(1)清和源氏


 源頼光(948~1021)は、平安時代中期の武士で、清和源氏の第3代目です。頼光は「よりみつ」と読みますが、「ライコウ」と読むことが多いようです。悪辣非道なる鬼・酒吞童子を退治した武士のヒーローです。忘れ去られつつあると思っていたら、ITゲームで超美男子ヒーローとして復活しつつあるようです。


 そもそも「清和源氏」とは何か。


「源氏」とは皇族が臣籍降下する際に名乗る氏のひとつで、21人の天皇の子、孫が源氏を名乗った。それで「源氏21流」あるいは略して「21流」という。そのなかで、歴史上目立った存在は、嵯峨源氏、清和源氏、光孝源氏、宇田源氏、醍醐源氏、村上源氏であろう。なかでも、清和源氏は、鎌倉幕府の祖・源頼朝、室町幕府の祖・足利尊氏を輩出して、最大の源氏となった。脇道に逸れるが、源氏21流のなかの変わり種は光孝源氏。仏師の家系となり、鎌倉時代に、運慶、快慶などを輩出した。


 なお、「平氏」も皇族が臣籍降下する際に名乗る氏で、桓武平氏を含め4流ある。桓武平氏以外は、存在感は希薄です。


 清和源氏は、その名のとおり清和天皇から始まる。清和天皇(第56代、在位858~876、生没850~881)の後宮ハーレムは、女御14人、更衣10人、宮人2人です。そして、皇子の4人、孫の12人が臣籍降下して「源氏」を称した。そのなかでも、貞純親王の子である源経基(?~961)の系統が非常に繁栄した。したがって、「清和源氏」と言えば、源経基の系統だけを指すことが一般的である。それゆえ、清和源氏の初代とは源経基となる。


 源経基は、平将門の乱(939~940)に登場する。「平将門は英雄なり」という観点からすれば、源経基は極めて卑劣な人物である。しかし、卑劣ではあったが悪運が極めて強かった。


 清和源氏2代目は、源経基の子の源満仲(912~997)である。京での武官貴族で、ランク付けするなら中流貴族である。この人物は、「出世・金儲けならば、なんでもやる」というタイプのようだ。歴史上、活躍したのは安和の変(969)である。活躍と言っても、合戦・武勇ではなく、裏切り・密告である。藤原北家嫡流が権力を掌握する過程の事件で、藤原北家嫡流としては左大臣・源高明(914~983)を排斥せねばならない事態になった。源高明は醍醐源氏であるが、藤原北家の一門でもある。血筋もいい、人柄もいい、学問も優れ、宮中の儀式・年中行事にすこぶる明るかった。藤原北家嫡流は源高明を排除するため、源満仲と藤原善時の2人に「源高明、謀反」の密告をさせた。源高明は失脚した。源満仲と藤原善時の2人は、密告の功績により出世した。


 なお、安和の変の真相はよくわかっていないが、事件当時でも、どうやら「源高明は無実、お気の毒に」という同情は濃かったようだ。そのためと想像するが、源高明の娘・明子は藤原道長と結婚する(正室ではなく、いわば第2夫人)し、息子2人も昇進栄達した。


 まったくの奇説であるが、『源氏物語』の作者は源高明である、「光源氏」のモデルは源高明である、というものがある。それだけ、源高明への同情が強かったのだろう。


 藤原北家嫡流(=藤原摂関家)と密着した源満仲は、摂津国・越後国・越前国・伊予国・陸奥国などの国司(受領)となって莫大な富を得る。国司には、京に留まって任国へ行かない「遥任」と現地へ赴任する「受領」がある。「遥任」は皇族・高級貴族で一定収入が確保される。「受領」は現地最高権力者であるから、やり方次第では荒稼ぎできる。源満仲は「受領」として荒稼ぎした。莫大な富を獲得するため、かなり無理・悪辣なことをしたようだ。そのため、他の武士から反感を受け、973年には自宅が襲撃され放火され、近隣300~500軒が焼失という大火災となった。


