●貿易の不均衡打破には日本の構造改革
前回、MOSS協議の始まりに関してこのような分析を示した。「1985年以前から、米国政府は日本の市場開放を求めるなかで、日本の市場は閉鎖的で、非関税的障壁が大きいことが論議されるべきだと主張し始めていた。当時、対日貿易は大幅な赤字だった米国は、日本に対して(日本側の)黒字縮小をかなり強く求めていた。(中略)日本側の経済システムが効率的かどうかは本当なのか、という問いから米国は日米構造協議のスタートラインに立ったフシがある。製品を生み出す、部分的なシステムは効率的であっても、得られた利益を配分し活用することまでも含めた経済全般のシステムは非効率ではないのかという疑問が浮上」したことを指摘した。
その解析の具体的な一歩がMOSS協議ではなかったのだろうか。だが、多くの近年の経済学の教科書は、1980年代の世界経済を展望するなかで、MOSS協議の位置づけはあまり重視していない。
●日本経済システムの神話の解体
しかし、当時の日本型の経済システムが、米国との貿易摩擦を生む一方的な偏り、不均衡を生み出した要因とするには、当時の日本では無理のある議論に見えたかもしれない。確かに技術開発、例えば低燃費自動車、高性能カラーテレビといった、技術的優位性という背景があったかもしれないが、貿易上の要因の主たる核を成すのはあまりに硬直したドル高であり、日本の安い労働生産性にあったことも確かなのである。
そこで、ドル高などの要因と一緒くたにされた「日本の経済システムの効率性」が神話であることを具体的に暴いて見せた最初が、MOSS協議だったのではないかとみえる。実際、その後の構造協議などを通じて、国内で着手された構造改革により、いろんな局面で神話は崩れている。年功序列型の賃金体系は、今や生産現場からは姿を消した。にもかかわらず、公務員に残存している状況は、皮肉れば日本経済の新たな「神話」かもしれない。
しかし、日本の経済システムの効率性に関する神話の指摘が、比較的早く1980年代に行われたことは、現在に至ってみればバブルという出血は経たものの、日本経済の安定的なシステムを、少なくとも2030年頃までは保証する効果をもたらしたのではないかという予感もする。将来の日本経済の不安定要因は、やはり高齢化と少子化、人口減が最大のものだろうが、高齢者が持つ潜在的な資産が流動し始めるのは近いだろうし、人口減対策は移民政策も含めて論議が本格化することは間違いない。その意味では、医療を軸にした社会保障政策は、そうした資産流動、人口減対策の最大の政策手段になることは濃厚。
一方、日本に代わって世界2位の経済大国となった中国は、FTAに代表される経済のグローバル化に対応できる準備は進んでいるだろうか。為替市場における元の動向に政治、市場が本格的に厳しい反応を示す時期も近い。1980年代後半に起こった日本の不動産バブルに近いようなこともすでに起きており、中国経済の動向は世界の関心を今以上に集めることは間違いない。そのなかで、日本がMOSSをはじめとした国際間協議を契機として、経済システムの効率化、あるいは緩やかな転換を進めたプロセスが中国で起こっているかは疑問が大きい。経済成長のスピードが大きく鈍化したとき、中国の打つ手は貿易だけの「摩擦」ではすまないようなリスクもある。
中国の話は近未来の展望で、いい加減な観測はできない。話を戻そう。
今回はいくつか重複するかもしれないが、1990年代から本格化する日米構造協議の出発点となった1980年代の動向をまとめておきたい。
●ナショナリズムに対抗しきれた米国の経済政策
1985年から1年間協議されたMOSSは1986年に一定の合意をみた。その内容については前回示したが、その1986年に至っても、当時の米国レーガン政権は、通商法301条の運用には慎重な姿勢に終始している。1987年3月に対日高率関税の導入に踏み切っているが、包括的な報復関税措置を求める当時の米議会の圧力には抗していた。この頃、米国通商代表部は、こうした報復的関税措置の緩やかな運用について、日本を念頭において激しい関税措置は報復の連鎖や、結果的に貿易の縮小につながり、巨視的にみれば米国にとっても利益にならなくなるとの危惧を盛んに繰り返している。
