政治的な「右」「左」の線引きが、ぐちゃぐちゃに変質したように思われて久しいが、とくにここ最近、強くそう感じる。例えば、アフガンへの貢献を続けてきた中村哲医師が非業の死を遂げた事件を受け、20年来の親交を持つ上皇ご夫妻が弔意を示された。しかしネットには、このニュースで上皇ご夫妻を口汚く非難する“右派”のカキコミが、一定数現れた。護憲派だった中村氏は、右派の人々とは異なる立場に立つ。だとしても、死者を冒涜したうえに、上皇ご夫妻にまで悪態をつく“右派”の存在には、唖然としてしまう。こうした新手の右派たちには“尊王”という理念もすでに死語なのか。


 香港の混乱に対しても、市民デモを罵って無法な香港警察の肩を持つ一部“右派の人々”がいる。“自由と民主主義を守る対中国共産党の闘い”にもかかわらず(さすがに右派も多数派は香港市民を支持するが)、路上に溢れ出す民衆の抵抗という“絵柄”そのものに、生理的嫌悪感を抱くようなのだ。こうした人々は、主義主張の中身に関係なく“安寧秩序を破壊する政治的抵抗”を、とにかく嫌うらしい。


 私の少年時代、1960~70年代には、右・左、保守・革新の分かれ目は、資本主義vs.社会主義・共産主義ということでわかりやすかった。ただ当時、子供心に素朴な疑問も実は感じていた。「左」の人たちには、一党独裁による自由や人権の抑圧をどう思うのか、という疑問。「右」に対しては、「自由や人権」を重視して「反共」を掲げるなら、西側の軍事独裁国にも横行した“抑圧”には、どうして無関心なのか、という点だ。


 この前者、“左派への疑問”に関連して、今週のサンデー毎日、保阪正康氏の連載『対立軸の昭和史 「戦後革新派内の抗争」⑧』に、自壊した旧社会党の内部対立が描かれている。60年代初頭、新時代の旗手として人気の高かった江田三郎書記長の柔軟な政権ビジョンが、左派教条主義者たちに潰された経緯が描かれているのだが、例えば原水爆禁止大会でも、教条主義者たちは米国の核実験を非難する一方でソ連の核実験は擁護、一部には「ソ連の核実験の灰ならば喜んでかぶる」と言った党員までいたという。


 要するに彼らの脳内では、自由や人権の抑圧でも、東側の“良い抑圧”と西側独裁国の“悪い抑圧”がある、と解釈していたのだ。浮世離れした左翼・革新の衰退はこう見ると当然のことに思えるが、一方で前述したように、右翼・保守の“自由・人権観”もまた程度の差こそあれ“二重基準”であり、例えば今日でも、チベット・ウイグルの人権問題と、中東における人権問題を同じ物差しで語る人は少ない。


 そんなことをつらつら思ったのは、今週の週刊文春、宮藤官九郎氏のコラム『いまなんつった?』が「僕は保守でもリベラルでもありません」という書き出しで始まっていたからだ。そのうえで東京新聞の名物女性記者を主人公としたドキュメンタリー映画を観た感想を“単純にエンタメ作品として”綴っていた。面倒なツッコミを避けるために予防線を張ったに違いない。


 私の世代的感覚でも宮藤氏は“右でも左でもないノンポリ”だと思うが、放映中の大河ドラマ『いだてん』では、関東大震災後の朝鮮人虐殺やヒトラーのもとでのベルリン五輪のグロテスクさ、あるいは国内スポーツ界における女性蔑視の歴史などが随所に描かれていて、“昨今の変質した政治区分”からすれば、「左」と見なす人が多いのではないか。


 結局のところ、冷戦終結から30年が過ぎたいま、左右を分ける境界はもう“社会主義・共産主義”ではなくなって、それよりもはるか以前、フランス革命など市民革命で確立した、“自由や人権、民主主義”といった理念そのものへの好悪になったように思える。国内で言えば明治初期、自由民権運動で争われた対立軸である。残念だが、この国はそこまで逆戻りしたように感じられるのだ。


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三山喬(みやまたかし) 1961年、神奈川県生まれ。東京大学経済学部卒業。98年まで13年間、朝日新聞記者として東京本社学芸部、社会部などに在籍。ドミニカ移民の訴訟問題を取材したことを機に移民や日系人に興味を持ち、退社してペルーのリマに移住。南米在住のフリージャーナリストとして活躍した。07年に帰国後はテーマを広げて取材・執筆活動を続け、各紙誌に記事を発表している。著書は『ホームレス歌人のいた冬』『さまよえる町・フクシマ爆心地の「こころの声」を追って』(ともに東海教育研究所刊)など。最新刊に沖縄県民の潜在意識を探った『国権と島と涙』(朝日新聞出版)がある。