もうひとつの高い壁「シニア世代」との軋轢


 沖縄県宜野湾市の沖縄県宜野湾市の大学に通う金城海斗さん(25、仮名)は、頭を抱えたまま高速道路のインターチェンジを下りた車内で2時間も閉じこもり、呻吟していた。 


 昨年12月14日昼前、米軍新基地建設中の辺野古の海に土砂が投入されたとき、金城さんは大学で授業を受けていた。昼休みに地元紙がネット配信した写真を見て、体中がブルブルと震えた。その2ヵ月半前の県知事選で、辺野古の埋め立てに反対する玉城デニー現知事が過去最多の得票で当選を果たしたばかりではなかったか。


 ひとたび土砂が投入されてしまえば、途中で工事が中止になったら国に原状回復の義務が生じる。そんな無様なことを安倍晋三政権がするわけがない。国は本気で工事を進める気でいる。情け容赦ない巨大な国の意思を感じた。


 辺野古に行かなくてはならない。そう思ったものの、4限目には大切な試験がある。だが、試験など受けられる精神状態ではなかった。午後2時過ぎ、ひとり車で辺野古へと向かった。沖縄自動車道の終点である許田のインターを降りて車を止めた。現地の様子を、座り込みに参加している仲間にLINEで尋ねると、土砂を積んだトラックの搬入が終わったので、もう引き上げるところだという。いまから現地に向かっても、ひとりで悔しさに堪える自信はなかった。


 車の中でFacebookへの投稿を考えた。これまで辺野古を巡る問題で「反対」を鮮明に唱えたことはない。自分の立場を公に宣言することに躊躇する。ネットでどれだけ叩かれるかと思うと心が滅入る。でも、今回は大きな節目だ。いま投稿しないと、後悔するのは目に見えている。


 2時間スマホに向かって何度も文字を打っては消した。基地を容認する人の心を逆なでするような文章になってはいないか。独りよがりになってはいないか。完成した文章を信頼する友人に見てもらうために、宜野湾に戻った。 「これなら大丈夫」  お墨付きを得て投稿した文章だ。


「政治の都合で分断される自然、地域、ひと。政治って何だろ。沖縄で生きてるおれらだって国と対峙したい訳じゃない。基地問題は沖縄の問題じゃなくて、日本全体の問題っていうあたりまえの話がしたいだけ。どういう手段で伝えていけばいいのかずっと考えてるけどさすがに限界こえる。『沖縄に住んでないから。当事者じゃないから』って理由で無意識に他人事としないでほしい。当事者は辺野古区でも、名護市でも、沖縄県だけでもない。『安全保障のため』とうたって正当化する米軍基地は日本に住んでるすべての人が当事者であって、考えなくちゃいけないことを忘れないでほしい」 


 表現は抑え気味だが、「さすがに限界こえる」の言葉に、思いを込めた。本土の無関心に対する怒りだ。米軍専用施設の7割が集中する沖縄が、さらなる負担を引き受けることの意味を、本土の人はわかってくれているのだろうか。安全保障の問題は沖縄だけでなく、日本全体で考えるべきことのはずだ。


 翌日、友人と辺野古へ行ったが、座り込みのデモ隊の前は素通りした。何をやっても無駄という無力感と同時に、マイクを握らされたときに何を言っていいのか、心の整理がついていなかったからだ。


ラップに込めた鬱積した不満


 私が、そんな彼と初めて会ったのは知事選最中の昨年9月、沖縄市のコザのメインストリートだ。米軍施政下の沖縄で復帰運動が高まっていた70年、米軍人の乗った車が住民をはねた事故に端を発し、日ごろの鬱憤が溜まった住民が米軍車両を焼き払う暴動が起きた地域だ。 


コザのストリートで開いたブロックパーティー。思いをラップにのせて。


 知事選に出馬していた玉城デニー陣営の選挙を手伝っていた彼らが、ここで選挙を盛り上げるために開いたブロックパーティーだった。街のストリートの一角で生演奏に乗って踊るブロックパーティーは、かつて米兵らが飲み明かしたこのコザの街で、よく開かれていたという。


 すっかり寂れてしまった街角に、サックスにドラム、シンセサイザーがジャズを奏でる。見物客もほとんどないが、彼らの独演会は続く。生演奏に乗ってマイクを握り、それぞれが思いをラップに乗せて、即興で言葉を紡いでいく。モヒカン刈りの金城さんが、語り掛けるように歌い始めた。


「さっき言ってた米兵の問題、米兵だって俺ら大事にしてる、奴らも結局システムの犠牲者、奴らを思うからこそ、俺らのなかに共感して、どういう選択肢アプローチ作る、それを『若いから』というような、表現で片づけられたくない」


