焼け落ちた首里城を前に、沖縄は打ちひしがれていた。
私が居ても立ってもおられずに沖縄に降り立ったのは、焼失から2日後の11月2日の夕方だった。
那覇空港からモノレールに乗って、午後4時半ごろに首里駅に着いた。東京ではとっぷり日が暮れている時刻だが、沖縄はまだ十分に明るい。日の入り時刻が1時間も遅いのだ。
首里城は小高い丘陵の頂上にあるから、上から見下ろす場所を探すのは難しい。それでも少しは現場が見える場所をと裏道を歩いていると、体格のいい学生風の男性がスマホと道を交互に見ながら歩いてくる。どうやら、彼も首里城跡を探しに来ているようだ。
「首里城が見渡せるところは、この先にありますか」
そう尋ねると、「私も探しているんですが、この先には、守礼門のところから一部は見えます」と教えてくれる。
那覇市内で同居する祖父が、首里城が焼け落ちる映像を見ながら涙ぐんでいるのを見て、初めは奇異に感じたという。自分にはそれほど馴染みがあるわけではないし、2度ほど訪ねたことがあるくらいだ。だが、その晩に祖父から聞いた話が耳から離れない。
「首里城は、沖縄戦からの復興の象徴なんだ」
祖父は少年時代、沖縄戦で親とともに、戦闘の激しかった南部を逃げまどって生き延びたが、沖縄戦のことはあまり語りたがらなかったという。戦後は米軍統治下に置かれ、祖国復帰以降も苦難の時代が続いた沖縄にとって、1992年に沖縄ならでは文化を具現化した首里城が再建されたことは、県民の拠り所となったと話していた。その祖父は、この城で毎年開かれる琉球王朝時代の装束に身を包んだ行列を楽しみにしていたという。
祖父の流した涙の裏には、沖縄が歩んできた苦難の歴史が刻まれていることを知った若者は、脚が悪くて外出ができない祖父の代わりに、焼失した現場を自分の目に焼き付けるためにやってきたという。
翁長前知事が遺した「なめんなよ」
これまで沖縄が味わった辛苦の向こう側には、本土への複雑な思いがある。
琉球王朝が沖縄を統一した1429年以降、沖縄は中国や東南アジアとの交易で栄えた独立した国だった。1609年に、薩摩藩に侵攻されて従属することになり、1872年には明治政府による琉球処分で完全に日本に組み入れられた。
太平洋戦争が始まると、沖縄県民にも「戦陣訓」などの皇民化教育が施され、沖縄戦では総動員体制で駆り出される。沖縄というだけで差別感を植え付けられていた県民は、「日本人」として認めてもらうために軍に献身的に尽くし、結果的に県民の4分の1が命を落とす悲劇につながった。戦後も米軍統治下に置かれ、本土から次々と米軍基地が沖縄に移され、72年に本土復帰を果たしたにもかかわらず、米軍基地はそのまま残された。いま、米軍専用基地の7割を抱え、加えて辺野古に新たな代替基地の建設が進められている。
これまで何度も煮え湯を飲まされてきた沖縄が、ウチナーンチュとしての尊厳を傷つけられながらも甘んじて受け入れてきた背景には、本土へのコンプレックスがあったと言われる。「米軍基地撤去」を叫びながらも「本土に引き取って」とはなかなか言えなかったのは、このコンプレックスゆえのことだと、地元紙である沖縄タイムス元論説主幹から聞いたことがある。
だが、ウチナーンチュもいつまでも黙ってはいない。コンプレックスを克服し、人々は着実に内なる誇りを積み重ねてきているように見える。
その大きな契機になったのが故翁長雄志前知事の言葉だ。
「うしぇーてぃーないびらんどー」
2014年、辺野古新基地建設のために埋め立てを承認した仲井眞弘多元知事を知事選で破って当選したばかりの翁長知事は、すぐに官邸に面会を求めた。しかし、菅義偉官房長官から拒まれ、やっと会えたのは5ヵ月後だ。その後も菅官房長官は、辺野古の新基地建設を「粛々と続ける」と繰り返した。
直後の5月に開かれた基地建設中止を求める県民大会で、翁長知事が3万5000人の群衆を前にしたスピーチの最後に付け足したのが、当初は予定になかった、このフレーズだ。
「沖縄をないがしろにしてはいけませんよ」との意味だと説明されたが、実はもっと辛辣な意味が込められていた。
