カノコソウは、開花した花の様子が、和装や風呂敷などに使われる鹿の子絞りの布の模様に似ているので、この名がついたという草本である。一つ一つの花は極小だが、茎の先端に多数密集してつくので、一面にカノコソウが生茂る原っぱは、あたかも鹿の子絞りの布を広げたような、目がチカチカするような感覚を覚えたに違いない。昔はそんな場所がたくさんあったのだろう。
カノコソウは地下部を生薬として使うが、よく効く鎮静薬として、昔ながらの家庭薬や配置用の医薬品に多く配合されている。特に、月経困難症や更年期の不快症状等を和らげることを目的とした一般用医薬品に多く配合されており、最近では在阪の某製薬会社が販売している「命の○」などが有名である。
三大和薬には数えられないものの、カノコソウは日本独自の生薬と言ってよく、吉草根と言う生薬名はあるが、中国ではほとんど利用されないようである。このため生薬の生産も国内産が中心で、増産に苦労している生薬のひとつである。半分笑い話のように聞こえるかもしれないが、前出の「命の○」は、カノコソウが入荷して製剤が生産・出荷できている期間は、テレビで宣伝広告が流れるが、カノコソウの在庫がなくなり、製剤の製造ラインが止まると、宣伝広告が見られなくなる、のだそうだ。つまり、製剤の生産は、カノコソウ律速である、というわけである。
カノコソウの鎮静作用はあらたかで、いわゆるイライラ状態を緩和するほか、寝つきが悪い時の入眠補助薬としても実績は十分にあるらしい。しかし、昔は日本でもそこかしこにあった野生のカノコソウも今はすっかり見かけなくなり、家庭薬として伝承されることもほとんど無くなったようである。
ちなみに、日本に野生する植物でカノコソウに近い種類はオミナエシ(女郎花)で、こちらも野生のものはほとんど見かけなくなってしまった。季節の切花として栽培された黄色い花が秋には花屋さんに並ぶが、敗醤(ハイショウ)という別名が示すとおり、開花後に萎れてきた時の特有のにおいは、近くで聞くとかなり強烈である。このにおいのもとになっている化合物と同じ化合物がカノコソウにも含まれていて、その特徴的なにおいのもとになっている。
このカノコソウに近縁の大陸産の植物にセイヨウカノコソウというのがあって、やはり鎮静薬として広く使われている。筆者は97年ごろから中央アジア、特にウズベキスタンとカザフスタンを中心に、民間で利用されている薬用植物の現地調査に携わっていたのだが、旧ソ連時代にほとんどの伝統薬物や民間薬の知識が失われてしまっていた中で、しっかりと生き残っていた薬用植物利用の例のひとつが、このセイヨウカノコソウであった。
日本でのカノコソウと同様、セイヨウカノコソウは地下部を鎮静薬として使う。中央アジアだけでなく、ヨーロッパまで分布があり、バレリアンと呼ばれたりして広く使われてきた薬用植物である。セイヨウカノコソウの学名は、Valeriana officinaris であるが、この種小名に出てくるofficinalと言う言葉は「薬用の」と言う意味を持つ単語であり、この植物がかなり昔から薬用とされていたことを物語っている。
さて、聞き取り調査と標本収集の現地調査をしていた中央アジアの国々はイスラム教徒が多く、我々のような外国人のインタビューに応じるのは成人男性の役まわりであった。彼らの手持ちの乾燥させた薬用植物類のストックを見せてもらいながら、それぞれについて質問していくと、セイヨウカノコソウの根についてはたいてい、ニヤリとしながら、「嫁はんのヒステリーによく効くんだ」とか「嫁さんがイライラし始めたらこれの出番」とかの答えが返ってきた。彼らはそれをよく知っていて、自分の家庭で使うために野山から採集して保存しているのである。
日本の妻帯男性に、カノコソウあるいはカノコソウ製剤を見せて同じ質問をしたとしても、それがイライラを鎮める薬だと答えられる人は多くないだろう。中央アジアでは、壮年期以上の男性たちが、実によく、生薬や食物について、ひいては家族の健康管理や食事の世話に関して豊富に知識を持っていた。家のことはお母ちゃんに任せっきり、では、生きていけない社会なんだろうなあと、ふと、便利で省力化が進んだ日本の家庭事情と比較して、生き物としての生きる力の差を感じてしまった次第である。
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伊藤美千穂(いとうみちほ) 1969年大阪生まれ。京都大学大学院薬学研究科准教授。専門は生薬学・薬用植物学。18歳で京都大学に入学して以来、1年弱の米国留学期間を除けばずっと京都大学にいるが、研究手法のひとつにフィールドワークをとりいれており、途上国から先進国まで海外経験は豊富。大学での教育・研究の傍ら厚生労働省、内閣府やPMDAの各種委員、日本学術会議連携会員としての活動、WHOやISOの国際会議出席なども多い。