(1)元祖料理人は神になった


 人間の本性として、「美味しいものを食べれば喜ぶ」という感情は存在する。しかし、日本文化を1000年間にわたって規定した『古今和歌集』によって、食べ物を語ることは、雅(みやび)、上品でない、とされたようだ。花鳥風月、恋を語ることが上品であって、ウンコにつながる食べ物を語ることは雅ではない、下品とされた。


 日本の料理文化は、江戸時代までは、まるで発展しなかった。例外は、鎌倉時代の禅宗の影響で精進料理がやや注目されたくらいであろう。


 したがって、料理人の神様である磐鹿六鴈(いわかむつかり)は、江戸時代までは忘却の神様であった。もっとも、さほど活躍したわけではないので、忘却も当然の感じがする。


 磐鹿六鴈を祭る「高家(たかべ)神社」に関して、若干の説明をしておきます。


 平安時代の文献では、その存在が記録されてはいるが、存在の記録だけである。だから、たぶん磐鹿六鴈の子孫である高橋氏のひとつの系統が氏神様として祭ったのではないか……そんな推測をする程度である。


 そして、高家神社は長らく廃絶していた。場所すら不明となっていた。


 それが江戸時代初期になって、鏡と木像が発見され、そこが、かつてあった高家神社の場所であろうということで、「神明社」として復活した。そして、江戸時代後期に、鏡の文字が解読された。そこには、「御食津神、磐鹿六雁命」とあった。料理の神様出現にびっくりして、名称を「高家神社」に改称した。


 老婆心ながら、「雁」(かり、がん)の旧字体が「鴈」である。


 高部神社の近くの銚子は醤油の大生産地である。そのヒゲタ醤油工場に料理の神様の分神を勧請した。あれやこれやで、「料理の神様、高家神社」「磐鹿六鴈」の名は、やや高まった。


 そして、昨今の大料理ブーム。テレビは料理番組ばかりである。「高家神社」では年3回「四条流包丁式」が行われ、多くの観光客が来るようになった。


 四条流「包丁式」は、藤原山蔭(やまかげ、824~888)が創設者である。誰が言い出したか知りませんが、藤原山蔭は日本料理中興の祖と評されている。


 平安時代では「包丁式」は宮中だけの儀式であったが、その後は各地で行われるようになり、多くの流派が生まれた。藤原山蔭以前にも「包丁式」は行われていて、磐鹿六鴈の子孫である高橋氏が行っていたはずだ。残念ながら、その内容は不明である。


(2)『日本書紀』の景行天皇


 磐鹿六鴈は『日本書紀』の景行(けいこう)天皇の箇所に登場する。


 景行天皇は、いわゆる「崇神(すじん)王朝」の系譜である。「崇神王朝」とは、「崇神(第10代)-垂仁(第11代)―景行(第12代)―仲哀(13代)」を言うが、その存在は疑わしく、崇神と垂仁は「いたかも知れないなぁ」程度である。まぁ、はるかな昔の断片的伝承を継ぎ接ぎにした実質的なフィクションの可能性が高いと思う。


 さて、本題に入ります。景行天皇の子が古代最高英雄の日本武尊である。日本武尊に関しては、『昔人の物語(48) 日本武尊』をご参考にしてください。景行天皇は日本武尊の死後、その足跡を旅する。


(即位53年)冬10月に、上総国に至った。海路(うみつじ、海の道)から淡水門(あわのみなと)へ渡った。<要するに、海を渡って房総半島の館山へ到着した。安房=淡=あわ>


 是の時、覚賀鳥(かくかのとり、ミサゴのこと)の声を聞いた。その鳥の形を見たいと欲して、(鳥の姿を)求めて海の中へ(沖へ)出ました。


 そこで、白蛤(うむき=はまぐり)を得た。膳臣(かしわでのおみ)の遠祖である磐鹿六鴈(いわかむつかり)が、蒲(かま、植物の名)をタスキにして、白蛤を膾(ナマス)にして奉った。


 それゆえ、六鴈臣(むつかりのおみ)の功を褒めて、膳大伴部を賜った。


 直訳の感じは、景行天皇が白蛤を採り、磐鹿六鴈が、白蛤の膾をつくって景行天皇に食べていただいた。天皇は「とても美味しい、すばらしく旨い」と感動して、磐鹿六鴈を天皇の料理担当氏族に任命した。そんな感じである。

 

 実際のところ、磐鹿六鴈を祖とする膳氏(かしわでうじ)は朝廷の料理を担当した伴造(とものみやつこ)となった。伴造とは、職業で朝廷に仕える豪族である。膳氏は、後に高橋氏と名を改めた。


