11日の火曜日にプロ野球界の巨星・野村克也氏が亡くなった。各誌締め切り日の関係で、今週は週刊文春と週刊新潮に簡単な記事が出ただけだが、来週は多くの週刊誌に追悼記事が載るに違いない。個人的には1980年代、彼がまだヤクルト監督に就任する以前、週刊朝日にさまざまな野球記事を書いていて、そのユニークな野球観に“目からウロコ”の新鮮さを何度も感じた記憶がある。週朝には抜粋でもいいからその頃の“ノムさん節”をいろいろ再録してほしい。


 ノムさんと言えば、2年前、サッチーこと沙知代夫人に先立たれて以後の憔悴が、あまりに痛々しく見えていた。とくに昨年末、NHKスペシャル『令和家族 幸せ探す人たち』という番組で、ジャニーズのタレント・横山裕さんと野村氏の2人の境遇が掘り下げられ、人生の儚さや味わいをあれこれ考えさせられたものだった。横山さんのケースは幼い日に別れた父親への愛憎、野村氏は愛妻を失った喪失がテーマだった。野村氏には94歳の脚本家・橋田寿賀子さんが親身に激励を試みたが、打ち沈んだ氏の心は簡単には動かせない。番組放映からひと月余の死去、ということで、結局野村氏は生きる気力を取り戻せないままに旅立ってしまったか、という切なさが湧く。


 それにしても、とふと思った。この“対立と分断”の時代、どんな著名人の訃報であれ、ネットには必ずや悪意のあるカキコミが一定数現れる。政治家であれ芸能人であれ、アンチによる“追い打ち”を免れない。つくづく嫌な時代だと思うのだが、考えるとごくまれに、大多数に惜しまれて死を迎える例外もある。今回の野村氏もそのひとりだし、2年前に亡くなった樹木希林さん、あるいは昨年、非業の死を遂げた中村哲さんもそうだったように思う。


 悪意の中傷者はゼロにはならないが、それでも世間の大半はその死去を惜しんで見送った。こんな時代でも“分断を乗り越える人柄”がある。そんな思いがよぎったのである。とは言っても、3人は3人ともユニークな人柄で、共通点は容易には見つからない。万人に受け入れられようと、八方美人的にふるまった人ではなかったし、むしろ3人とも批判を恐れずにはっきりとモノを言う人だった。


 今週の週刊新潮『本誌が聞いたノムさんの〝ボヤキ〟〝毒舌〟語録』という記事を見ると、野村氏の“直言”は相当に激辛なものだった。長嶋茂雄氏に対しては《彼が巨人を凋落させた張本人(の監督)》、同じ巨人の原辰徳氏や高橋由伸氏、あるいは清原和博にはいずれも《お坊ちゃん》、あのイチロー氏に対してさえ《彼は人を小ばかにする》と容赦がない。当然、批判の矢を受けた当人や、そのファンはカチンと来たはずだし、今でも内心は野村氏に悪感情を抱いている可能性もある。


 だが、世の多くの人たちは氏のこうした物言いも、“苦笑い”で済ませていた。氏の野球愛、野球そのものへの真摯な探究心、その部分にはみな敬意を抱いており、それに付随する“屈折した物言い”はある程度“仕方ない”と受け入れていたように思う。樹木希林さんだってズケズケものを言っていたし、中村哲さんの平和主義の思想信条にはアンチが相当いたはずだが、彼にはそれを黙らせるだけの実践力と覚悟が備わっていた。


 そんな3人の共通点をあえて探すなら、とにかくマイペース。むきにならず飄々と我が道を歩いた人。その程度の印象である。それぞれ内面には、尊敬に値する“傑出した部分”も持っていて、俗人が真似ようと思って真似られるキャラではない。そもそも「人にディスられない人格」などと卑小なことを考えている時点で、我が身の立ち位置は3人とはほど遠い。残念だが、そのことは認めざるを得ない。


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三山喬(みやまたかし) 1961年、神奈川県生まれ。東京大学経済学部卒業。98年まで13年間、朝日新聞記者として東京本社学芸部、社会部などに在籍。ドミニカ移民の訴訟問題を取材したことを機に移民や日系人に興味を持ち、退社してペルーのリマに移住。南米在住のフリージャーナリストとして活躍した。07年に帰国後はテーマを広げて取材・執筆活動を続け、各紙誌に記事を発表している。著書は『ホームレス歌人のいた冬』『さまよえる町・フクシマ爆心地の「こころの声」を追って』(ともに東海教育研究所刊)など。最新刊に沖縄県民の潜在意識を探った『国権と島と涙』(朝日新聞出版)がある。