(1)反戦主義者なる事通告申上げます
末永敏事(びんじ、1887~1945)に関しては、長崎新聞が2016年に連載するまで誰も知らなかった。彼の身近な人でも、断片しか知らなかった。長崎新聞は数少ない断片をつなぎ合わせて、忘却の人物を蘇らせた。
その簡単なプロフィールを紹介します。
長崎県は島原半島の今福(現在は南島原市)で、医者の家に生まれた。
東京の青山学院中等科に在学中、内村鑑三(1861~1930)の影響でクリスチャン(無教会主義)となる。帰郷して長崎医学専門学校(現在の長崎大学医学部)を卒業する。台湾で医師として働き、そして、アメリカへ私費留学し、結核研究をする。
帰国後、内村鑑三の紹介で、中嶋静江と結婚する(その後離婚)。数年間、キリスト教主義の自由学園の校医・教員となる。
長崎の故郷に帰り、医師として開業。そして、茨城県へ転居して医院を開業するが、1938年(昭和13年)キリスト教徒の賀川豊彦の紹介で、茨城県にある白十字保養農園(結核療養施設)に住み込み医師となる。
同じく1938年、国家総動員法に基づき、「国民職業能力申告令」が出され、医師の場合は、総動員業務従事への支障の有無を申告せねばならなかった。末永敏事は正直に、「平素所信の自身の立場を明白に致すべきを感じ、茲(ここ)に拙者が反戦主義者なる事及び軍務を拒絶する旨通告申上げます」と書いた。
そのため、同年、彼は茨城県特高に逮捕された。
そして、1939年(昭和14年)、陸海軍刑法違反(造言飛語罪)で起訴され、禁固3ヵ月の判決が下った。出所から死亡(1945年8月25日)までの足跡は不明である。唯一の手掛かりは、新宿で歯医者をしている親友(幼馴染)を訪問したことだ。特高の監視下にありボロボロ状態であった。
(2)内村鑑三との出会い
1901年(明治34年)頃、10代の末永敏事は上京して青山学院中等科に入学した。経緯はわからないが、内村鑑三に出会い、決定的といえる影響を受ける。そして、無教会のキリスト教徒となる。
したがって、末永敏事の思想とは内村鑑三の思想と近似していたと推測する。そこで、内村鑑三を概括しておきます。
内村鑑三は高崎藩士の子として生まれたが、時代は明治となる。英語を学び、札幌農学校へ入学する。在学中に洗礼を受ける(1878年=明治11年)。役人になったり、教員になったりする一方で、キリスト教伝道者としても名を上げていく。私費でのアメリカ留学(1884~1888)時代は、知的障害児養護学校で働いたり、米大統領と面会したりしている。基本的には神学を学んだ。
帰国後は、教員兼伝道者であった。そして、1891年(明治24年)に「内村鑑三不敬事件」が勃発した。教育勅語の明治天皇の親筆の署名に対して、内村鑑三は「敬礼」はしたが「最敬礼」ではなかった。それが不敬であるとして非難され、事件はキリスト教と国体のテーマとして大問題化していった。
世論は、「内村は不敬なり」であった。その結果、内村は困窮・流浪の身となるが、多くの著作を発表する。『基督信徒の慰』『余は如何にして基督信徒になりし乎』『後世への最大遺物』などである。そして、新聞『萬朝報』などでジャーナリストとして活躍するようになる。むろん、キリスト教伝道を捨てたわけではない。1900年(明治33年)、日本初の聖書雑誌『聖書之研究』を創刊する。翌年には、キリスト教徒の交流の場として月刊誌『無教会』を発刊する。
時代は日露戦争(1904~1905)必至の様相を呈していた。内村鑑三はキリスト者の立場から非戦論を展開した。しかし、世論は主戦論に傾いた。『萬朝報』も当初は非戦論であったが、1903年(明治36年)には主戦論に転じた。そのため、内村鑑三、幸徳秋水らは『萬朝報』を去る。
