週刊文春の長寿連載のひとつに『本音を申せば』という、87歳の老作家・小林信彦氏のエッセイがある。今週は、町から次々書店が消えてゆく状況への驚愕が綴られている。


《私は老残の身を井の頭線近くの家で休めているが、三年近く、町に出ないとおそろしや、駅のあたりに三軒あった書店はゼロになり、本を見るだけでも下北沢、又は渋谷まで出なければダメ、ということになった》


 そして、出版関係者からの情報であろう、ただでさえ“本離れ”が進むなか、先の消費税増税が出版不況にさらなる追い打ちをかけた、と書く。


《アベノミクスが成功したとか言っているアベ首相は、浮かれた感じで消費税に手を出すと私は思い、案の定そうなった。私の家などでも、ものを買わないようになっている(略)戦後最悪の総理というべきで、自分の在り方など考えたことのないタイプの人間なのだ》


 周知のとおり、小林氏は政治向きの話を元来しない人だ。古今東西の映画や音楽、小説にまつわる幅広い蘊蓄を、柔らかな読み物にする文筆家である。しかし、そんな小林氏も、最近は腹に据えかねることが多すぎるのだろう。時たまイレギュラーに、こうした政治批判、世相批判を書くようになった。


 で、この“本離れ”について、今週の文春にはもうひとつ、衝撃的な文章があった。読書ページ『文春図書館』の筆頭に置かれた『今週の必読』という書評である。今週は、東工大教授・中島岳氏の新刊『石原慎太郎 作家はなぜ政治家になったか』を、作家の中森明夫氏が取り上げている。


 この書評を読む限り、中島氏のこの著書は、意外にもその昔、《護憲で厭戦的だった若手作家》として世に出た石原氏が、江藤淳氏主宰の「若い日本の会」で、大江健三郎、開高健、浅利慶太、黛敏郎といった面々と60年安保に先立つ警職法改正反対運動に名を連ね、やがて、運動への失望・虚脱感によって、「保守派」へと舵を切ってゆく、そんな彼の思想や行動の変遷を《古い資料の発掘と丹念な読み解き》で丁寧にたどったものらしい。


 多くの人がたぶんそうだろうが、私は新聞や雑誌の書評欄を基本的に“ざっと眺める”だけで済ませ、興味をそそられる本、あるいは記事タイトルを発見して、初めて記事の中身を読む。その率は10本のうち1本にも満たないだろう。そんな私が今週、この書評をまるまる1ページ分読み切ったということは、間違いなく自分がこの本の持つ戦後思想史の切り口に、何らかの期待を見出したからだ。“面白そう”に思えたのである。


 ところが、評者・中森氏は、以下の驚くべき文でこの書評を締めくくった。《この優れて誠実な石原論は、しかしいったいだれが読むのか? かつての石原信奉者もリベラル論者も読まないだろう。それは石原の小説が昔ほど読まれないのと同様だ。そう“戦後”は忘れ去られたのである》


 私自身、新聞や雑誌に依頼され、時折、書評を書くことがある。紙媒体の書評は「取り上げるに値する本」を紹介することが基本だが、どうしても言いたいことがある場合は、そのなかに批判的な文を織り交ぜることもある。だが、今回のように内容は評価しておきながら、「読まれないだろう」(つまり「売れないだろう」)などと指摘する書評は、ちょっと見た記憶がない。


 そうか、この手の本はもう、世間の人々は「面白そう」と思わないのか……。私は中森氏の“判定”になかば頷きつつ、一方で、自らの感覚の“ズレ”を突き付けられた気もした。そんなふうに言われるならなおのこと、自分は意地でもこの本を買って読む。そんな気にもなったのだ。中森氏の筆が、そんな天邪鬼をあぶり出す“意図的挑発”なら、まんまとそれにはまる形だが、もしそれが売り上げに好影響を及ぼすなら、それはそれで喜ばしく、中森氏の“ひねくれた技”に敬意を示したい。


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三山喬(みやまたかし) 1961年、神奈川県生まれ。東京大学経済学部卒業。98年まで13年間、朝日新聞記者として東京本社学芸部、社会部などに在籍。ドミニカ移民の訴訟問題を取材したことを機に移民や日系人に興味を持ち、退社してペルーのリマに移住。南米在住のフリージャーナリストとして活躍した。07年に帰国後はテーマを広げて取材・執筆活動を続け、各紙誌に記事を発表している。著書は『ホームレス歌人のいた冬』『さまよえる町・フクシマ爆心地の「こころの声」を追って』(ともに東海教育研究所刊)など。最新刊に沖縄県民の潜在意識を探った『国権と島と涙』(朝日新聞出版)がある。