大河ドラマ「麒麟がゆく」の評判はまずまずいいらしい。民放までが大河ドラマにあやかろうと、本能寺の変は陰謀か、明智光秀から豊臣秀吉まで、など光秀ものを取り上げて宣伝している。大河ドラマにはやはり時代ものが相応しいというか、人気が出る。現代ものは世代によって真相を知っている人が生き残っているし、興味のない人もいる。


その点、マンガで忍者ものが若者の人気になっているし、応仁の乱を描いた本がベストセラーにもなったから、時代ものは老いも若きも興味を持てるからだろう。そんな時代もののなかでも、本能寺の変は「戦国時代最大の謎」と言われているし、加えてドラマの最後に登場するであろう秀吉には庶民の人気がある。大河ドラマの人気はシナリオの出来具合と監督の手腕にかかっている。


 ともかく、この本能寺の変は真相が不明だけにいろんな説が言われている。ざっと挙げれば、織田信長から徳川家康接待役の命を受けた光秀が信長の不興を買い、大勢の前で叱責を受けたことから謀反を起こした怨恨説、光秀が天下を取ろうとした野望説、信長亡き後、天下人になった秀吉が唆した、あるいは、徳川家康が仕掛けた罠、いや、朝廷が裏にいたといった陰謀説、さらに信長が四国を統一した長宗我部元親征伐に踏み切ったため、両者の間を取り持った光秀が両者の間に挟まり、進退きわまった末、謀反を起こした四国説、といったものだ。



 戦前までは怨恨説が有力だったようだが、戦後は怨恨説を唱える人は少ない。怨恨説は江戸時代後期の書物などに出てくるため、学問的に資料価値が低いとされている。それに加えて光秀ほどの知識人であり戦略家であり、戦上手という傑出した人物が、信長から横暴な叱責を受けたということだけで謀反を起こすことはないだろうという思いがある。


 代わって、昨今、有力なのが四国説だ。光秀が長宗我部氏を説得して信長に臣従することにしたのに、信長が四国征伐を命じたことで進退極まった光秀が謀反を起こしたという説で、長宗我部氏の書状が見つかったことから有力視されている。理にかなっている説だが、私は雑誌社の退職間近になって、真相は最も単純な怨恨説ではなかったか、と思うようになった。理由は人間関係である。


 私事で恐縮だが、私は週刊誌で20年近く2ページもののコラムに携わった後、特集を執筆するデスクになった。コラムは企業や新聞記者から注目される“名物記事”になり、嘘か真か知らないが、周囲から「国税庁がコラムに書かれた人物をリスクアップしている」「評論家がスクラップして参考にしている」などとも言われた。


 実は、コラム時代にY編集長から60人の編集部員の前でこっぴどく叱責されたことがある。原因は文末の2センテンスの部分で、Y編集長とコラム担当デスクであるM部長の双方から別々の直しが入った。Y編集長とM部長はナンバー1とナンバー2の関係だが、両者の間は極めて仲が悪い。週刊誌では編集長は取締役であり、編集部内ではワンマンである。普通なら仲の悪いM部長を月刊誌などの他部門に異動させるのだが、M部長は各界にディープスロートを持ち、企画力が抜群だったため、異動させられなかったという妙な関係だった。


 こういう事情があるため、双方から手直しが入ると面倒なのだ。結局、私の間違いだが、編集長は直しの部分なぞ丹念に見ないだろうと思ってM部長の指摘した手直し通りにした。だが、M部長が帰った後、編集長から猛烈に叱責されたのである。M部長が直した文章を「なっていない」「私の指示を無視するのか」と大声で怒鳴られた。編集長の言う通りに再手直ししたが、案の定、翌日、M部長から「なぜ、直したのか」とまた叱られた。


 この「事件」の夜、会社を辞めようかと思った。だが、有り難いことに親しい先輩デスクから「M部長の手直しです、と言ってしまえばいいのに」、Sデスクからは「気にするな。時々あることだ」と慰められたこともあって辛抱し続けた。


