●医療費論とリンクした議論はするな 


 安楽死を考えることは、「安楽死法」の制定が可能かどうか、を検証していく必要が大きいし、早道かもしれない。というのも、すでに制度として、何らかの形で「安楽死」的なものが整備されている国や地域が存在しているし、それらがどのような経緯と議論を経て整備されているのかをみることで、本邦における安楽死に関する議論の整理が可能かもしれないと思うからだ。尊厳死や平穏死という議論をいつまでもやっていては、安楽死に関する議論の入口にも立てない。 


 そういう動機を持って、今回、「先進国」とのイメージがあるオランダをはじめとするベネルクス3国の状況を中心にした本をいくつか読んだ。そのなかで、日本おける尊厳死(平穏死)と安楽死の議論が少し異様に展開されていることに気づいた。  結論から先に言えば、「尊厳死」のほうが、その制度化、あるいは「罰せられないことを前提にしたうえでの」常態化は、論議が未熟なまま社会に適合してしまうリスクが大きい、あるいは動機がたいへん不純なのではないかと思える。


 後述するが、オランダなどでの議論の経過をみると「すべり坂論証」なども討論され、例えば非自発的安楽死希望者を増やしてしまう恐れ、つまり本来の「苦痛からの解放」という個人の権利から逸脱した方法論としてまかり通ってしまうのではないかという危惧が大きいのだ。


 十分な検討を経ずに、「国民的合意」に至ってしまう恐れはないか。例えば、オランダの2010年の安楽死に関する報告書では、「延命医療」と「緩和医療」について触れるなかで、延命医療に関しては「倫理的ジレンマが大きく存在する」ことを明確に指摘している。


 日本で行われている尊厳死あるいは、議員連盟で法制化が目論まれている尊厳死法の必要根拠は、大きな声では言わないまでも「延命医療」に対する批判、あるいは嫌悪が含まれているといっても過言ではない(当事者たちはたぶん否定するだろうが)。延命医療批判は、その第一の動機は、重篤な患者の苦痛の除去・解放ではなく、容赦なく言ってしまえば、医療費の適正化策である。


 前回にも触れたが、今年1月に文学雑誌で行われた若手論客による対談では、医療費、国民皆保険制度の維持の観点から、延命医療への忌避論が声高に語られ、そのロジックの延長のなかで安楽死論が展開されている。しかし、今回のオランダなどでの安楽死に関する議論をみていくと、医療費軽減を基本的動機として安楽死が考慮されていった道程は見つけにくい。元々に多少あったとしても、その痕跡は消えているか、議論するまでもないとの認識が行間に読み取れる。


 明確にしておかなければならないのは、費用の縮減のために、死生観や生の問題、患者の権利を弄ってはならないということである。言うまでもなく、公的健康保険制度は互助制度だ。病んだ人はこれによって健康な人から療養に係る費用を支援してもらう。制度は支援するために機能する。しかし、制度がその維持のために、患者の療養支援を削減して、いわば患者から支援(保険料の据え置きや低減化)してもらうことが制度として成立するのか。本末転倒の例え話にしかならない。


 こうした問題は、単に延命医療の世界だけの話ではない。医薬経済3月1日号「Pharmacoeconomics」におけるリベート支払いが歪めるUS薬価をテーマにしたレポートでは、米国のインスリン薬価の動向から、薬局給付管理会社(PBM)が患者が使うインスリンに関して多額のリベートを目的に低価格製剤を除外する政策を展開、患者のリベートで保険料をアシストする形が表面化した。高薬価のために、インスリン患者は古いヒト型インスリンに回帰する現象もみられているという。


 PBMの問題は、ある意味米国らしい自由な政策のツケであり、制度基盤の維持のためにはそれも許されるという側面がありそうだが、「尊厳死」の場合には、その美名によって患者の命を削り、費用減に転換するという身も蓋もない構図がぬらりと現れそうではないか。


 こうした、よく考えればあからさまな命の経済効率化が、恥ずかしげもなく語られるのはなぜなのか。そこには、日本には「患者の権利」がどこにも明文化されておらず、またその意識づけがスポイルされてきたことが関わってくる。安楽死の議論の際にはこの「患者の権利」が前提になければならないが、そのことは以後の章で現状を詳しく見ることにする。