 最後の「若いからというような表現で片づけられたくない」の言葉が、彼の心に鬱積した不満の源であると知るのは、もう少し後からだ。


 金城さんは、18歳の時から米軍基地のバーで働いていた。海兵隊には、貧しいゆえに志願してきた兵士が意外に多い。大学に通う財力もなく、働き口も乏しい田舎町の出身者たちだ。呑んだり踊ったりする米兵の友達が、急に人が変わったようになることがある。何ヵ月にも渡る洋上訓練を終えた後だ。遊びに誘っても外へ出てこなくなる。部屋で座り込んで頭を抱えたまま、酒浸りになっていく。厳しく非人道的な訓練に心を蝕まれるのだろうか。明らかに心を病んでいるのがわかる。


「彼らも被害者なのかもしれない」と思った。


「先生の言ってることは、おかしいです」


 金城さんは沖縄国際大学に通う学生だ。これまで政治運動に携わったこともない。その彼を政治の世界に駆り立てる契機となった講義がある。


 辺野古新基地建設には反対の立場を鮮明にしている佐藤学教授の講義だ。「普天間基地の危険性除去は必要だが、なぜ同じ県内の辺野古に基地を作らないといけないのか。県外、国外への道を模索すべきだ」と話す佐藤教授に反発した。以前にネットで読んだ記憶がある。かつて米軍は民家のない畑の中に普天間基地を作ったが、後から米軍相手に商売をする人たちが集まってきたために民家が密集した。普天間が世界で最も危険な基地と言われる理由だという話だ。金城さんは、その言説を信じていた。


「先生の言ってることは、おかしいです」


 佐藤教授から、普天間飛行場のあった場所には村役場や国民学校があった村の中心部だったと説明されるが、納得できない。自分の手で郷土史などに当たって、再び佐藤教授のもとを訪れた。米軍が撮った航空写真が証拠だ。そこには民家など写っていない。だが、佐藤教授は別の写真を示す。同じ米軍が上空から撮った写真だが、家屋や学校、役場などの建物が写っている。金城さんが示した写真は、住民が収用所に入れられていた間に家屋を壊して整地した後の写真だったようだ。


 佐藤教授の言う通りであれば、「米軍基地の周りに勝手に住民が集まってきた」というネット情報は完全なフェイクということになる。強制的に米軍に奪われた土地を返還してもらう代わりに、同じ県内の辺野古に基地を作るというのは極めて理不尽に思えてきた。さらに勉強を進めるうちに、沖縄の置かれている状況がいかにも理不尽に思えてきた。沖縄は差別されている。


 その佐藤教授を訪ねると、金城さんのことはよく覚えていた。「ネットの誤った情報を鵜呑みにして基地に対する知識が偏り、意識が形成されることを正そうと思っても、今の学生はほとんど自力で調べようとしない。そんななかで金城君は、自分で調べて何度も訪ねてきた。5時間は議論したと思う。彼がネットの誤りに気づいて基地問題に関心を示してくれたことは、教員冥利に尽きた」と振り返る。


辺野古に響き渡る暴言・怒声


 金城さんは14年、大学2年のときに休学して全国の旅に出た。北海道から九州まで、三線(さんしん)を抱えて原発や米軍基地を抱える地域をリストアップして、ヒッチハイクで巡った。


 原子燃料サイクル施設を抱える青森県六ケ所村では、補助金で建てた立派な建物やクーラーのついたバス停まであった。豪華な箱ものが建つ一方、外に出れば人通りがほとんどない寂れた街だ。不満を抱えながら賛成・反対で分断されている住民。その構造は、沖縄を見ているようで背筋が凍る思いがした。福島県のゲストハウスで知り合った人には、「沖縄は基地の代わりに、多額の補助金をもらっているじゃないか」と揶揄された。猛然と反論をして、気まずくなってしまった。


 原発や米軍基地を抱える地域を巡ってわかったのは、分断された人々の闇と光だ。だが、どうしたらよいかの答えを、誰も持っていない。ひるがえって沖縄。政治によって分断された社会は、言葉が先鋭化する一方で、若者は対立することを恐れたり、面倒くさくなって考えることを放棄してしまったりしている。


「でも、動いても全然変わらないという意識が嫌で、オレ、模索したんすよ」


 彼は、座り込みの最前線となっている辺野古のキャンプシュワブゲート前に何度も通った。そこで直面したのが、もうひとつの分断だ。


 初めて訪ねたのは4年ほど前だ。拡声器から怒声が周囲に響き渡っていた。


「お前ら、恥ずかしくないのか!」


 ゲート前に陣取る座り込みのグループのリーダーが、フェンスの向こうにいる米兵や日本人の警備員らに、汚い言葉を浴びせている。沖縄の分断を突きつけられたような気がして、違和感を覚えた。声を挙げるべき相手は、彼らではないはず。若い世代の基地問題への無関心が指摘されているが、同じ世代の友だちを誘ったとしても1度目はともかく、2度目は断られそうだ。違和感が反感につながっていくのに時間はかからなかった。