 さて、源満仲は、摂津国川辺郡多田へ進出した。現在の兵庫県川西市で、宝塚市の東で大阪府と接する地域である。いつ進出したのか不明だが、ここに治外法権とも言うべき領地支配を確立した。そこに、私兵たる源氏武士団、その数400~500人を形成した。


 同時代の人は、源満仲を「殺生放逸の者」と日記に書いた。源満仲が行った殺生とは2つある。ひとつは、天皇から鷹狩りの鷹の子の飼育を請け負っていたため鷹の餌である野生動物の狩猟をしていたことである。毎年40~50羽の鷹を飼育していたから、大変な数の野生動物を狩猟した。それは、やむなき殺生であろう。


 しかし、もうひとつの殺生は、多田の地の恐怖支配である。源満仲は『今昔物語』には、次のように記されてある。


「我が心に違ふ者有れば、虫などを殺す様に殺しつ。少し宜しと思ふ罪には足手を切る」


 気にくわない人を虫けらのように殺した。軽い罪は手足を切り落とした。源満仲は恐怖支配によって多田の地から莫大な富を獲得したのであった。前述した「受領」の各国でも同様の搾取をしたのだろう。


 しかし、987年、源満仲は多田の邸宅で郎党16人・女房30余人とともに出家した。死去の10年前のことである。『今昔物語』には、源満仲の末子で僧になった源賢が、父・源満仲の殺生を深く悲しみ、仏法を説いて出家させたという説話がある。殺生放逸を少しは反省したのだろう。


 なんにしても、源満仲は、裏切り・密告・暴力・殺人といった単語と結びつく人物であった。しかし、長男・源頼光(948~1021)は摂津源氏の祖、次男・源頼親は大和源氏の祖、三男・源頼信は河内源氏の祖となった。そして河内源氏から、鎌倉幕府の源頼朝、足利幕府の足利尊氏が生まれた。


 したがって、清和源氏は実質的には源満仲から始まり、多田の地は清和源氏の発祥の地である。そのため、源満仲は後世の清和源氏から、人物像とは関係なく尊敬された。


(2)武功ではなくプレゼント大作戦


 そして、清和源氏第3代目が源頼光である。多田の地を父から受け継いだ。苦労なく多田の地と莫大な富、源氏武士団を相続したのだ。時代は藤原道長の摂関時代、華やかな王朝文化、基本的に平和な時代である。源頼光がしたことは、武力で貢献ではなく、プレゼント大作戦である。


 988年、頼光、藤原兼家(道長の父)に馬30頭を贈った。


 1016年、三条上皇に菓子を献上。


 この程度のプレゼント作戦ならば、「ああ、そうですか」なのだが、1018年、頼光、藤原道長の土御門殿に大量の調度品を献上。


 これは、もう当時の人がビックリ仰天・腰を抜かすほどの史上最大のプレゼントであった。頼光最大の事業とは、これである。もちろん、源頼光は、前記の3件のプレゼントだけでなく、藤原摂関家の有力者たちに、献身的にプレゼント奉仕をしたのである。


 もちろん、プレゼント大作戦の効果は、源頼光を各国の「受領」就任という見返りがあった。しかも、実入り大きい富裕国の受領であった。


 武士らしいことも若干あるにはあるが、ささやかに過ぎない。


 世に「道長四天王」なる言葉がある。藤原道長に武力でもって仕えた武士である。そのなかに源頼光は入っていません。頼光は武での奉仕はなく、経済奉仕の人物なのだ。だから、源頼光の真実の姿は、あまり面白くない。


 脇道に少し入って、「道長四天王」について。藤原保昌、源頼信、平維衡、平致頼の4人である。


 藤原保昌(958~1036)は、道長の信頼厚い武人で、道長の家司も務めた。道長の勧めで和泉式部(978~?)と結婚する。和泉式部は王朝ナンバーワンのスキャンダル女性歌人であるが、最後は藤原保昌と結婚した。『宇治拾遺物語』・『今昔物語』の「袴垂と保昌」のお話、和泉式部の愛を得るため保昌が「花盗人」になるお話が楽しいですよ。


