(「インタレスト」から、2枚目も)


野村克也氏が2月11日、亡くなった。享年84歳。昨年10月の400勝投手・金田正一氏に続いて球界の巨星がまたひとり、鬼籍に入った。プロ野球を長く愛する者にとって、往年の大スターが世を去るのはとても寂しい。


選手時代のノムさんを初めて見たのは、1976年シーズン。本拠地の大阪球場だった。予備校が近くにあり、南海の本拠地球場は通学途中にあった。監督兼任でプレーイングマネージャー。記録によればこの年、前期、後期ともに2位。当時は戦力充実の阪急が黄金時代で連覇中だった。ノムさんは翌年のシーズン最終盤に突如退団するのだが、そのときの記者会見はニュース速報で流れた。いまだに鮮明な記憶として残っている。


「鶴岡親分に、……ブッ飛ばされました!」


ユニホーム姿のノムさんは、「鶴岡親分」のあとにやや間があって、憤懣やるかたない口調で次の言葉を発したのだった。そのときは、試合の采配を巡って前監督だった鶴岡一人氏と衝突し、怒りを買って追い出されたと理解していた。ところが後日、その原因はのちに夫人となる沙知代女史が試合の先発メンバーに容喙するなどして公私混同ぶりが目に余り、チームが崩壊寸前。監督をかばおうとする川勝オーナーが泣く泣くノムさんを切ったのだった。


この騒動の余波で、阪神から呼んだ江夏投手、生え抜きの主軸である柏原内野手はノムさんに連帯する形で他球団に移籍していった。その後、ノムさんはロッテ、西武と渡り歩いて最後のあがきを見せたが、1980年に引退した。


その翌年だったか、私はひょんなことからノムさんと会話をすることになる。ノムさんはその頃、解説者としてテレビ朝日で「ノムラスコープ」なるものを編み出し、テレビ画面のなかに長方形のストライクゾーンをつくり、1球ごとに点で示して配球を解説する新手法が注目を浴びた。同時に講演業にも精を出し、中小企業の経営者を相手に、独自の野球理論をデフォルメした経営哲学を開陳して、こちらも好評を得ていた。


その年、都内の私大に在籍していた私は夏休みを利用して東京・中野にある「中野サンプラザ」でアルバイトをしていた。地下にある大食堂のウエイターで、上階にある会議室にまとまった量のコーヒーを運んでいた。ある日のこと。50人分のアイスコーヒーを持参してその部屋に入った。注文を受けたのは、都内の中小企業経営者を相手に講釈をぶっていたノムさんの講演会だったのである。ちょうどコーヒータイムの休憩だったのか、講演は一時中断していた。配膳していると、不機嫌な声を浴びせられた。


「オイ、隣の部屋、少しうるさいぞ! なんとかせい」

「ハア……」


会話と言えるほどのこともないが、とにかく、私はノムさんから話しかけられたのだった。逆算すると、ノムさんは当時45歳。独自の解説で人気があり、ONに次ぐ知名度はあったものの、球界復帰はこのときからさらに10年を要すことになる。そのころはまだ、パリーグの選手はノムさんといえども全国区ではなかった。夫人の悪評も消えておらず、雌伏の時代だったのかもしれない。



ノムさんの現役時代のバッティングフォームを見ると、三冠王を3度取った落合博満の「神主打法」と酷似している。そのことを誰も指摘しないのが不思議なくらいである。肩の力を抜き、腰の付近にグリップを構え、左足を少し上げ気味にしてタイミングを取る。フォローはあまり取らず、8分目のスイングに留める。腰を使ってバットを回し、インパクトのあとはスイングの余韻を楽しむ感じなど、何から何までそっくりなのだ。


世界一プライドの高い落合の口からは生涯、「ノムさんを真似た」とは言わないだろう。しかし、見る人が見れば、はっきりわかる。だからどうということでもないのだが、ノムさんが逝去した今、不人気のパリーグを盛り上げた数少ない名選手として、落合には白状してほしい。


ノムさんと言えば「ぼやき」だが、こんなコメントも忘れられない。「なんだ、“違和感”というのは」。選手がよく、腰に違和感があるとか、肩に違和感があるとか言うのをクサしていた。痛いならそう言え、と言っているのだ。恰好つけやがって。はっきりしないのは嫌いなんだよ。


それからノムさんは、理論が先行する冷血漢と思われがちだが、そうではない。情の人である。詳細は割愛するが、楽天監督時代はその傾向が顕著だった。歳を取ってモロくなったのである。投手交代や代打起用で温情采配を振るい、あとでぼやくことも一再ではなかった。もちろん、ボールカウントやスコア、イニング、チーム対戦成績ごとに局面が変わる理詰めの野球論を完成させた功績は永遠不動のものである。思うにノムさんは、そうした局面ごとに対応が刻々と変わる野球の醍醐味を十分満喫してあの世に行ったのではいか。残したものは、計り知れないほど大きい。合掌。(三)