 蛇足ながら、「ナマスって、何?」という人がいたので、若干の説明をしておきます。ナマス=お正月の紅白ナマス(大根と人参の酢の物)しか思い浮かばない人もいるようです。膾(ナマス)とは、生の獣肉や魚肉を切り分けて調味料を合わせる料理をいう。現代の日本では、魚介類や野菜・果物を細く薄く切って、酢を基本とした調味料を混ぜるので、「酢の物」とも呼ばれている。


(3)御食料、御食ツ国

 

 磐鹿六鴈の名前であるが、「鹿」と「鴈」(かり、がん)の文字が使われている。日本に仏教が伝わると、次第に獣の肉がタブー視されていくが、この話の頃は「鹿」や「鴈」は高級食材だったに違いない。


 食材に関して、もう一言。


 景行天皇が白蛤を採って磐鹿六鴈が料理した場所は、房総半島の先端地域、館山である。『日本書紀』では「上総(かずさ)国」となっている。「あれ? 館山は安房(あわ)国じゃないか?」と疑問を持つ人もいるかと思う。通常の知識は、房総半島の大半は「上総国」であるが、半島の先端の小さな地域は「安房国」である。『日本書紀』が「上総国」と「安房国」とを間違えたわけではない。


 大宝律令(701年完成、702年施行)以前は、安房は上総国の一部であり、安房は上総国のひとつの郡に過ぎなかった。それが、大宝律令によって「安房国」が小国として独立した。その後、741~757年、安房国は上総国に編入されたが、757年以降は再び、独立した安房国となった。


 なぜ、安房国という小国ができたのであろうか。古代律令制の税制度は、租・庸・調であるが、それとは別に「贄(にえ)」があった。「贄」とは、神または天皇に貢ぐ食物で、内容的には海産物を中心とする特別な副食物である。これを、御食料(みけりょう)といい、それを命じられる国を御食ツ国(みけッくに)という。新鮮かつ豊富な海産物の産地が御食ツ国となった。


 御食ツ国として名高いには、若狭国、志摩国、淡路国である。みな小国である。


 若狭国は、「生鮭、わかめ、もずく、わさび」を贄として納めていた。志摩国は、「なまのあわび、むしあわび、さざえ」を納めていた。淡路国は「雑魚」を納めていた。


 安房国の誕生とは、安房で採れる海産物を贄として朝廷に貢がせるためだろうと推測する。「どんな海産物かな」「白蛤かな」と思っていたが、『延喜式』では、膨大な各種「アワビ」であった。どうも古代にあっては、アワビは貴族の最高人気の食材のようだ。


 なお、贄を命じられるのは御食ツ国だけではなく、各地の○○浦、○○嶋、○○埼の特定集団にも課せられた。


(4)高橋氏文


 さて、先に記載した『日本書紀』の景行天皇・磐鹿六鴈の文章に関して。『日本書紀』の編纂に関しては、多くの参考文献が集められた。有力18氏には、それぞれの氏の伝記・記録を上進させた。膳氏は18氏に入っていて、自身の伝記・記録をまとめて提出した。その一部が、『日本書紀』に採用されたというわけだ。


 その原文は残っていないが、その後、膳氏は高橋氏と名を変え、高橋氏の本家によって、平安時代初期に『高橋氏文』がまとめられた。


 文章の量は、前記の『日本書紀』の10倍もあるが、基本的内容はほぼ同じである。そのなかで気になる点を2点。


 第1点は、どうでもいい話。「(磐鹿六鴈は)八尺の白蛤一貝を得る」と記載されている。しかし、八尺とは、いくら何でもデタラメの大きさである。大宝律令でも一尺は約30センチである。私がこれまで食べた大蛤は10センチ程度であった。「八尺の」は単に「非常に大きい」の意味なのであろう。


 第2点は、蛤の膾の功績によって、東国の国造(くにのみやつこ)が磐鹿六鴈の支配下になった。国造は地方の役人である。磐鹿六鴈は単なる料理人ではなく、東国の大豪族の長なのである。他の文献でも、「磐鹿六鴈―膳氏」は大豪族であることを確認できる。


『日本書紀』では、ほのぼのとした元祖料理人のお話であるが、実体は大豪族の権威の証明である。


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太田哲二(おおたてつじ

中央大学法学部・大学院卒。杉並区議会議員を8期務める傍ら著述業をこなす。お金と福祉の勉強会代表。「世帯分離」で家計を守る(中央経済社)など著書多数。