 ところが、その後、私を怒鳴ったY編集長がどういうわけか「特集の記事を書け」と、私を特集担当デスクに引き上げた。当時、デスクは7人で、そのうち6人が毎週4~5ページの特集記事を書くが、デスクは6~7人の記者に指示して取材してもらう。週刊誌編集部を戦国大名に譬えれば、師団長といった立場だ。そのデスクに怒鳴りつけた私を就任させたのだから、ワンマンの気持ちは測りがたい。


 特集デスクになってからもY編集長からは、しばしば「文学的に書け」と言われ、往生したが、気付いたのはY編集長には特定の人を目の敵にする傾向があることだった。まず、ものの見方をいろいろ教えてくれた先輩のSデスクで、たびたび文句を言われていた。


 だが、あるとき、元編集長で雑誌部門の責任者であるN常務がSデスクのゲラを手に、「これはいい記事だ。みんな参考にしろ」と言ったのだ。その日以後、Y編集長のSデスクへのイジメはなくなった。


 次に標的になったのはOデスクで、「文章の構成が悪い」「回りくどい」と毎週のように怒鳴られた。Oデスクは頑固なところがあって、なかなか直さない。結局、広告部に異動させられた。Oデスクは「私は編集者失格だからねぇ」とこぼすのを慰めるのが大変だった。次いで標的になったのはIデスクで、その次が私だったのだ。幸い、数年後、編集長がM部長に代わり、イジメはなくなった。


 定年間近になって月刊誌に異動させてもらった。人並みに土日を休みたいという理由だ。ところが、この月刊誌で週刊誌時代の後輩のN君がある日、涙を流しながら「T編集長からいつもぼろくそに言われている」とこぼしたのだ。


 T編集長は週刊誌時代、20代の末に特集デスクに抜擢された優秀な人物だが、週刊誌のY編集長のようなイジメ、パワハラの傾向があるようなのだ。H君には自分が経験したこと、見聞きしたことを話し、世に中にはそういう傾向の人がいるが、そんなことを気にしないように慰めた。H君は悩みを話したことで気が楽になったのだろう、私が辞めたとき、個人的に送別会を開いてくれたが、このときに、優秀なワンマンは気に入らないと、相手が優秀であろうがなかろうが、パワハラを起こすということに気付いた。


 話を戻して、新時代を切り開いてきた信長は超ワンマンである。そしていくら光秀は優秀であっても、気に入らないことがあると罵倒したはずだ。これは最早、性癖のようなものだ。私の場合は尊敬するSデスクや親しいデスクが「いちいち気にするな」と諭してくれた。H君は自ら告白したことと、私が慰めたことで気にしなくなったようだ。


 しかし、光秀には慰めたり、忠告したりしてくれる先輩なり友人が傍にいなかった。柴田勝家は北陸で上杉勢と戦っているし、秀吉は中国で毛利と戦の最中だ。他の武将もそれぞれ甲州にいたり、四国攻めに取り掛かっている。


 もっとも、ライバルに相談しても相手にされないだろう。それどころか、光秀自身が信長の部下の中でトップの存在である。光秀は心の中でもう織田家の中にはいられない、と思い詰めたのではなかろうか。こう思ったとき、本能寺の変は最も単純な怨恨説が正しいのではないか、と思い至った。


 パワハラは経験しないとわからない。歴史家にはそういう経験がないからパワハラの凄まじさを理解できない。それが怨恨説を単純すぎると遠ざけ、野心説や陰謀説、さらに四国説につながるのではなかろうか。近年、主流の四国説は信長と長宗我部氏との間に挟まったという説だが、信長旗下で功績を争う武将は長宗我部氏が潰れようがどうなろうが気にしないだろう。


 私が入社した頃の週刊誌編集部ではデスクが隣のデスクに悩みを相談でもすると、「そんなことは自分で考えろ」と突き放されるような世界だった。光秀が優秀なインテリであるからこそ、信長というワンマンのパワハラに耐えられなかったのではなかろうか。


 歴史上、中国での謀反は大概、天下を取るという野望である。が、光秀には野望がなかったため、その後の行動が行き当たりばったりだったのではなかろうか。本能寺の変の原因がパワハラだったからこそ、謎になっているのではなかろうか。げに怖いのはパワハラだ。(常)