週刊新潮でこの秋に始まった連載に『佐藤優の頂上対決・我々はどう生き残るのか』という対談企画がある。第1回のゲストが楽天の三木谷浩史会長、第2回がJA会長の中家徹氏といずれも経済人、誌面のレイアウトにもどこか広告記事と錯覚させる雰囲気があり(実際にはそうではない)、過去一度もきちんと読んでいなかった。が、今週号のゲストはなんと、読売新聞グループ代表兼主筆の渡邉恒雄氏。最近はほとんど表舞台に出ず、何ヵ月か前にはガセネタの“死亡説”が駆け巡る騒ぎまであったあの“ナベツネ”氏、93歳の御大が登場したのである。


 平成の世も終わり、今日なお“昭和の巨魁”と呼び得るのは、もはや創価学会の池田大作・名誉会長とこの渡邉氏くらいのものだろう。この2人にもし“万が一のこと”があれば間違いなく各紙一面トップ記事、手塚治虫や美空ひばり級の報じられ方をするはずだ。そんな大物がまるで無警戒だった対談コーナーに、ひょっこり顔を出したものだから、当方は度肝を抜かれたのだった。


 ホスト役の佐藤氏に対しては正直、「鵺」(ぬえ)のような捉えどころのない印象を持っている。母方のルーツの地・沖縄の米軍基地問題に関しては、沖縄ナショナリズムの側に立ち、反辺野古を鮮明に唱えるが、それ以外の政治テーマでは、公明党をべた褒めしてみたり、北方領土の「二島返還プラスα」論者として安倍外交を擁護したり、その立ち位置は右なのか左なのか、リアリストか理想主義者なのか、皆目わからない。


 で、今回はその佐藤氏が、鵺的な印象ではさらに大きく上回る“昭和のフィクサー”渡邊氏を、自身の対談に引っ張り出したのだ。他界した盟友・中曾根康弘元首相の思い出、自身が根回しに一役買った日韓基本条約締結の舞台裏、そこで暗躍した有象無象の“利権屋”の存在、そのなかにあの元大本営参謀・瀬島龍三の姿があったこと……。さすがに渡邊氏の回想には、歴史的証言としてのスケールの大きさと生々しさがある。


 東大入学後、終戦の直前に陸軍に召集され、古参兵のイジメなど軍の陰惨な体質に辟易し「日本の軍隊は負けて当たり前」と感じたが、戦後、「共産党東大細胞」に加わると、ここでも「軍隊的鉄の規律」を押し付けられ、散々反発して除名処分となる。そうした体験の反動からなのか、読売入社後は徹底したリアリストとなって、政治権力の中枢に潜り込み、遊泳し、同時に同僚との出世競争の末、社内権力を掌握するに至る。で、そうした自己の若き日と比べての感想か、現代の若者には、「みんなおとなしくなった」と感じているという。


“歴史的人物”としての渡邊氏の語りは実に面白い。言葉の端々に深い教養も感じさせる。だが、読売には氏が台頭する以前、本田靖春氏や黒田清氏など個性的な記者が多士済々溢れていた。結局のところ渡邊氏は社内権力を掌握する過程で、自身の意に沿わない記者を次々放逐し、自身あれほど嫌っていたはずの「軍隊的タテ社会=モノトーンの新聞社」に作り変えてしまった。その意味で、彼の目に社内の若者がおとなしく見えるのは当然だ。個性派はみな排除してしまったのだから。


 自分自身は“風雲児”“暴れ馬”として波乱万丈、痛快な人生を送ってきた渡邊氏。だが、その彼がつくり上げたのは、従順な羊の群れのような組織だった。第2、第3の“暴れ馬”は、そのなかから決して生まれない。しかし、渡邊氏の回想には、そういった点への後悔は見られない。独裁者的なリーダーになれる人物は、自身の“正しさ”に疑念を挟まない強靭な精神の持ち主だけなのかもしれない。久々の“ナベツネ節”を読み、その悪魔的な個性に改めてほろ苦さを感じた。


………………………………………………………………

三山喬(みやまたかし) 1961年、神奈川県生まれ。東京大学経済学部卒業。98年まで13年間、朝日新聞記者として東京本社学芸部、社会部などに在籍。ドミニカ移民の訴訟問題を取材したことを機に移民や日系人に興味を持ち、退社してペルーのリマに移住。南米在住のフリージャーナリストとして活躍した。07年に帰国後はテーマを広げて取材・執筆活動を続け、各紙誌に記事を発表している。著書は『ホームレス歌人のいた冬』『さまよえる町・フクシマ爆心地の「こころの声」を追って』(ともに東海教育研究所刊)など。最新刊に沖縄県民の潜在意識を探った『国権と島と涙』(朝日新聞出版)がある。