 座り込みのリーダーに「言葉がちょっときついです。これでは若者はなかなか集まらない」と提言してみたたが、やんわりと拒まれた。


世代間の深い溝ができたわけ


 辺野古の座り込みは、新基地建設のためのボーリング調査が始まった2004年からずっと続いている。県民の4分の1が亡くなった沖縄戦を生き延びた世代や、戦後の米軍施政下には土地が奪われ、米兵の横暴を目の当たりにしてきた世代。そして熱望していた本土復帰を果たしながら、基地は押し付けられたままで失望を味わった「戦後世代」にとって、この場所は闘いを象徴する砦でもある。彼らにしてみれば、20代そこそこの若者に文句を言われる筋合いはない。


 だが、彼は諦めなかった。分断された島での対立をなくしていくためには、自分が世代間をつなぐ役回りになれれば、と思った。誰もが通いやすい場であってほしいと、鍋とコンロをゲート前に持ち込んで仲間とともに鍋パーティーを開いてみた。通りがかりの米兵にも声を掛け、音楽をかけて一緒に踊る。ふと見ると、フェンスの向こうにいた米兵もリズムを刻んでいる。だが、次の瞬間、リーダー格の男性に一喝された。


「お前ら、ここは遊ぶ場所じゃねえぞ!」


 それでも彼は繰り返し訪ねて行った。彼の得意な三線を持ち込んで、喜納昌吉が作詞・作曲した「花~すべての人の心に花を~」を歌ったこともある。 「君、なかなかいいね」。やがてリーダーも認めてくれるようにはなった。だが、こういたシニア世代から「お前の考えは甘い」「もっと勉強しろ」などと何度も突き放されてきたというわだかまりは、なかなか解けるものではない。


 私には、シニア世代のこういった思いは、理解できなくもない。座り込むたびに警察官に強制排除される姿は、見ているだけで身につまされる。それを長い間続けていたとなれば、若い世代の進言など戯言でしかない。彼らの身体を張った闘いが沖縄の過去を支え、いまを築いてきたことは言うまでもない。だが一方、彼らの古い闘争スタイルや言動が、若い世代との間に深い溝を築いてしまっていることも事実だ。


呪縛を取り払って感じ始めた手応え


 昨夏以降、金城さんには何度も会って話を聞いている。同年代の若者10数人からインタビューもしている。苦難をかいくぐってきたシニア世代と彼ら若者との決定的な違いに気がついた。闘争すべき対象がまったく違うことだ。シニア世代にとっては、日本政府、米軍、またはそれに加担する側の人間すべてに直線的な怒りをぶつけるが、若者は違う。基地とともに育ってきた彼らにとって米兵や基地は身近な存在で、怒りの矛先を向ける相手ではないのだ。 


県民投票を受けて3月16日に開かれた県民集会で、参加者たちが掲げるプラカードが会場を埋め尽くす。


 金城さんがコザの街角で「若いからというような表現で片づけられたくない」と歌ったのは、そういう思いを頭ごなしに抑え込もうとするシニア世代への悲痛なメッセージでもあったのだ。  シニア世代の口から「若者の政治への無関心」という不満をよく聞く。だが、若者が政治に参加するためには、基地に対する賛否の対立に加えて、世代間のギャップなどいくつもの高い壁を乗り越えなければならないという構造的な問題がある。加えて沖縄の若い世代は、基地によって分断された大人社会を見て育ったゆえに、争いごとや闘争などの対立を極度に嫌悪している。誰かを傷つけるのも嫌だし、自分も傷つきたくないからだ。若者にとって基地と向き合うことは、それほど苦しいことなのだ。そのことを直視せずに「無関心」を非難しても、未来の沖縄は描けない。


 いま若者たちの間で、がんじがらめに縛られた閉塞感のなかで、呪縛を取り払って政治に参加する機運が生まれ始めている。さまざまな「対立」を乗り越えようと模索する過程で、何かの手ごたえを感じているのではないだろうか。分断を深めるのではなく、沖縄がひとつにまとまることができる羅針盤さえ定めることができれば、狭い諍いから抜け出して、その先に光明を見出すことができるはず。そんな手応えだ。 


そして、それは2月に実施された辺野古新基地建設の是非を問う県民投票で、一気に芽吹き始めた。 (ノンフィクション作家・辰濃哲郎)