(1)京都の時代祭


 京都3大祭は、「葵祭」「祇園祭」「時代祭」です。


「葵祭」(正式には賀茂祭)は、賀茂御神神社(下鴨神社)と賀茂別雷神社(上賀茂神社)の祭です。起源は古く、平安時代には「祭」と言えば「葵祭(=賀茂祭)」であった。ハイライトは、斎王(天皇と神を繋ぐ聖女、天皇家の処女が就任)の行列で、『源氏物語』にも、葵の上と六条御息所が牛車の場所取り争いを演じるシーンがあります。南北朝時代になると斎王がいなくなったので、斎王列もなくなった。ところが、昭和30年代に、斎王の代理という「斎王代」の行列が登場した。斎王代に選ばれるには、数千万円の寄付が条件である。霊能力、家系、美貌は二の次である。やはり、高度成長時代という時代背景かな、と思ってしまう。


「祇園祭」は、八坂神社(祇園社)の祭です。7月の1ヵ月間、多様な祭行事が展開されるが、最も有名なのは、豪華賢覧たる山鉾の行列であろう。「祇園祭」も歴史は古く、平安時代からある。なお、元は「祇園社」の「祇園霊会」(ごりょうえ)だったが、明治4年の神仏分離令によって、「八坂神社」の「祇園祭」に改名させられた。「八坂」の名に関して、非常に深く考察する人もいますが、「八坂」は地名です。


「時代祭」は、平安神宮の祭です。平安神宮は明治中期に創建された。各時代を再現した行列は「生きた時代絵巻」と言われています。行列は8つの時代の21行列あります。新しい時代から順々に古くなります。


<明治維新時代>①維新勤王隊列、②幕末志士列、③七卿落


<江戸時代>④徳川城使上洛列、⑤江戸時代婦人列。江戸時代婦人列では、和宮、太田垣蓮月、中村内蔵助の妻、玉蘭、梶、吉野太夫、出雲阿国の7名が登場します。中村内蔵助の妻については、「昔人の物語(39) 石川六兵衛の妻」を参考にしてください。


<安土桃山時代>⑥豊公参朝列、⑦織田公上洛列


<室町幕府>⑧室町幕府執政列、⑨室町洛中風俗列


<吉野時代>⑩楠公上洛列、⑪中世婦人列。ここでは、淀君、藤原為家の室(阿仏尼)、静御前、大原女、桂女が登場します。


<鎌倉時代>⑫城南流鏑馬列


<藤原時代>⑬藤原公卿参朝列、⑭平安時代婦人列。巴御前、横笛、常磐御前、紫式部、清少納言、紀貫之の女(むすめ)、小野小町、和気広虫、百済王明信の9人が登場します。やっと出た、やっと出た、やっと出ました、百済王明信。


<延暦時代>⑮延暦武官行進列、⑯延暦文官参朝列、⑰神饌講社列、⑱前列、⑲神幸列、⑳白川女献花列、㉑弓箭組列


「時代祭」からわかるのは、百済王明信(?~815)は、個人では最も古い、つまり平安時代の始まりの女性であることがわかる。ちなみに、平安京への遷都は、「なくよウグイス平安京」と暗記した794年(延暦13年)であり、延暦時代は782~806年である。それでは、百済王明信って、何者か?


(2)桓武天皇の母は百済系渡来人


『日本後紀』第17巻平城天皇大同3年(808年)6月3日の記述に、「藤原乙叡(たかとし)が死んだ。父は藤原継縄(つぐただ)である。(つまり、藤原南家の嫡流)母は百済王明信(めいしん)で、桓武天皇の寵愛を受けた」とある。


 要するに、百済王明信は藤原継縄の妻ではあるが、桓武天皇の寵愛も受け入れていた、ということです。


 ここで、予備知識として、桓武天皇(737~806、在位781~806)の治世に関して、若干述べておきます。


①天武天皇(在位673~686)以後、皇位継承は天武系統が独占して、天智系統は排除されていた。


②山部王(後の桓武天皇)は天智系統である。しかも、母が百済系渡来人のパッとしない氏族・和氏の高野新笠(たかのにいがさ、?~790)である。だから、山部王が天皇になる可能性はゼロであった。だから、本人は中級官僚として努力していた。ところが、皇位継承をめぐって、連続的な陰謀・流血の末、天武系統がほぼ自滅・絶滅してしまい、781年、山部王は天皇に即位した。


③桓武天皇は平城京(奈良)を嫌い、784年(延暦3年)に山城国に長岡京を造営するが、わずか10年で長岡京をあきらめ、794年(延暦13年)に平安京へ遷都する。


④蝦夷への軍事遠征を3回実施する。第1回は惨敗、第2回は副将として坂上田村麻呂が活躍、第3回(801年)は征夷大将軍として、勝利する。


⑤遷都と軍事遠征で農民疲弊。


 さて、桓武天皇の後宮ハーレムですが、「お盛ん」と言うべきか「紊乱」(びんらん)と言うべきか、とても賑やかだった。皇后を含めて、26人の女性、子供が35人である。これは公称数字で、本当はもっと多いかもしれない。


 それで、百済王明信は26人に入っているのか、というと、それが入っていません。26人の中には、百済系の女性が4人います。女御……百済王教法(?~840、百済王俊哲女)、宮人……百済王教仁(?~?、百済王武鏡女)、宮人……百済王貞香(?~?、百済王教徳女)、女嬬……百済永継(?~?)の4人です。