末永敏事が内村鑑三と出会ったのは、さかんに非戦論を展開していた時期である。
それでは、内村鑑三の非戦論とは、どんな内容であろうか。単純な非戦論ではない。「戦争に反対」を叫ぶだけなら話は簡単だが、具体的に徴兵令状が来た場合どうするか、である。内村鑑三は「キリストが他人の罪のために死の十字架についたのと同じ原理によって戦場に行く」と徴兵に応じるべきだとする。善なる平和主義者が、悪なる戦争のため命をささげるという犠牲によって、悪なる戦争を克服できる、ということなのだが、上手に表現しないと、「キリスト教徒は平和、平和と叫んでいるが、結局は戦争肯定じゃないか」と誤解されてしまう。
日露戦争後の内村鑑三は、一言でいうならば、「無教会主義の伝道師」である。「無教会」とは何か? 教会という組織が形成されると、往々にして組織維持が目的になるなど、各種の組織弊害が発生しがちである。だからガッチリした教会組織、ガッチリした規則・儀式をつくらない。したがって、場所を定めた定期的な聖書勉強会が中心となる。場所は民間の貸会場であったり公民館であったり、私邸であったりする。聖書をよく学んだ先生はいても牧師はいない。なお、「無教会」は既存の教会を「ケシカラン」と批判することはしない。
繰り返しになりますが、末永敏事は内村鑑三との出会いによって、生涯を通じて、無教会派のキリスト教徒であり、非戦・反戦の人物であった。
(3)一流の結核研究者となる
医師免許を獲得するためには長崎に戻ったほうが有利ということで、帰郷して、長崎医学専門学校(現在の長崎大学医学部)に入学し、卒業する。卒業して台湾で医師として2年間働く。台湾行きは特別な理由があったわけではなく、当時、長崎医学専門学校から台湾へというルートがあったので、そのルートに乗っただけのようだ。
そして、医師として働く傍ら、結核菌の論文を書く。当初から国民病である結核への関心が強かったわけである。当時の結核治療は、海辺などの空気がいい所で、栄養を取って体力をつければ治る患者もいるということで、サナトリウム(長期保養所的療養施設)方式しかなかった。末永敏事は結核菌に焦点をあて根本的な治療を志向していたのだ。
結核撲滅の意思が強く、アメリカへ私費留学する。アメリカで結核の論文を次々に発表して、当時の医学界レベルでは一流の域に達した。アメリカで野口英世(1876~1928)との交流があったという話もあるが、確かではない。
アメリカ留学中、末永敏事の信仰心はさらに深まった。内村鑑三との手紙のやり取りもあった。無教会主義キリスト教では、在米の信者代表者6人の中の1人となっている。
約10年間留学を終えて、1925年(大正14年)に帰国する。そして、1926年(昭和元年)、内村鑑三の弟子である中嶋静江と結婚する。新郎はアメリカ帰りの一流医学者、新婦は日本郵船元専務の令嬢である。披露宴は帝国ホテルであった。2人に結婚を勧めたのは内村鑑三である。内村鑑三は大いに喜んだ。
結婚後、末永敏事は東大医学部で結核の研究をしつつ、静江の母校である自由学園の校医兼教員を務める。
自由学園は、1921年(大正10年)に、無教会主義キリスト教の丹羽もと子、吉一夫婦が創設した学校である。丹羽もと子、吉一夫婦はすごいですよ。1903年(明治36年)、『家庭之友』(その後、『婦人之友』)を創刊した。丹羽もと子は家計簿発案者でもある。日本初の女性ジャーナリストとも言われる。自由学園は今でも「すごくユニーク」な校風の学校です。
本筋に戻って。
1929年(昭和4年)、末永敏事は長崎の実家を改築して永末内科医院を開業する。なぜ、東京を去ったのか、あれこれ想像するばかりである。
そして、1933年(昭和8年)に夫婦は離婚する。