「沖縄をなめんなよ!」
この言葉が県民の魂を揺さぶり起こした。
それまで基地問題をタブー視して正面から向き合おうとしなかった若者らが立ち上った。一橋大学大学院生の元山仁士郎さんらが発起した県民投票運動で訴えたのは、「基地に反対しよう」ではなく、賛成でも反対でもいいから、県民同士の議論をふまえて自分たちの道は自分たちで決めようという、いわば沖縄のアイデンティティーを問うものだった。
和中、そして沖縄文化の織り成す誇り
そして、その沖縄のアイデンティティーを可視化したもののひとつが、首里城だ。
1925年に特別保護建造物、いわゆる国宝に指定され、昭和初期に大規模な修復作業によって復元されたが、沖縄戦で無惨な廃墟となった。その再建に本格的に着手したのが、跡地に建てられていた琉球大学が移転した1982年以降と言われる。戦禍で写真や図面の多くが消失するなか、苦難の工事の末に建物群が完成した。
中国文化を色濃く反映した城の姿は明らかにヤマトのそれとは異なる。独自の歴史を育んできた沖縄ならではの城で、赤瓦や漆など随所に沖縄らしさを織り混ぜている。かつての首里城は「赤瓦」だった、との記憶に基づいて建てられたが、実際は黒色だったと後に判明するというエピソードもある。
とくに龍をあしらった「大龍柱」は、胴体が柱のように垂直に伸びる沖縄独特の形で、明らかに中国のそれとは異なる。那覇空港と市内を結ぶ大動脈である国道58号線の起点となる明治橋の親柱にも採用されるなど沖縄のシンボルだ。和中、それに沖縄文化が織り成す首里城は、沖縄の歴史を集約したアイデンティティーだと言われるのは、そのためだ。
私がその沖縄の誇る首里城の焼け跡の一部が見られる龍譚池に着いたころには、辺り薄暗くなっていた。まだ大勢の住民が池の鉄柵越しにスマホのシャッターを切っていた。その数は40~50人ほどか。手を合わせる人の姿も見られた。
守礼門のほうに移動する。ここから焼け跡の一端が見えるが、この先への立ち入りは禁じられている。焼け跡の一角でも見ようと、守礼門につながる坂道を上がってくる人は途切れることがない。制服姿の高校生や親子連れの姿も多い。ふだんなら観光客で溢れ返るこの場所も、ほとんど地元の住人のようだ。それにランナーの姿が目に付く。12月に開かれるNAHAマラソンを控えているうえ、坂道が多いから練習場所としては打ってつけなのだ。
汗をびっしょりかきながら軽快な走りで守礼門に立ち寄り、わずかに見える焼け跡を眺めていた42歳の女性ランナーに声をかける。
走り始めたのは4年前。以来、アップダウンの激しい首里城周辺で練習を続けているという。ふだんは公園の中を走り、西側にある物見台に上がると市内が一望できる絶景に会えるのが楽しみのひとつだったという。
「まるで王様になった気分になれるんです。そんな日常の大切な場所がなくなってしまった」
捨てられない焼失直前のチケット
守礼門から坂を下りてきた上品ないでたちの72歳の女性に声をかけてみた。
父から国宝だった首里城のことは聞いていたが、それが復元されると聞いてワクワクした気持ちでいたのを思い出す。もう27年前のことだ。完成後もしょっちゅう散歩に来ていた。坂を上り、反対側の石畳を歩くと気持ちが晴れる。心安らぐ、とっておきの場所だったという。
「早朝にラジオで知って、慌ててテレビをつけてみた。そこで信じられない光景を見たんです。あの首里城が焼け落ちる姿。涙が止まらなかった。沖縄ならではの歴史の詰まった私たちの誇りが消えてしまったショック。何をしていても心に重くのし掛かって離れない」
みるみるうちに涙が浮かぶ。火災直前の28日も、首里城内に入ったばかりだ。そのときのチケットは捨てられない。
辺りはすっかり暗くなっている。それでも、人の流れは続いていた。
過去に4度、焼失したという首里城だが、その度に新たな息吹とともに再建を果たしてきた。沖縄の苦難の歴史ゆえに醸成されてきたアイデンティティーの一端を支えてきた首里城は焼失したが、その復興の過程で沖縄新時代を体現してほしい。(ノンフィクション作家・辰濃哲郎)