サザエさんの磯野波平が50代半ば、という設定だったと知り(Wikipediaによれば54歳)、驚かされたのは比較的最近だが、少年時代に思い描いていた定年間際(昔は55歳定年が一般的だった)のイメージを振り返れば、確かにあの程度の老け具合に見ていたように思う。その後も自らを「若者」と思っていた時代は、60歳以上はみな「老人」で一括りにしていたが、自分自身がその年代に接近するにつれ、「それ以上」の年代も、5歳も差があればまるで違うことがようやくわかってきた。
最近、戦後史モノの取材にのめり込んでいて、80代半ばの人たちを訪ね歩いている。さすがに平均年齢を超えると、バタバタと他界してしまう人が増え、「1年前に会っておけば……」と悔やむことが少なくない。それでも、認知症が進行してしまった人は別として、自身の専門や体験に関しては、何歳になっても明晰に話せる人が多いことに感心する。平均的読書量は今の50代と比べると、おそらく2倍、3倍にもなるだろう。社会や文化、政治、歴史にまつわる世間話でも、同世代相手よりむしろ奥深い。
福祉施設などで介護スタッフから赤ちゃん言葉で話しかけられ、リハビリ的なゲームに興じる老人を見ていると、なんとも切ない気持ちになるのだが、人生の先輩として敬意を払ったうえ、各人の体験や見聞を「時代の証言」として拝聴するならば、本当に価値ある話をする人が多い。問われるのは、老人に“話しかける側”のレベルなのだ。
今週の週刊新潮で『独占手記 6度目の「がん闘病」「人工透析」を初告白 「梅宮辰夫」芸能界への遺言』を読み、改めてそう思った。内容の大半は、闘病の苦労話である。それ自体は当然のことだろう。ただできるなら、昭和の映画界の話を中心に、戦中派の生きてきた時代のあれこれに、もう少し話題を広げてほしかった。
正直、梅宮といっても思い浮かぶのは『仁義なき戦い』などの作品と、娘アンナやその前夫との関係をめぐってワイドショーネタになったこと、晩年は食道楽の好々爺としてバラエティ番組に出ていたこと、その程度のイメージだが、手記のあちこちに顔を出す断片的表現には、この世代ならではの「まともさ」が垣間見える。聞き手がもう少し下調べをしていたなら、話はもっと面白くなっていたはずだし、当人も身を乗り出して語ったに違いない。
たとえば梅宮は「民間療法を進める人もいるけど、僕は同意できません」と現代医学への信頼を語り、「親父が医者だったことも影響していると思います」と付け足している。私は少し前、梅宮の家系を取り上げたNHK『ファミリーヒストリー』の番組で、献身的な町医者として住民に慕われる父親が描かれていたことを思い出した。
「いまの芸能界が心底、面白くない」という言葉にも共感した。「商店街をブラついて、アンパンだか羊羹だか(略)店主の能書きをひとくさり聞いて『美味しいですねぇ』なんておべんちゃらを言う。これは俳優の仕事じゃないですよ」「ダイヤの原石もバラエティ番組の『ひな壇』に並んだら擦り減って輝きを失う(略)制作スタッフと同じで、番組を成立させるための『放送要員』でしかありません」。
週刊誌が老人向け媒体になった、と言われて久しい今日この頃。ならばなおのこと、年老いた著名人のインタビューは、「より深く」「幅広く」してほしい。問われるのは、インタビュアーの力量と事前準備である。
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三山喬(みやまたかし) 1961年、神奈川県生まれ。東京大学経済学部卒業。98年まで13年間、朝日新聞記者として東京本社学芸部、社会部などに在籍。ドミニカ移民の訴訟問題を取材したことを機に移民や日系人に興味を持ち、退社してペルーのリマに移住。南米在住のフリージャーナリストとして活躍した。07年に帰国後はテーマを広げて取材・執筆活動を続け、各紙誌に記事を発表している。著書は『ホームレス歌人のいた冬』『さまよえる町・フクシマ爆心地の「こころの声」を追って』(ともに東海教育研究所刊)など。最新刊に沖縄県民の潜在意識を探った『国権と島と涙』(朝日新聞出版)がある。