離婚後の中嶋静江は、自由学園派遣の4人目留学生としてフランスで服飾デザインを学ぶ。帰国後、『婦人之友』を中心にフランスファッションを広めていく。戦後も自由学園で教鞭をとった。
2人は離婚したが、それぞれ主体的な生き方をしたことは間違いない。
(4)弾圧の嵐
離婚の1933年とは、いかなる年か。
治安維持法の弾圧進行中であった。
1925年(大正14年)、治安維持法が制定された。共産主義撲滅を目的とした。
1928年(昭和3年)3月15日、一斉摘発に1500以上が検挙された。「3・15」事件と呼ばれる。国会で、不当逮捕・暴力捜査を追求した山本宣治は右翼に刺殺された。犯人は特高官僚から山本襲撃を依頼されていたとする説が有力だ。
1933年(昭和8年)、プロレタリア作家小林多喜二が逮捕され、翌日には死体となった。拷問虐殺死であった。
治安維持法が廃止されるまでの検挙者総数は約6万8000人である。そのうち、約5万人は1933年までに検挙された。その結果、治安維持法の当初の目的である共産党組織撲滅は達成された。しかし、治安維持法は改正されて、共産主義者以外の国民をも逮捕可能となっていた。特高は当初目的が達成さても解散されるどころか、規模を拡大させた。
治安維持法によって拷問死、自殺などの死者は514人である。
検挙者数が6万8000人ということは、官憲に捕まった人数は数十万人いた。
なお、朝鮮では約2万5000人が検挙されている。
さらに、満州では約2万人が処罰され、約2000人が死刑になっている。
1930年頃、すでに宗教界も監視対象になっていた。非戦・反戦を訴える無教会キリスト者は当然監視対象で、1938年(昭和13年)には実際に逮捕された者もいるし、伝道雑誌への寄稿者・購読者数百人が取り調べを受けた。
関連する事件としては、1935年(昭和10年)の第2次大本教弾圧はすさまじく苛烈であった。無抵抗の者を逮捕し、取り調べ中の拷問死は少なくとも16人いた。身も毛もよだつ大虐殺が行われたのだ。
(5)賀川豊彦との交流
1933年(昭和8年)、離婚した末永敏事は故郷から姿を消す。どこで何をしていたのやら……。
1935年6月発行のプロテスタントの一派クエーカーの会報『友』に『山吹の花』という詩を発表している。この詩は、物質文明批判であるが反戦詩でもある。クエーカー教徒の拠点は水戸であり『友』も水戸で発行されている。したがって、この頃には茨城と縁があったものと推測される。
1937年、茨城県で末永内科医院を開業する。
それが、1938年、賀川豊彦(1888~1960)の紹介で、茨城県鹿島にある白十字会の結核療養のサナトリウムの住み込み医師となった。おそらく末永内科医院は経営が成り立たなかったのだろう。それで1年で廃業して、白十字会に就職したのだろう。賀川豊彦は白十字会の理事である。2人は有名なクリスチャンであるし、末永は結核の研究者であるから、自然な就職とみられる。
末永は職場の仲間に、時として、ごく自然に反戦の話題を口にしていたと思われる。
ここで、賀川豊彦の概括を少々述べておきます。
賀川豊彦を知らない人が、最近増えているような感じがする。日本よりも海外で知られている、という話を聞いたことがある。クリスチャンのスーパースターであった。彼は貧民のなかに住んで救済活動をするというスタイルである。あらゆる社会活動をそのスタイルで実行した。
神戸の神学校を卒業し、アメリカへも留学している。
神戸のスラムに住んで、飯屋を開業した。神戸のスラムで結婚した。無料巡回診療を始めた。貧困問題解決には労働組合運動の重要性を認識し、鈴木文治の友愛会と連携して、友愛会関西労働同盟会を結成して理事長となる。大争議、大規模デモを指導した。労働者の生活安定のため、神戸購買組合(現在はコープこうべ=日本最大の生協)をつくった。