一方、1985年のG5プラザ合意以後、急速に円高が進む。対ドルで資金を蓄えた日本経済は米国への不動産投資を積極化した。ロックフェラービルの買収などが象徴的に捉えられるが、米国社会にとって、このような光景はあまり好ましいものではなかったはずだ。当時のハリウッド映画で、日本人に金を奪われているという表現が散見されたのもこの頃だ。ハリソン・フォードは、大工仕事をしようとして工具小屋で見つけた一番良さそうな金槌を手にし、「こんなものまで日本製か」と罵りながらそれを放り捨てた。
現在では、中国が日本の別荘地や水源地を高額で買うことがしばしば話題にされる。もやもやした不快感が報道では示唆されることが多いが、国民感情的にはそれに似たものだろう。しかし、どう考えても当時の日本経済の米国への進出はそれとは規模が違う。日本のメディアは当時、日本経済の「日の出の勢い」をポジティブに報道するだけで、米国のナショナリズムに無関心だったといわざるを得ない。
日本のメディアは、戦後は経済を盾にして翼賛的だったという印象がある、今でも、米国・欧州をはじめ、政治経済、地域紛争などに関して、日本のメディアは国際的な関心の在り処を熱心に報道しない。その頃の米国の政策は、ナショナリズム的な国民感情をコントロールしながら、日本の経済システムの変更から手をつけるべきとの結論を得た印象が強い。ある意味、MOSS以降にとった米国の分析と行動は、その後の動向をみれば一定の功を奏したとみられるのである。
●外資を排除する日本型協調システム
MOSS協議は、日本の官僚主導の経済政策や、縦割りに象徴される制度とその運用の仕組みに注目した最初の一撃だ。当時の一部の国際経済学者が賞賛し、日本のメディアが自慢した日本型経済システムは、1985年を契機に、実は日本経済システムの構造改革の妨げになっているとの認識が確定したと言っていい。
例えば、1985年にはその象徴として関西国際空港の建設工事入札に海外企業が参加できないことが、米国では問題化している。もっとも、関空の建設計画が表面化した1970年代後半から、プランニングに米国が関与できないことは米国内の一部では問題になっていたが、表面化したのは1985年頃からだ。背景には、空港に関しては建設、運用事業のノウハウでは米国が最も進んだ技術集積があったことがある。そこに入れなかったのは、日本の官民の強固な制度の壁のせいだ。突き崩そうにも、縦割りの壁に阻まれる。米国はこうした具体的な「学習」を通じて、日本経済システムの構造そのものの改革を促すことから始めなければならないことを学んだのである。
●国際金融協調の時代に入って「構造調整」が課題に
1980年代前半の中曽根政権は、後期に至ってこうした米国側の緻密な戦略に対応を始めるが、MOSS協議によって開かれた端緒はどうしても米国主導になる。ここでも、日本の国民はこのような政治的戦略の動向を知らされないでいた、と断じていい。むろん、MOSS協議以後、1980年代の急速に進む円高ドル安を武器に、米国は301条の発動をはじめ報復的な対日貿易圧力措置も講じた。しかし、今にして思うと、それは日本の経済システムの構造改革を促す刺激策としての目的もあったのではないかとみられる。
一方で、1987年以降、1985年のプラザ合意を越えて、日米欧は国際的な金融協調体制に入る。しかし、その協調体制が混乱をみせると1987年10月19日のブラックマンデーを経験する。世界同時株安は世界に大きな不安と、金融国際化のリスクを知らしめた。この間、日本国内では不動産投資と株に資金が集中し始め、いわゆるバブルの時代が始まる。株への投資の関心は1987年に売り出されたNTT株を端緒としている。
米国からじわりと突きつけられ始めた構造改革への本腰を入れた取り組みは、国際金融強調社会が定着するなかで、先進国間の経済システムの「構造調整」へと展開していく。折しも、そのとき東西冷戦の時代は終わった。日米を基軸とした「構造調整」は1990年代に加速し、バブルは終焉し、いわゆる日本の「失われた20年」の始まりである。グローバル型の「構造調整」は、日本独自の伝統的システムを徐々に解体し始めている。郵政民営化は実現した。農協組織の見直しを含む農業の構造改革も俎上に上がった。経済の国際的協調と成長を求める視点からは、医療政策も遠からず厳しい論議に向かう。それらを具体的に点検してきたのが1992年以降の日米構造協議である。(幸)