、医療関係者や福祉関係者とは違うポジションにいる人たちで盛んになっている、あるいは無責任な「提案」のような形で狭い部分で議論し、それをもって社会化しようとするやや未熟な企図さえ感じる情勢がみえてきた。
そこで、今回は少し回り道になるが、国内の安楽死、関連論議を整理して示し、それゆえに、全国民的な共通基盤での議論、それも熟された議論が必要なことを確認しておきたい。 こうした整理が必要な理由は、医療や福祉の現場では、「死の選択」も、「診療の選択」、あるいは誤解を恐れずに言えば「究極のケア選択」の範囲内に入りつつあり、オランダをはじめとする海外の動向は、そうした討論を経たうえで、まず医療関係者に一定の考え方が定着しつつあるという前提があり、医療が「関与すること」を重視するという点では、ある意味「医療倫理」が機能しているともみえるからだ。日本では、そうした議論はまだまともな場さえ用意はされていない段階だ。
これも前回に少し触れたが、日本の医師は、例えばがんのターミナルケアの施設で「無治療」という選択肢をとることすら悩む。無治療は、相当に広義に解釈すれば「安楽死」かもしれないが、しかしゆっくりと自由に死ぬ権利を患者に保証することでもある。「死ぬ権利」も人間にあるとするなら、それをサポートする技術も医療である(無治療の判断も含めて)という解釈は成立するかもしれない。安楽死は、そうした一定のモラル、あくまでも患者の自由な意思が尊重され、それを医師が科学的に管理するという構図を医療側も患者・家族、国民も誤解なく共通の言語で確立されなければならないはずなのだ。
日本の状況が、オランダなどに遅れていると判断してはならない。「ゆっくりと自由に死ぬ(最期を生きる)」死生観にも、日本の医療は向き合おう、尊重したいと考えている。だからこそ、「平穏死」などという言葉が編み出されている。
●ちょっと心は動く
筑摩書房のPR誌「ちくま」の2018年1月号に文芸評論家の斎藤美奈子が「安楽死にあなたは賛成? 反対?」という評論を寄せている。「ちくま」における同氏の連載は毎回3冊の本をピックアップして、共通するテーマを論じていく方法らしい。安楽死をテーマにした当回は、橋田壽賀子の「安楽死で死なせてください」、松原惇子「長生き地獄」、「長尾和宏の死の授業」の3冊を選んでいる。
橋田は言うまでもなく、高視聴率テレビドラマを何本も世の中に送り出した脚本家であり、松原はカウンセラーから出発したエッセイスト。長尾は、日本尊厳死協会の幹部であり、平穏死や在宅医療に関する旺盛な著書量で存在感を示す医師だ。こうした著書の選択は、さすがに当代トップの文芸評論家である。老いた作家の自らの主張、延命医療の現場から発信するエッセイスト、そして平穏死を奨めるが安楽死には否定的な医師という、三様の見識をひとわたり眺めている。
ここでは、ひとつひとつの著作内容の紹介は避けるが、橋田の安楽死願望について斎藤は、「彼女のような物言いは誤解を招きかねない。一歩間違えば『じゃあ認知症の人、身体が動かなくなった人に、生きている価値はないんかい』という話になる」とコメントしている。ただ、橋田は自らの考えを人に強制する気はないと述べていることも、斎藤は注記している。
松原も安楽死肯定者で、著書ではオランダの安楽死協会などへの訪問記も書かれている(松原の著書は、このシリーズで取り上げていく予定)。彼女が同書で、「最悪のときは、合法的な安楽死を選べるのは、生きる希望だ」と語るのを引いて、斎藤は「そうまでいわれると、ちょっと心が動くけど……」と述べている。この「ちょっと心が動く」ことが、現在の国内の安楽死論議のかなり正確な状況認識だと、このコラムの筆者である私は思う。 長尾は、安楽死肯定論に対し、「躊躇を覚える」「反対とは言い切れない部分がある」などと率直な懊悩を示しつつも、医師として「やらない、絶対にやらない、それはやっぱりできません」と述べていたと斎藤は示しながら、以下のようにまとめている。
「じつは私も安楽死という選択には疑問を持っている。これらの本を読むことで疑問はむしろ増大した。安楽死は、よほど自立した人しか望めない、きわめて贅沢な死なのである。一方、終末期医療や延命治療は、まず家族の問題として、次に自分の問題として、ほとんどの人が直面する。私も延命医療は遠慮したいが、何が延命治療か判断するだけでも難しい。安楽死のことなんか、考える余裕ないよ」
●宗教が存在感のない不思議さ
私は斎藤の「まとめ」は、まず終末期医療や延命医療さえ、それが何を示しているのかも理解ができていない、その先にある安楽死は考えられないということのように理解するが、その意味では、長尾が説いて回る「平穏死」も、それを理解することのほうが今は大事な時間ではないかともいえる。 また斎藤はこの評論のなかで、近年のベストセラーの上位に「ご長寿本」がランクされる傾向を示し、本を読む人も書く人も高齢化していると分析、そうした傾向のなかで安楽死に関する本が読まれているとの解釈を示す。それは、ある意味自然の流れだ。高齢化の進捗においては、極めて自然な流れのように思える。
ただ、私には、少し不勉強ではあるが、あくまでも一般的な印象として、こうした問題に宗教者の存在が薄いのではないかとの思いがある。高齢化のなかで、宗教者が思いのほかその存在感を示していないのはどういうことなのだろうか。安楽死が制度化される国が欧州に偏っているのは、宗教の衰退とまったく関係がないとはいえないし、今後紹介していく書籍や資料にもその分析を見つけることはできる。宗教離れと、死生観の多様化、ある意味、高齢化はまた人間の文化的進化の過程において、新しい何かを生み出そうとしているのかもしれないと思う。安楽死の是非論はその過程の一部分だったと後の歴史は語るのかもしれない。 「安楽死のことなんか考える余裕はないよ」と斎藤は突き放しているが、評論で取り上げる余裕はあった。取り上げざるを得なかったのかもしれない。
文芸誌はこうした「死生観」、あるいは終末期医療、延命医療が今後の主要な文学的なテーマになることを予測しているようでもある。文学界1月号での、若手社会学者とメディアアーティストが延命治療をテーマに対談したことは、19年早々に大きな話題となった。ネットでも大きな反響を読んだと伝えられている。
このなかで社会学者は、最後の1ヵ月間の延命治療は必要ないのではないか、65歳以上の人は安楽死に肯定的かもしれないなどと語っている。またもうひとりの若者は、「終末期医療の延命治療を保険適用外にするだけで話は終わる」と語っている。保険適用外の提案は後に撤回したと伝えられているが。
むろん、死生観や終末期医療、延命医療を、コストを主にして考えることには違和感が大きいが、若い人たちに国の将来に関する一定の危機感や、延命医療等に関する議論を促進させたいという意欲が存在することは大切にしなければならないかもしれない。有力な若手知識人のポピュリズムに基づく誤謬発言、未熟な分析や、死生観に対する想像力の欠如などはまともな批判があって当然だが、こうした議論の機会を若い人から奪ってはならない。
欧州の宗教離れと安楽死の肯定化との関連、財政危機と若い人の将来不安と医療コストの関連、それらを内在しているからこそ、日本でも安楽死の議論は避けて通れない。ゆっくりと自由に死んでいくことも、あるいは安楽死のカテゴリーであるかもしれない。そうした背景を踏まえつつ、次回から安楽死に関する世界の趨勢を眺めていこう。(幸)