キリスト新聞もつくった。
1922年(大正11年)に日本農民組合を設立した。急発展し3年間で組合員数は7万人を超えた。
関東大震災(1923年=大正12年)では直ちに駆けつけ広範なセツルメントの救済活動をした。セツルメント運動とは持てる者と持たざる者が一定の場所・地域で共同して事業を行う意味である。江東消費組合、中ノ郷質庫信用組合(現在の中ノ郷信用組合)を設立した。中ノ郷は墨田区の吾妻橋一帯をいう。
1926年(大正15年)には無産政党である労働農民党結成に関与し、執行委員になるが、同党の左右分裂で党活動をやめる。この頃から、社会活動から宗教活動に比重を置くようになった。「神の国運動」では全国を飛び回った。賀川が講演をすれば、どこでも数百人、数千人が集まった。
「全国非戦同盟」を組織し、その代表者になった。当然、特高・憲兵隊から要注意人物として監視される。1940年(昭和15年)に逮捕されたが釈放された。1941年4月には訪米して戦争回避の道を探ったが成果なく、1941年12月8日、真珠湾攻撃となった。1943年にも特高、憲兵隊から逮捕される。その結果、戦争に協力を公言するようになった。これは、賀川の弟子、関係者を弾圧から守るための妥協・取引・方便であったようだ。
戦後、何度か総理候補に名があがった。日本社会党結成の中心的メンバーであった。また、ノーベル文学賞候補に3回、平和賞候補に3回なった。
(6)国家総動員法で逮捕
1937年(昭和12年)7月7日、北京の西南方向の盧溝橋で戦闘が契機となって、本格的日中戦争となった。
第1次近衛内閣は、1937年9月から「国民精神総動員」運動を展開した。「国家のために自己を犠牲にする精神」、すなわち「滅私奉公」を推進した。
1938年(昭和13年)、国家総動員法が制定・施行された。当初、この法律は社会主義的、革新的ということで社会大衆党などが賛成し、保守党(政友会・民政党)からは疑問が投げかけられ大議論された。しかし最後は、付帯決議に「濫用しないこと」「平和的な外交政策をとること」の2つがついて、満場一致可決となった。国会の無気力な豹変ぶりに、かなりの批判があがった。そもそも、国家総動員法は陸軍が永年にわたって戦時体制確立のため検討していたものであった。それゆえ、反戦にたいしては、国家総動員法は治安維持法とともに猛威をふるうことになった。
そして本稿の冒頭に述べたように、1938年(昭和13年)、国家総動員法に基づき、「国民職業能力申告令」が出された。医師の場合は、総動員業務従事への支障の有無を申告せねばならなかった。白十字社の結核療養サナトリウムに就職したばかりの末永敏事にも「国民職業能力申告書」が届いた。正直に「平素所信の自身の立場を明白に致すべきを感じ、茲(ここ)に拙者が反戦主義者なる事及び軍務を拒絶する旨通告申上げます」と書いた。
そのため、同年、彼は茨城県特高に逮捕された。そして、1939年(昭和14年)、陸海軍刑法違反(造言飛語罪)で起訴され、禁固3ヵ月の判決が下った。
出所から死亡(1945年8月25日)までの足跡は不明である。唯一の手掛かりは、新宿で歯医者をしている親友(幼馴染)を訪問したことだ。特高の監視下にありボロボロ状態であったと記憶されている。唯一の慰めは、終戦を知って亡くなったことであろう。
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太田哲二(おおたてつじ)
中央大学法学部・大学院卒。杉並区議会議員を8期務める傍ら著述業をこなす。お金と福祉の勉強会代表。「世帯分離」で家計を守る(中央経済社)など著書多数。