●ミッチーの憂鬱


 1980年代後半に自民党の有力派閥のリーダーとなり、総理大臣になることも不思議ではないとみられていた渡辺美智雄氏(愛称ミッチー)は、76年に厚生大臣(当時)として初入閣した。


 当時、筆者は業界専門紙記者となって3年目くらいだっただろうか。気さくな人柄で、取材に際してはメディアの規模や知名度で差別しない姿勢は強い印象として残っている。むろん個人的には、好感を持っていた。本人にとって残念だったのは、福田赳夫内閣でのその初入閣が、自分が得意とする財政分野や農林水産分野ではなく、厚生行政分野だったことだったのではないだろうか。


 そのために医療、年金などの社会保障政策にはまるで通じておらず、いろいろと発言は物議を醸すことが多かった。それでも、思ったこと感じたことをすぐに口に出してしまう姿勢は、国民の共感を得ていたはずで、田中角栄氏に次ぐ「庶民宰相」の誕生を期待する声は多かった。


 一方、初入閣なのに、その人気の高さが出色だった渡辺氏の厚相就任は、当時の医療界のカリスマ、武見太郎・日本医師会長との間に何らかのバトルが起こすだろうことは必須だという空気が記者仲間には共有されていた記憶がある。


 最も関心が高かったのは、当時恒例化していた、新大臣の初日医訪問。どうもその頃の記憶は時系列では曖昧なのが残念なのだが、初だったかどうかは定かではないものの、ある日、武見会長と会見した渡辺厚相は記者団の囲み取材で、「(武見会長から)医師は国民の命を預かっている。そのことを忘れては困る」と釘を刺されたと明かし、不快感を隠しもしなかった。不快は喋っているうちに怒りとなり、会見で武見会長が高飛車な姿勢で渡辺氏に対したことを容易に想像させた。


 怒りの勢い余ってミッチー、記者団を前に、「国民の命を守っているのは医者だけじゃない。バスの運転手だって守っているんだ」とぶち上げた。当然ながら、これを聞き及んだ武見会長の怒りも爆発、渡辺氏を浅学菲才の徒だとか、田舎者の小僧呼ばわりする誹謗中傷、悪口雑言で切り捨てた。とにかく、それで渡辺厚相と武見会長の亀裂は決定的となり、健保法改正、診療報酬改定、医師税制問題ではことごとく対立した。


 渡辺氏は、社会保障政策に関連して国会やメディアにもケンカを売っている。当時の野党やメディアの論調は社会保障政策に関して、今では考えられないような甘い政策を求めて平然としていた。渡辺氏は、こうした姿勢を「国民は毛バリに釣られている」と批判、野党やメディアから猛烈なバッシングを受けた。


 当時から、冷静に考えれば、渡辺氏の危機感はかなり正当なものであるとの認識は、主に業界専門の記者にはあった。しかしだからといって、具体的に渡辺氏の危機感がどこにつながっているか、その問題点の具体化・明確化、解決策への展望というものを私たちが欠いていたことは否定しようがない。渡辺氏は医療界では医師にその権力や、裁量性が集中し過ぎだということを見抜いていたように思う。


 筆者は一度だけ、記者仲間と一緒にミッチーと酒席をともにしたことがあるが、そのとき社会保障財政に対する厳しい展望を聞かされた。それは、厚生行政に詳しかった橋本龍太郎氏の持論と通底するものがあったと思う。


 あのころの有力な政治家は、決して日本の社会保障政策の先行きに明るいものを信じていたわけではないように思う。彼らは、個人的にはその頃、メディアも国民も喝采を贈った老人医療費無料化は愚策だと思っていたのではあるまいか。医師会に遠慮があったり、当時の政策優先度に拘泥したりしたのかもしれない。「医師の裁量性」はそうした政策議論も「医師の裁量範囲」と誤認させる力があったのではないか、と思える。