 源頼信(968~1048)は、頼光の弟、満仲の三男、河内源氏の祖である。


 平維衡(これひら)は伊勢平氏の祖である。時代を下ると、この系統から平清盛が登場する。


 平致頼(むねより、?~1011)は、伊勢国で平維衡と合戦をしている。勇猛な武士であることは確かなのだが、なぜ、「道長四天王」に入っているのか、どうもわかりません。


(3)鬼同丸を退治


 自分の遠い先祖が立派な華々しい存在であってほしいと願望する人は、現代でも、少なからずいるようだ。少し前の時代では、家系や家は、何はさておいても貴重とする時代であったから、なおさらである。


 誤解されるといけないので、「先祖を尊ぶ」に関して一言。先祖を尊ぶのは、先祖がいるから自分がいる、という単純な理由である。先祖のなかには、善人もいれば悪人もいる。「先祖=善人」だから、先祖を尊ぶのではない。善悪に関係なく、「先祖がいるから自分がいる」から尊ぶのである。とは言うものの、先祖は悪人よりも善人のほうがいいなぁ、と凡人は思うのであります。


 家系や家を非常に大事とする時代にあっては、先祖は立派な華々しい人物であってほしいと熱望する。鎌倉幕府・室町幕府は、清和源氏に繋がる家系である。清和源氏のご先祖様は立派な華々しい存在であってほしい、それは時代の要請である。


 しかし、1代目の源経基や2代目の源満仲は、欠点が大きいし、業績もハッキリしているので、立派な人物に脚色するには、少々無理がある。でも、3代目の源頼光は脚色しやすい人物である。源頼光の生涯とは、最高権力者である藤原道長に付き従い、道長らへ財物を贈呈していただけである。武力も権謀術数もない。絵を描くには白紙のほうがよい。


 どこの誰だか知らないが、清和源氏ヨイショを使命とする作家やプロデューサーたちは、源頼光に目をつけた。


 最初は、鎌倉時代初期の『保元物語』で、頼光と部下の「四天王」で朝廷を守った、と記された。王権守護者のレッテルは確立したが、如何せん、歴史的事実は、頼光は何もしていない。となると、頼光が征伐する対象は、事実ではなく、空想の怪物・妖怪となる。


『古今著聞集』は鎌倉時代初期の説話集である。そのなかに、源頼光が凶悪犯人・鬼同丸を渡辺綱(753~1025)と協力して成敗する話がある。ストーリーは、次のような粗筋です。


 源頼光は弟の源頼信の邸宅を訪れたら、凶悪犯人の鬼同丸が縛られていた。頼光は一目見るなり、とてつもない凶悪性を見抜いて、縛りを強化させた。しかし、鬼同丸は逃亡に成功する。鬼同丸は、鞍馬寺参詣途中の頼光襲撃を企てる。鬼同丸は、牛を殺して、その牛に入り、頼光を待ち伏せた。源頼光と渡辺綱らの一行に、鬼同丸が潜む牛が襲った。一行は牛に向かって矢を射った。渡辺綱の放った矢が牛に命中し、鬼同丸が牛から踊り出た。すかさず、頼光が鬼同丸の首を切り落とした。それでも、鬼同丸の頭は頼光の馬のムナガイ(胸にあてる馬具)に噛みついた。


 この話の元ネタは『御堂関白記』(藤原道長の日記)らしい。源頼光の話として、放牧された牛が馬と戯れていたが急死したという。この元ネタから、清和源氏ヨイショの作家が鬼同丸の話を創作したのだろう。


 なお、渡辺綱は、後述するが、頼光四天王の筆頭武士である。一条戻り橋で鬼の腕を切り落としたお話でも有名です。


(4)酒吞童子を退治


 たぶん……、山に鬼(盗賊)の集団がいた。頭領は酒が大好き。悪辣非道・乱暴狼藉を働いていたが、いつの間にか、姿を見なくなった。そんな事実があったのだろう。仲間割れしてバラバラになって別の所へ移ったか、あるいは、病気で亡くなったか、それとも、「誰か」が退治したのか。


