昔、勤めていた会社で同僚だった女性のパートナー。個人的なつながりは、それだけのことなのだが、雑誌一般にまつわるコラムである以上、文芸評論家・坪内祐三氏の死については、ひとこと触れておくべきだろう。令和の世に活動する「現役の物書き」では、彼こそがほとんど最後の“教養人”だったと思うからだ。
亡くなったのは13日。まだ61歳という若さだった。『文庫本を狙え!』という書評コーナーを長年書いていた週刊文春では、『追悼・坪内祐三 文壇のキムタク、ちょ、まてよ』という意味不明の見出しを付け、書斎でくつろぐその姿がグラビアに掲載されている。現在発売中の月刊文藝春秋2月号には、ちょうど200回目という切りのいい回数で、氏のコラム『人声天語』の遺稿が載っている。
《「死者の当たり年」という言い方は少々不謹慎だが二〇一九年はまさに「死者の当たり年」だった》。最後のこのコラムでは、そんな書き出しで橋本治、加藤典洋、岡留安則、あるいは大相撲の井筒親方、東関親方、プロ野球の金田正一といった物故者の名前を挙げ、《しかし一番残念だったのは和田誠の死だ》と、少年時代からの愛読者としての思いを綴っている。他者の死を悼むこのコラムが活字となり、まさか数日後に自ら心不全で世を去ってしまうとは、あまりに切ない巡り合わせだ。
『文壇アウトローズの世相放談 これでいいのだ!』という対談を何年も巻末で掲載した週刊SPA!には、坪内氏の対談相手だった同世代の文芸評論家・福田和也氏のインタビューが載っている。保守論客同士の放談を売りにした連載を振り返り、福田氏はこう語った。
「理屈にかなったことをわかったように書く人はたくさんいたけど、坪内さんは違った。自分の好きなものや関心のあるものについて書きながら、時間や空間を超えた何か大きなものをとらえようとしていた。(略)簡単には結論を出さない」
私自身ずいぶん長いこと、この対談のためだけに、SPA!を買い続けた。彼らより立ち位置が左だからだろう。政治的な話では、意見を異にすることも多々あったが、読んでいて不快さを覚えたことはない。福田氏の言う「簡単には結論を出さない」という理由もあるのだろう。博覧強記の2人が、さらなる探究心を持って世相を語り合う姿勢が、私には常々好ましく映っていた。
氏の見識に接したのはもっぱらこうした雑誌記事であり、書籍化した著作は数えるほどしか読んでいないが、何らかの調べもので資料集めをして、氏の文章と意外な遭遇をする経験は何度かした。例えば明治期の汚職政治家を刺殺した剣豪・伊庭想太郎と、その息子で「浅草オペラの父」と呼ばれた作曲家・伊庭孝との関係(著書『父系図』)、例えば菅原文太が旧来の“任侠やくざ像”をぶち壊したのは、『仁義なき戦い』でなくその前の『人斬り与太』シリーズであった、とする論考(キネマ旬報に寄せたエッセイ)、そんな予期せぬ調べものの場で、坪内氏の文章・文献はひょっこり顔を出す。専門の純文学に留まらない氏の関心領域の広さと深さには、改めて感服する。
いわゆるネット右翼の人々は、「ネトウヨ」という表現を保守・右翼への侮蔑語と思い込み、反発する。そうではない。当方に“保守・右翼への敬意”があるからこそ、“似て非なるもの”を区分しているのだ。坪内氏のような尊敬すべき人たちと“あの手のネット民”を混同することは、保守人士への侮辱に他ならない。「保守」と「教養」がどんどんかけ離れるこの時代、坪内氏のような人物の死は本当に惜しまれる。
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三山喬(みやまたかし) 1961年、神奈川県生まれ。東京大学経済学部卒業。98年まで13年間、朝日新聞記者として東京本社学芸部、社会部などに在籍。ドミニカ移民の訴訟問題を取材したことを機に移民や日系人に興味を持ち、退社してペルーのリマに移住。南米在住のフリージャーナリストとして活躍した。07年に帰国後はテーマを広げて取材・執筆活動を続け、各紙誌に記事を発表している。著書は『ホームレス歌人のいた冬』『さまよえる町・フクシマ爆心地の「こころの声」を追って』(ともに東海教育研究所刊)など。最新刊に沖縄県民の潜在意識を探った『国権と島と涙』(朝日新聞出版)がある。