「人生100年時代」と言われるようになって久しいが、その2割増し「120歳」が気になって『ヒトは120歳まで生きられるのか』を手に取った。


 タイトルに「人」ではなく「ヒト」と記され、サブタイトルが「生命科学の最前線」となっていることから容易に想像できるが、本書は「ゲノム編集」「再生医療」を中心にライフサイエンスの最前線を追ったものである。


 著者は、著名ジャーナリストの田原総一朗氏である。著者とライフサイエンスという若干違和感のある組み合わせかと思いきや、実は1980年代初頭に「遺伝子組み換え」の技術が実用段階に入っていた米国を取材し『遺伝子産業革命』を刊行しているという(不勉強で申し訳ない)。


 専門家や医療ライター、サイエンスライターがこの手のテーマを手掛けると、一般書にもかかわらず難解な本になりがちである。だが、本書は注目の技術の起源から最前線まで、全体を通して重要なポイントが丁寧にかつ、わかりやすく書かれている。そのうえで、取材対象者への批判を率直に聞いてみたり、ゲノム編集をどこまで人に適用できるかといった難しい質問をさまざまな専門家にぶつけたり、ジャーナリストらしい手法で核心に迫る。


 ゲノム編集や再生医療が実用段階になると、問題になりそうなのがやはり「生命倫理」の問題だ(日本では法整備をはじめ、この手の議論が遅れている)。


 ゲノム編集の技術である「クリスパー・キャス9」は、〈誰でも、簡単に、正確に遺伝子の編集がおこなえる〉とされる。〈例えば魚の遺伝子を編集したい場合、養殖業者の方でも操作をおこなえるくらい簡単〉かつ、安価だという。


 この10月からはゲノム編集した食品の流通が可能になったが、技術としては「クリスパー・キャス9」など新しいゲノム編集技術はヒトの遺伝子改変にも用いることができる。つまり、がんをはじめ、遺伝子変異が原因となっている難病の治療に使えるのだ。


 一方で、親が考える“理想”の遺伝子にした子ども、いわゆる“デザイナーベイビー”など、「エンハンスメント」(望む方向に人間を変える)にゲノム編集技術が使われる可能性もある。今後、〈「どこまでが治療で、どこからが治療として認められないか」という倫理の問題が出て〉くるのは確実だ。

 

 再生医療の技術が進歩すれば、〈無精子症の父親の細胞からiPS細胞を作製し、精子を作ることが可能になる〉〈そのような過程を経て生まれる命を、我々が認めることができるのか。誰がその正解を出すのか、難しいところ〉だろう。


■的確な診断に人工知能が欠かせない時代に


“生命科学の最前線”は現在進行形である。


 狙った遺伝子を切るゲノム編集だが、狙ったところと違うところを切ってしまう、「オフターゲット作用」のリスクがある。目的としないところを切ってしまうことで、〈細胞ががん化したり、意図しない突然変異が起こる可能性がある〉。しかし、近年は、ターゲットとする遺伝子に結合する機能だけを生かした、“切らない”ゲノム編集技術が開発されているという。ターゲットに治療薬を送り込む、分子標的薬などに活用されそうだ。


 注目される生命科学の研究だけに、その量は膨大で進化のスピードも速い。米国国立衛生研究所に登録されている生命科学・医学の論文を印刷して積み重ねると富士山の高さを超えるという。もはや人間では処理できない量だ。このため医療の世界にも人工知能の活用が始まりつつある。


 IBMの人工知能「ワトソン」は、〈学習した研究論文をもとに、アップロードされた遺伝子後報を見ていきます。そして、がんを抑えるために標的とするべき遺伝子をいくつかに絞り込み、根拠の強さのレベル順に、効果があると思われる薬剤のリストを挙げてくれるのです。まるで『食べログ』のようにリスト化されて出てきます〉。このリストをもとに医師は最終的な診断を下す世界が間近に迫っている。


 本書に取り上げられたような生命科学の技術が実用化されていくと、ヒトは120歳まで生きられるのかもしれない。最新のライフサイエンスを扱う本書にあって、少々唐突感があったものの、最終章〈人はどのようにして百二十歳社会を生きるのか〉は、重要な論点だろう。


 年金、社会保険、雇用制度といった制度面の改革もさることながら、個人の立場では働き方、キャリア形成、引退年齢、婚姻や家族のあり方にまで影響が出てきそうである。アルツハイマー型認知症でもゲノム編集やiPS細胞を使った治療法の研究が行われているが、体力は少々落ちているものの、頭がしっかりしていて、元気な高齢者が大量に生きている社会がどうなるのか? ちょっと想像できない世界だ。


 本書ではベーシックインカムの議論も取り上げられていたが、ヒトが120歳まで生きるとなれば、間違いなく年金の支給開始は遅くなり、結構な年齢まで働かざるを得ないことだけは容易に想像がつく。早めの“余生”を考えていただが、少し暗い気持ちになってしまった。(鎌)


<書籍データ>

ヒトは120歳まで生きられるのか

田原総一朗著(文春新書800円+税)