「医者が国民の命を預かっていると言うなら、バスの運転手も預かっている」という渡辺ロジックは何が間違っているのだろうか。命や健康が障害されているときに直接的に国民を助け、守るのが医師であり、安全にバスを運行するのが運転手の責務だ。医師は医療を統括するが、運転手はバスを支配下に置く。統括する分野の大きさ、結果への期待値はバスに比べれば医師のほうがはるかに大きく、その透明度も違うように思える。「命を守る」規模と期待の不透明感が、渡辺ロジックを笑い話のような印象にすり替える。医者は「バスの運転手と同じだ」と笑われたくないのである。


 医師はその使命感と業務遂行義務感によって、何でも自分の管理下に置かねばならなくなった。「バスの運転手と同じではない」ことを証明しなければならない。


●時代に向き合っているのか


 2019年6月17日に開かれた「第1回医師の働き方改革を進めるためのタスクシフティングに関するヒアリング」で、日医はタスクシフティング等に関する基本的な方針を明らかにしている。そのなかで第1に「国民にとって安全な医療を守るため、医師による“メディカルコントロール”(医療統括)の下で業務を行うことが原則である」と述べた。「医師による“メディカルコントロール”(医療統括)」の文言はゴシック体でアンダーバーが引かれている。(※メディカルコントロールは以下MC)。


 この方針の第2は、「新たな職種の創設ではなく、既に認められている業務の周知徹底、並びに、それらが実践されていない場合の着実な検証を実行するべきである」。


 第3「法令改正や現行法介錯の変更による業務拡大をするのであれば、適切なプロセスを経て行うべきである」。


 第4「タスクシフティング先の医療関係職種への支援が必要である」。


 第5「AI等のICTの活用は、医師のタスクをサポートするものとして、推進していくべきである」。


 MCに関しては、さらに詳しく主張が重ねられている。これが市民目線では理解しにくい部分を含んでいる。タスクシフティングはチーム医療の視点に立って推進すべきであるとの前提を示し、チーム医療参画職種には医師の指示を要件としないものもあるとしつつ、チーム医療では幅広い職種に対して医師によるMC、つまり医療統括が必要だと主張する。


 さらには、MCは「もともと医療機関内で行われてきた」ことを根拠に、今後も重要な要素であるから、そうした概念を表現するため「医療統括体制」を提案するとしている。チーム医療は医療機関で行われてきた言わば「慣行」の地域医療への敷衍であり、その慣行に照らせばどこで行われる医療的行為でも医師がコントロールしなければならないという主張だと受け取れる。


 このメッセージは、「慣行」を変更されるのではないかとの危惧が支えになっている、と言っても過言ではないと思う。その主張を前提としたうえで、新職種の創設の否定などにつながるのは、医療が少子高齢化、健康寿命の延伸、デジタル医療などといったキーワードで動き出したシステム変更・改革にノーと言っているような印象につながる。


●社会的にも理解が進む背景


 現在、タスクシフティングの議論を動かしている原動力は「医師の働き方改革」だ。しかし、その働き方改革が、医療費の抑制に向かい、医師の所得制限につながるという具体的な危惧は隠れていないだろうか。実際、タスクシフティングは実はそこ、つまり医療費の抑制を目的に言葉が生み出された背景も無視すべきではない。その点では、医師会が慎重な姿勢を見せることも理解できる。


 いつの間にかだが、タスクシフティングはすでに市民の間にそのニーズは浸透し始めていることにも理解が必要だ。作家の五木寛之氏は、最近の週刊誌のコラムで、栄養学がカスタマイズされる時代の到来を求め、「これからは栄養士と薬剤師と医師とが、同格で手を取り合って、人々の健康と取り組んでいく必要があるのではないだろうか」(週刊新潮12月12日号)と述べた。専門家以外にも、医療関連職種が同格で今後のヘルスケアを担う期待が示されているのである。世論の流れにもまた背中を見せるべきではないだろう。


 今回のシリーズでは、タスクシフティングの議論を眺めながら、医師の働き方改革と医療費抑制の関係性、共鳴性、同調性などを眺めていく。ひとつひとつの職種の紹介や、想定される新職種の議論などには、一定の距離をおいていくことを予め伝えておきたい。(幸)