 桓武天皇は、母が百済系渡来人なので、百済系渡来人を優遇し、取り立てた。後宮ハーレムに、百済系女性が4人いることも、その証左です。


 ここで、百済叡継について一言。百済叡継は藤原北家の藤原内麻呂の妻でした。それはそれは、滅茶苦茶な美人妻だった。子を2人もうけても、その美貌は衰えるどころか、まさに熟女妻であった。内麻呂は、熟女妻を桓武天皇に差し出す。内麻呂はトントン大出世する。その後、藤原北家の摂関政治が花開くわけだが、そもそも、渡来系美人妻を桓武天皇にプレゼントしたことが出発点みたい。


(3)百済王氏


 ここで、百済王氏について説明します。


 百済の最後の王は義慈王(599~660、百済第31代王、在位641~660)です。百済は新羅・唐の連合軍によって、660年滅亡します。義慈王には大勢の子供がいたが、そのなかの豊(豊璋)と勇(善光)の2人は倭国で生活していた。豊は倭国の軍事援助で百済復活戦争を開始したが、百済遺民・倭国連合軍は白村江の戦(663年)で大敗する。


 勇(善光)の子孫は、持統天皇から「百済王」の氏姓を賜った。したがって、百済系渡来人のなかで「百済王氏」は、宗家的地位を持った。日本の貴族全体から眺めると、百済王氏は中級貴族のランクになる。


 少し横道へ外れますが、百済王氏の血脈で歴史の残る活躍をしたのは、百済王敬服(697~766)である。勇(善光)を第1代と数えて、第4代にあたる。聖武天皇は、最大最高国家事業、東大寺大仏を建立していた。最終段階で大仏の表面に黄金を貼り付ける設計なのだが、黄金が決定的に不足していた。当時、日本は金を産出していなかった。全国に黄金探索指令が出されたり、唐からの輸入を考えたり悩んでいた。


 そこへ、敬福から黄金発見の知らせ。陸奥小田郡(現在の宮城県遠田郡桶谷郡町)で産出した黄金900両が献上された。聖武天皇は狂喜・驚喜で、敬福は7階級特進、大々的な大赦実行、元号も「天平」から「天平感宝」「天平勝宝」と改めた。なお、百済王氏は基本的には武門の家柄であるが、鉱山技術者集団も抱えていたのだろう。それから、貴族最高の遊びである鷹狩りの技術者でもあった。


 さて、百済からの渡来人は、百済滅亡時に大勢やってきた。しかし、それ以前も数百年間にわたって大勢やってきている。桓武天皇の母・高野新笠は百済系渡来人であるが、百済滅亡時の渡来ではなく、それ以前の古い渡来人の集団のようだ。そして、高野新笠の親は百済王氏の部下のような立場だったと推測されている。


 当時の子供は母方の家で育てられるから、山部王は母・高野新笠の家で育ったであろう。となると、高野新笠の主人家・百済王氏の娘である百済王明信と出会っている、つまり幼馴染の可能性もある。ひょっとしたら、山部王の初恋・片思いの女性だったかも知れない。でも、当時の山部王の立場は低い。明信は、政権のトップクラスにある藤原南家の嫡男・藤原継縄へ嫁いでいく。山部王は、指をくわえて見送るしかなかった……。


 時が流れ、781年、桓武天皇即位。


 796年(延暦15年)7月16日、藤原継縄死亡、百済王明信は未亡人となる。


 しかし、未亡人になる前に、いつかは不明ですが、桓武天皇は百済王明信を宮中の尚侍(ないしのかみ)、つまり女官長で側近中の側近に抜擢していた。


(4)桓武天皇のエロ和歌


 ようやく、興味津々の『日本後紀』の延暦14年(795年)4月11日の記述を紹介します。なお、『日本後紀』はかなり部分が散逸してしまった。そのため、学者が苦労して『類聚国史』(るいじゅこくし)などで、復元した。この部分は『類聚国史』で復元した部分です。


 若干の解説を。古代律令国家は、正史として『日本書紀』『続日本紀』『日本後紀』『続日本後紀』『日本文徳天皇実録』『日本三大実録』を編纂した。これを「六国史」という。『類聚国史』は、「六国史」が編年体であるため、菅原道真の編纂で分類再編集したものである。


 延暦14年(795年)4月11日、曲宴を催された。桓武天皇(このとき59歳)は次の古歌を詠った。


 いにしへの野中古道あらためば あらたむらむや野中古道

 (直訳:野中の古道は変えようとしても、変えることができない)


 天皇は尚侍(ないしのかみ)従三位百済王明信に応答の歌をつくるように命じた。命じられたが、明信はつくることができなかった。そこで、天皇は明信に代わって自ら次の和歌を詠んだ。


 君こそは忘れたるらめ にぎ珠(たま)の たわやめ我は常の白珠

 (直訳:陛下は(私を)忘れたかも知れませんが、私は常に白い球のままです)


 この応答歌に侍臣は万歳を叫んだ。


 これはエロ露骨歌なのです。和歌は表面的意味だけではなく、深い意味があるものです。


「昔、愛した肉体がある。昔のようにセックスしたい」

「あなたは忘れたかも知れませんが、私の肉体は光輝く純白の宝石のままです」


 初老(59歳)の天皇と、やはり初老になった明信とのやり取り(桓武天皇の2役)なのだが、この歌から、若き山部王は、若き白珠のような百済王明信に対して内緒で会っていたのだろう、と推測される。そして、初老になった桓武天皇は、初老の百済王明信を最も信頼し愛していたのだろう。


 806年(延暦25年)、桓武天皇死去。


 815年、百済王明信死去。


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太田哲二(おおたてつじ

中央大学法学部・大学院卒。杉並区議会議員を8期務める傍ら著述業をこなす。お金と福祉の勉強会代表。「世帯分離」で家計を守る(中央経済社)など著書多数。