 そんな話に、作家・プロデューサーは飛び付き、「誰か」に源頼光を当てはめた。それが、超大ヒット。全国各地の伝説となった。清和源氏の系譜の人にとって、とても心地よいお話です。酒吞童子の話は時とともに進化・変化していきます。最も古いものは、南北朝後期の『大江山絵巻』で、その粗筋を紹介します。


 一条天皇(第66代、在位986~1011)の御代に、京で連続的に姫君の神隠しが発生した。陰陽師・安倍晴明(921~1005)の占いの結果、大江山の鬼の仕業と判明した。一条天皇は、源頼光と藤原保昌(958~1036)らに討伐を命じた。


 源頼光ら討伐隊一行は山伏に扮して鬼の居城へ到着する。一夜の宿を、と頼みこむ。鬼は疑い深く、山伏姿の頼光にあれこれ詰問する。なんとか信用させ、酒盛りが始まった。鬼は酒が大好きで、手下から「酒吞童子」と呼ばれていた。鬼は身の上話を始める。かつては比叡山にいたが、伝教大師(最澄)が延暦寺を建てたため住めなくなり、大江山に移り住んだ、という。


 源頼光は、八幡大菩薩から頂いた毒酒を鬼に飲ませた。鬼は、酔いつぶれて、寝所で高いびき。源頼光らは、笈(おい)に隠してあった鎧兜で戦闘態勢。笈とは、僧や山伏が修行のため旅するときに、仏像や経文などを入れる箱で、背負うようになっている。いわば木製箱型リックである。


 鬼の寝所へ流れ込み、鬼を押さえつけて、鬼の首をとった。しかし、生首になっても、頼光の兜を噛みつきかかった。頼光は仲間の兜を重ねてかぶって防御した。かくして、鬼の首を担いで京へ凱旋する。鬼の首は、宇治平等院の宝蔵に納められた。


 そして、源頼光の酒吞童子退治のお話は、進化して御伽草子として、超大ベストセラー・アンド・ロングセラーとなる。前述の粗筋に付け加わった主要な点は、次のとおりです。


●茨城童子なる鬼が登場する。酒吞童子の第1の子分である。茨城童子は生き延びて、「一条戻り橋」の鬼となる。

●討伐隊に、しっかり「頼光四天王」が位置づけられた。頼光四天王とは、渡辺綱、坂田公時、碓井貞光、卜部季武である。筆頭が渡辺綱。坂田公時とは、「マサカリかついだ金太郎」が大人に成長した姿である。

●討伐隊の一行は、途中で若い洗濯女に会う。この女は鬼にさらわれた姫君であった。ここで内部情報を得る。ちゃんと美女が登場するようになった。

●酒吞童子の身の上話に、「本国は越後」と語り、比叡山の伝教大師(最澄)だけでなく、弘法大師(空海)も登場する。

●酒吞童子のほうにも鬼の四天王がいる。

●生首になっても頼光を襲うシーンは、鬼同丸説話から不変です。

●毒酒を飲ませることは、一種のだまし討ちである。酒吞童子は頼光に対して「鬼に横道はない」と叱責する。


 というわけで、源頼光は清和源氏の英雄になりました。冒頭に「ライコウ」と呼ばれることが多いと書きましたが、「ライコウ」は「雷光」をイメージし、いかにも古今無双の豪傑って感じがするので、そう呼ぶようになったのでしょう。


 人間の心理は天邪鬼で、いつの頃からか、酒吞童子に好印象を持つ人々が現れました。幕末の越後国長岡藩の河井継之助(1827~1868)は、酒吞童子・上杉謙信・良寛を越後が生んだ三傑とした。


 なお、源頼光の妖怪・怪物退治には、土蜘蛛退治があります。やはり、頼光四天王と一緒になって退治します。この土蜘蛛は、『古事記』『日本書紀』に出てくる土蜘蛛とは無関係です。源頼光の土蜘蛛退治のお話は省略します。


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太田哲二(おおたてつじ

中央大学法学部・大学院卒。杉並区議会議員を8期務める傍ら著述業をこなす。お金と福祉の勉強会代表。「世帯分離」で家計を守る(中央経済社)など著書多数。