週刊ポストが『「嫌韓」よりも「減韓」、「断韓」を考える 厄介な隣人にサヨウナラ 韓国なんて要らない!』という巻頭特集で、“差別的記事”という批判を浴び、編集部の謝罪に追い込まれた。月刊誌『新潮45』が1年前、LGBT差別の記事を載せ、事実上の廃刊となった事例を思い起こさせる騒ぎである。


 改めてポストの特集に目を通すと、日韓の関係を“断つ”ことで、北朝鮮がソウルを「3日で占領できる」とか『サムソンのスマホもLGのテレビも現代の自動車も作れなくなる』とか『東京五輪ボイコットなら日本のメダル数は2桁増⁉』とか、隣国への敵愾心を露わにした記事が並んでいる。とりわけ『怒りを抑えられない「韓国人という病理」「10人に1人は治療が必要」』という記事はもう、韓国国家への批判でなく、人種差別そのものの記事だった。


 それでも過去10年ほど、この手の記事は『Hanada』『Will』『正論』といった“専門誌”で毎月のように見てきたし(もはや広告でタイトルを斜め読みするだけで、中身は読む気になれないが)、週刊ポストや週刊新潮でもちょくちょくお目にかかってきた。そんな日常で感覚が麻痺してしまったのか、個人的な印象では今回の特集を“特別にひどい”とは、正直思わなかった。“いつも通りの嫌韓ヘイト”と感じただけだった。


 ではなぜ、今回はここまでの大騒動になったのか。ホワイト国外しをきっかけにテレビの情報番組が連日延々と“韓国批判特集”を続けていて、さすがにウンザリ感が溜まってきた面もあるだろう。だが、何よりも今回は、ポストでリレー連載を執筆する作家・深沢潮さんが「差別の扇動だ」と連載降板を表明し、同じ連載の執筆者・葉真中顕さんも編集部に抗議。思想家の内田樹さんは版元・小学館との仕事を断つことを宣言し、柳美里さんもSNSで批判の声を上げるなど、“内輪からの批判”が沸き起こり、まさにこの点で、編集部には“異例の事態”となったのだ。


『Hanada』や『Will』などは読む側も書き手も、ああいった論調を愛好する“同好の士”が集まる“専門誌”だが、業界屈指の大手出版社・小学館の刊行物ともなると、そこまでマニアックな偏向はできず、とりあえず幅広い間口をもつ“総合週刊誌”という看板を掲げてきた。ところが近年はもう、とめどない雑誌不況のなか、取材に重きを置く総合誌のクオリティーはなかなか維持できず、安上がりなシルバーセックスと健康記事、そして“終活特集”と、高齢者にターゲットを絞るスタイルが各誌に広がっている。ポストはそのうえに“高齢者のネトウヨ化”を当て込んでか、「嫌韓」も柱に加えるという、大手らしからぬ誌面をつくっていた。売るためには仕方がない。まさに“貧すれば鈍す”と評すべき状況になっていたのである。


 編集スタッフがみな、極右イデオロギーを信奉し、信念をもってヘイト記事をつくるのなら、そのほうがまだ救いがある。しかし、ポストの版元は天下の小学館であり、その手の記事が内包する問題点、不道徳性は十分に理解するレベルの人材が揃っている。それでいて“売るためにやむを得ず”ヘイト特集を売り物にする。そのアンバランスがいかにも痛々しく、情けないのである。


 今回のポストの“謝罪”は、昨年の『新潮45』と比べても曖昧でおざなりだ。果たして誌面は変わるのか変わらないのか。どちらの可能性も十分あると思う。ほとぼりが冷めたころ、“ヘイト路線”に舞い戻るかもしれない。ただその場合、これまでのような中途半端なスタンスは取れないだろう。“まともな記事・執筆者”と、ヘイト記事の混在はもはや困難だ。リベラルな執筆者の離反を招いてでもヘイト路線に純化するか、大手としての体面を守り、ヘイトを排除するか。もう少し旗色を鮮明にする必要に迫られるはずだ。


 あるいは第三の道もある。どうあがいても業績回復が見込めないならば、すっぱりと見切りをつけ、『新潮45』のように、雑誌の刊行そのものをやめてしまうのだ。経営判断としては一番、合理的かもしれない。何にせよ、業界全体がズブズブと沼に沈んでゆく断末魔の光景を見るようで、ため息を禁じ得ない。


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三山喬(みやまたかし) 1961年、神奈川県生まれ。東京大学経済学部卒業。98年まで13年間、朝日新聞記者として東京本社学芸部、社会部などに在籍。ドミニカ移民の訴訟問題を取材したことを機に移民や日系人に興味を持ち、退社してペルーのリマに移住。南米在住のフリージャーナリストとして活躍した。07年に帰国後はテーマを広げて取材・執筆活動を続け、各紙誌に記事を発表している。著書は『ホームレス歌人のいた冬』『さまよえる町・フクシマ爆心地の「こころの声」を追って』(ともに東海教育研究所刊)など。最新刊に沖縄県民の潜在意識を探った『国権と島と涙』(朝日新聞出版)がある。