①865年の密会


 865年、伊勢の斎宮・恬子内親王が日本史最高のプレイボーイ・在原業平の寝所へ出向き密会した。王朝最大級スキャンダルが発生した。  恬子内親王の読み方は、いろいろあるようですが、「やすこ」にしておきます。恬子内親王(推定848年頃~913)は、65歳で亡くなったから、当時としては長命です。861~876の15年間、斎宮(=斎王)として伊勢の大宮殿で過ごした。  斎宮(=斎王)に関して若干の解説を。


 天武天皇(第40代、?~686、在位673~686)は、壬申の乱(672)に勝利して即位した。兄の中大兄皇子(⇒天智天皇)は基本的に武(暴力)によって権力を掌握・維持したが、弟の大海人皇子(⇒天武天皇)は、武(暴力)を嫌ったのだろう、「天照大神=伊勢神宮イデオロギー」で天皇権力の安泰を図った。そのため、『古事記』『日本書記』の編纂を始め、伊勢神宮の斎宮制度を確立した。


 伊勢には斎宮という大宮殿が建設された。斎宮(斎王)は、天照大神と天皇の仲介者で、天皇家の処女皇女が卜占で選ばれた。「斎宮」は大宮殿を指す場合もあるし、そこのトップ巫女である処女皇女を指す場合もあります。


 斎宮(斎王)は、処女(男子禁制)であり、静寂と祈りの日々であった。伝説上の「斎宮らしき存在」には倭姫など数人いますが、歴史上明確な斎宮は天武天皇の皇女である大来皇女(661~702、斎宮在位673~686)です。天武天皇が斎宮制度を確立し、その実質的初代斎宮が大来皇女です。


 斎宮制度により、「天照大神=伊勢神宮」は、天皇家という有力豪族の一氏神の地位から、「天皇=国」全体の神の地位を得たのであった。


 なお、斎宮制度は南北朝時代に消滅しました。したがって、斎宮なき伊勢神宮は、特別な神社ではなく普通の神社となったと言えよう。


 恬子内親王の父は文徳天皇(第55代、827~858、在位850~858)である。時代は藤原北家の藤原良房(804~872)が着々と政治実権を掌握しつつあった。文徳天皇と藤原良房の仲は、かなりギクシャクした関係で、不仲と言ってよい。


 文徳天皇の女御は藤原明子で藤原良房の娘である。2人の間には、第4皇子・惟仁(これひと)親王がいた。


 文徳天皇のハーレムは「女御、更衣あまた候(さぶら)ひ給ひける」状態で、更衣に紀静子(?~866)がいた。2人の間には、第1皇子・惟喬(これたか)親王、そして、恬子内親王、他に1人の皇子、2人の皇女をもうけた。


 文徳天皇は、第1皇子の惟喬親王を愛し自分の後継天皇に望んでいたが、いかんせん紀氏は藤原北家に比べ弱小であり、藤原良房の強引な圧力で、生後8ヵ月の第4皇子・惟仁親王を皇太子にせざるを得なかった。


 文徳天皇と藤原良房の暗闘が継続していたが、858年、文徳天皇が崩御し、藤原良房は9歳の惟仁親王を天皇に即位させた。第56代の清和天皇(850~881、在位858~876)である。「惟喬親王―文徳天皇」と「惟仁親王―藤原良房」の暗闘は、藤原良房と紀名虎(紀静子の父)が相撲で決着をつけたとか、加持祈祷合戦をしたとか、いろいろな伝説を生んだ。惟喬親王のその後は、太宰師、常陸太守、上野太守を歴任した。といっても、地方へ赴任するわけではなく、京都にあって役職を勤めたということです。その後、出家して隠棲した。天皇への道を完全にあきらめ、それなりの地位に安住していたようだ。


 恬子内親王と在原業平の密会は、865年です。恬子内親王の兄・惟喬親王も、母・紀静子も、「あきらめの悟り」の心境に到達していたと想像します。  それでは、密会の相手側、在原業平(825~880)は、どうか。祖父は第51代の平城天皇(へいぜい、774~824、在位806~809)です。父は、平城天皇の第1皇子、阿保親王(あぼ、792~842)。阿保親王は「天皇になれる可能性が大」の血筋であります。


 しかし、阿保親王には、大きな不運が2つ訪れた。ひとつは、810年の薬子の変。本人は何もしていないのに、連座して大宰府へ左遷された。824年にやっと京へ戻った。


 平穏な貴族暮らしが続いたが、842年の承和の変では、クーデターの誘いを受けたが、それに与せず、表沙汰になって大事件にならないように、密書を書いて皇后に渡した。クーデターの張本人と皇后は、同じ橘氏であり、皇后から「馬鹿なことはやめなさい」と言ってもらって、事件を未然に回避しようとしたのだ。ところが、皇后は密書を開封せず、そのまま藤原良房に渡してしまった。それで、事件発覚、悲惨な結末。阿保親王は自分の思慮不足の行動が悲劇をつくってしまった、とノイローゼになって自殺したようだ。あるいは、ノイローゼから気力喪失、衰弱死かも知れない。


 阿保親王の子が在原業平である。


 こうしてみると2人は似たような環境にあることがわかる。恬子内親王の兄は、天皇になれたかも知れない。在原業平の父は、天皇になれたかも知れない。しかし、それは過去の思い出に過ぎない。「あきらめの悟り」が、現状の貴族生活を保証している。そんな思いを2人は共有しているのでは、なかろうか。