●「すべり坂」の危惧と論証の重要性


 その前に、安楽死のような制度が容認されると、それがいつの間にか独り歩きしてしまうのではないかとの懸念は、素人であっても気づく。オランダでは、これを予防的に論議し、「すべり坂論」というテーマとして確立されている。  ことほど左様なのだが、オランダなど安楽死容認国に関する論証やレポートを読むと、その制度の成立の仕方に基本的な思想的背景というか、立場の置き方に微妙な落差があることに気づかされる。これを伝えてくれる専門家は、総じてその点に注意を向けている。


 例えばベネルクス3国といっても、そこには微妙な仕組みの複雑度の違い、ことに自死に対する態度の慎重さは少しずつ違う。制度化はしていないが、自死を暗黙に認め、ツアーまでが催行されるというスイスも、概念の置き方から違っている。なお、スイスの安楽死ツアーは日本からの参加者もあると聞く。これがメディアで問題にならないのはどうしてなのか。 「すべり坂論」に話を戻そう。ベネルクス3国やスイス、米国オレゴン州、カナダなどの実態から入るのがノーマルであることはわかっているのだが、この稿で考えていきたいのは、財政規律論からの延命医療抑止論、緩和医療への誤解(浅慮)が同調圧力となり始めていることに対するアンチテーゼを示していきたいからであり、その意図のためには、容認派の国でも、非自発的な安楽死には厳しい姿勢を予防的に取り込んでいることを明らかにしておきたいからだ。


 つまり、安楽死容認(こういった表現も実は危険だということも承知しているが)の国々は、患者の権利と、耐え難い苦痛からの解放を動機としているのであり、高齢者が増えたがために医療費が増大しているから、その蛇口を細めるために安楽死や尊厳死を言い出したわけではない。安直に安楽死に向かわせない論理も成立していることを、この稿の常識として重大な柱に据えておきたい。


 「すべり坂論」は安楽死反対論者の有力な根拠だ。ドイツでは「ダム決壊論」とも言われ、ドイツ国内では第2次大戦の記憶とも相まって「意思に反した自発的安楽死」に拡大する可能性を懸念する空気が強い。欧州といえども、世論はさまざまであり、その国の歴史的過程もこうした議論と制度の成立に深く関わる。ただ今回は、オランダなどの容認国、地域の歴史的背景までには踏み込む余裕は筆者にはない。


 『安楽死法:ベネルクス3国の比較と資料』(2016年刊、東信堂)を監修した盛永審一郎氏は同書で、「すべり坂論」について、「自発的安楽死、つまり末期癌患者の耐えがたい苦痛からのがれるための、患者の自律的な死の要請に基づく安楽死はそれだけで理解すると倫理的受け入れ可能かもしれない。しかしこれを許容すると、必然的に、倫理的に許容しえないとみなされている安楽死、たとえば後期認知症の患者のような判断能力を欠いた患者の非自発的安楽死や、ナチスドイツによる障害者の安楽死のような反自発的安楽死までもが許容されることにつながる。だから議論されている最初の一歩も許容されてはならないと逆推論される。そうでなければ、もはや安楽死はいかなる支えもない『斜面=すべり坂』におかれるだろうというもの」と、ドイツの倫理学・哲学者のM.クヴァンテの説明を借りながら解釈を示している。


 安楽死の容認、そこからつながる制度化は、単なる「安楽死を認める」ということではなく、倫理的にあるいは社会的基盤づくりに関して十分な論議が必要であることが「すべり坂論」からうかがえる。  こうしてみてくると、安楽死には障壁があるから尊厳死ということで日本では合意を得ようという考え方が、非常に浅薄にみえる印象を受ける。今や、国内では、「尊厳死」「平穏死」が自由に歩き出し、徐々に斜面を形成しているのではないか。尊厳死での「すべり坂」を座視していいのか。それなら、いっそ、安楽死の議論を序論から始めたほうがいいのではないか。次回、この「すべり坂論」について、オランダの検証結果をみながら考察していこう。(幸)