②『伊勢物語』第69段「狩の使」


 2人の密会の話は、『伊勢物語』第69段の「狩の使」に載っています。その現代訳を、注釈を交えて書いてみます。


「むかし、男ありけり」(言うまでもなく、男とは在原業平です)。その男、伊勢の国に、狩りの勅使として派遣されました。伊勢の斎宮の親(つまり恬子内親王の母・紀静子)が「つねの使いよりは、この人よくいたはれ」と言い送った。なぜ、母・紀静子は娘・恬子内親王に、そう言い送ったのか。『伊勢物語』の82段「渚の院」を読みますと、恬子内親王の兄・惟喬親王と在原業平は、深い親交があったことがわかります。それに、前段で述べたように、惟喬親王は「天皇になれそうで、なれなかった」、在原業平の父も「天皇になれそうで、なれなかった」という境遇で、両者は「あきらめの悟り」の人であった。そんな思いが、母・紀静子にはあったのであろう。「親の言いなりければ、いとねむごろにいたはりけり」。


 朝は狩りに送り出し、夕方に帰ってくると斎宮の宮殿に来させた。2人はすぐに「ねむごろに」なりました。2日目の夜、男は、強く「あはむ」(逢おう)とラブコールする。女もまた、絶対に逢わないとは思わないが、人目が多いので逢えない。正使なので、遠くに宿をとっているわけではない。(男は)女の寝屋の近くにいる。女は周囲が寝静まるのを待って、子一つ(午後11時から11時半)、「男のもとに来たりけり」。


 当時は、男が女のもとへ通うものであって、夫婦であっても男が女のもとへ通うものである。『昔人の物語(34) 藤原道綱母』で書いたように、病気の夫を案じて妻が通うことでさえ、わくわくドキドキの刺激的行動であった。


 男の方は、(女を思って)寝られないので、外を見て横になっていた。すると、月がおぼろな時分、小さな童を先に立てて人が立っている。


「男、いとうれしくて、わが寝る所に、率いて入りて、子一つ(午後11時~11時半)より丑三つ(午前2時~2時半)まであるに、また何ごとも語らはぬに帰りにけり」。3時間、何も話さないのに帰っていった……誰しも、そんなことはなかろう、と想像します。


 男はとても悲しく、寝ないでいた。早朝、どうしたわけだろうと聞いてみたかったが、自分から女へ使いを出すのも、はばかれるので、悶々としていると、夜が明けると、女のほうから和歌が届いた。


 君や来し われやゆきけむ おもほえず 夢かうつつか 寝てかさめてか


 意味は、君が来たのか、私が行ったのか、よく覚えていません。夢だったのか、現実だったのか、寝ていたのか、目が覚めていたのか……ということで、要するに、恍惚のブルースでしたということです。


 その歌に対して「男、いといたう泣きて詠める」


 かきくらす 心の闇に まどひにき 夢うつつとは 今宵さだめよ


 意味は、心がかき乱れて闇の中に迷いこんでしまいました。夢か現実か、今宵また会って確かめましょう。


 和歌を送って、男は狩りに出た。野を歩いても心はうつつ、今宵は周囲が寝静まるのを待って、一刻も早く会おうと思っていた。ところが、伊勢守兼斎宮寮頭の男が、狩りの正使が来ていると聞いて、一晩酒宴を開いた。だから、男は女に逢いに行けなくなってしまった。翌朝は尾張国へ出発するスケジュールなので、男は血の涙を流したが、結局、逢えずに終わった。


 翌朝、女から歌が書かれた盃の皿が送られてきた。それには上の句だけだった。


 かち人の 渡れど濡れぬ えにしあれば


 意味は、徒歩で河を渡る人ですら裾が濡れない程度の、そんな浅い縁でしたので…… 


 男は、その盃の皿に松明の燃え残りの炭で、下の句を書き足した。


 またあふ坂の 闇はこえなむ


 意味は、また逢坂の関を越えて、あなたに逢いに来ましょう。


 そう詠んで、尾張国へ山を越えて行った。この斎宮は清和天皇の御時、文徳天皇の御娘、惟喬親王の妹、恬子内親王です。


③懐妊


 数ヵ月後、斎宮・恬子内親王が懐妊した。前代未聞の大スキャンダルである。不祥事発覚を恐れた斎宮官僚は、生まれた子を伊勢権守兼斎宮頭の子の養子にした。それが高階師匠(たかしなもろひさ)であるされている。本当に秘密の一夜があったのか否か。子の父は在原業平なのか、別の男ではないか。実に1000年間、議論が続いている。巷のミーちゃんハーちゃんのひそひそ話ではない。


 まず、書道の大御所である三蹟(=三跡)のひとり、藤原行成(972~1028)の『権記』(藤原行成の日記)がある。藤原行成は、高階氏は「斎宮の事」で伊勢神宮との相性がよくないと書いた。そこから、当時の一般的認識が、恬子内親王と在原業平の密会の子が高階師匠であるということがわかる。「藤原行成が言っているのだから、間違いないだろう」ということになった。


 しかし、古代史学者、王朝文学者は、いろんな説を発している。学問的探求心というか、何と申しましょうか、お堅い学者も、やはり男と女のスキャンダルに関心を寄せるということか。


 なお、『伊勢物語』の書名は、在原業平が、神聖にして侵すべからずの伊勢の処女斎宮とナニしちゃったという王朝最大級スキャンダルによって、その題名となったのであります。 


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 太田哲二(おおたてつじ)  中央大学法学部・大学院卒。杉並区議会議員を8期務める傍ら著述業をこなす。お金と福祉の勉強会代表。「世帯分離」で家計を守る(中央経済社)など著書多数。