●米国の産業政策の失敗と日本の「技術立国」過信


 1回目のイントロダクションで、規制緩和の流れは1980年代の日米経済摩擦から起きた一連の日米の経済協議がその遠因となっていると述べた。しかし、これはこのレポートの独善的な見方かもしれない。というのも、1970年代の繊維交渉以後の日米協議の流れをみると、双方の主張は互いの産業政策のぶつかり合い、あるいは特に米国における国内産業保護のインパクトから出発しており、実際には、日本国内の規制を当初からあからさまに求めるものではなかったからである。


 そのため、日本における規制緩和が、これらの日米間、あるいは世界経済の1980年代以降のうねりの中で基幹的で主要なテーマであったわけではない。経済学的にいえば、日本の市場開放を求める中での個別的課題、いわゆるミクロ的課題だったということの理解が必要だ。


 端的にいえば、繊維、自動車、半導体といった産業別の利益・不利益を言い争う経済協議の時代から、冷戦構造の終焉によって、新たに始まったそれぞれの国の産業構造に対する是正、共通化を求める動きが、それぞれの国に保護的な経済政策の見直しを求める動きが活発化し、その結果として、規制緩和の流れが生じたのである。


 さらに、規制緩和はすべてが自由化に向かうということと同義語ではない。もともとあった規制を「緩和」するために、新たな規制が生まれた例もあり、医療の世界では意外にこれが大きく影を落としているし、その影は国民皆保険制度の行く手にも影響が大きい。


 一連の経済協議は規制緩和ありきで始まったわけではない。そうした誤解を避けるためにも、端折りながらだが、1980年代の日米協議の流れを少しみておきたい。 


●貿易不均衡は文化的視点の分析も必要


 経済学、とりわけグローバル経済の専門家であれば、1970年代後半から1990年代の日米協議を軸に、何が起こり、何がインパクトとなり、どのような結果がもたらされ、どう今後展開していくかを詳述し、観測することになるだろうが、本レポートは、そうしたグローバル経済の動向が、どのようなバネで規制緩和を促し、TPP協議に至り、特区という形での、特に医療ビジネスの改革前夜を生み出したかを、見てみたいという試みだ。


 そのため、1980年代以降の日米交渉は、なるべく経済学的視点、用語から離れ、きわめて一般的な表現で流れをみる。そのため、ときに主観的、あるいは誤解を生みやすい情緒的な表現が混じることを予め断っておきたい。


 言うまでもなく、貿易の不均衡の背景には、それぞれの国の経済構造、産業構造、歴史観、文化など、さまざまな要因が混じり合っている。例えば、農産物の輸出国と、工業製品の輸出国とでは、国内規制、輸出入規制も違えば、都市化の速度と情報伝達の速度にも落差が大きい。あるいは、労働者の知的水準と要求、余暇や健康に対する考え方を含めた勤労への意識、所得格差の受け取り方、貯蓄性向などにも違いがある。そうしたことがその国の政策に微妙に影響を与え、政策圧力となって不均衡への不満があらわになる。その場合、不均衡は実は一方的であることは少ない。貿易に伴う産品ごとの利害得失は一国間の中でもかなり違う。


 1960〜1970年代、日米貿易不均衡の懸案事項の第一は繊維だった。「ワンダラーブラウス」という1960年代に米国の消費者に受け入れられた流行語は、日本の安価な綿製品を象徴する言葉だったようだが、これが米国内の綿花農家も含めて、繊維産業を苦境に立たせた。ことに南部に集中するこうした生産者は、南部における政治的圧力の中心だ。1960年代からの米国大統領選挙は、この南部の産業構造をひとつの焦点として揺れ動いた形跡がある。


 ただ、歴史的にみれば、繊維の問題は米国経済にとってその後の米国内経済政策を転換する教科書となったフシもある。 


●米国の大統領選挙と絡んだ貿易自由化論議


 1960年代から日米間の懸案事項は繊維を象徴とする一方的な、日本側からの土砂降り的な輸出だったといわれているが、米国内の政治的懸案からは、南部を中心とする旧態依然とした産業構造を改善しながら、南部の期待にも応えていくという難題があった。実際、1960年代の米国大統領選挙は南部の動向で決してきたようにみえる。


 1960年代の後半から、日米経済交渉は本格化した。1970年にはワシントンで日米繊維交渉が始まっているが、2ヵ国間の経済交渉は正式交渉が始まれば、ほとんど合意に近いというのが常識的であろう。その前後から日米間では、資本自由化が波状的に合意されており、その間、テレビ、チューナー、板ガラス、ステンレス鋼板などについて、米国によるダンピング認定なども行われ、戦略的なやりとりが頻繁に行われた。


 牛肉、豚肉などの輸入自由化などにつれて、日米繊維交渉も実質的には1971年には終わり、1972年に正式調印した。1972年には、沖縄返還が行われており、交渉カードは経済問題だけではなかったことが類推されるのである。


 この頃、米国内では日本型の「産業政策」が、関心を集めていた。繊維交渉を前後として、日本の市場は資本自由化を軸に、かなりの速度で自由化の進捗を早めていた。米国内でも、日本市場の自由化は進んだという認識と評価は生まれつつあった。しかし、一方的な貿易収支の偏差はなかなか解消されない。前述した各種産品のダンピング認定は、日本産業の旺盛な輸出が止まらないことへの日本側への牽制、米国内には不均衡への不満を募らせる世論のガス抜きに使われていたフシもある。 


●「行政指導」は「規制」ではない


 このため、この頃から日本型の産業政策そのものへの関心は強まり、研究も急速に進んだ。当時、米国内では日本市場の自由化が進むなかで、米国企業の日本進出が活発化しないことに、日本の官民を束にしての「産業政策」があるとの認識が生まれた。改めて記せば、米国は「自由」の国である。


 それゆえ、貿易の不均衡があるとはいえ、米国社会では産業政策は当該の企業政策が優先されるのであり、政府の指導を仰ぐなどといった体質はなかった。指導は「規制」であり、規制は最低限のものでなければならなかった。にもかかわらず、1960年代、米国内では産別にかなりさまざまな政府の規制介入が行われた。全体的に産業構造が沈下に向うなかでの、統一感のない規制は実は大きな蹉跌だったとの見方も現在では弱くはない。


 しかし、日本は貿易不均衡の交渉過程を横目でみながら、徐々に自由化を拡大させつつ、政府の「行政指導」を受ける形で、国内産業が米国産業に負けない体質づくり、製品開発づくりを急がせた。市場が自由化されたときには、すでに日本市場は多くの分野でがっちりとガードされている。そうした光景が噴出した。医薬品に関しても、先発権保護をめぐって外資には差別的な政策がとられた時代もある。 


●日本型経営を学んだ形跡はない


 1970年代は米国側からすれば、日米間の貿易不均衡が解消されないモヤモヤした時代である。米国はようやく日本型の、官民一体で目的がハッキリした産業政策の必要性が生まれ、一方で日本では「技術立国」という、奇妙な自信が社会全体に拡大した。今でも、日本を技術立国だとして、その技術力で世界での経済的地位は揺るがないとする見解が存在する。果たしてそうかというのは皮肉な見方ではなく、現実に医薬品開発や情報関連の知的産業に関する技術国として日本が米国より上だとは誰も思わないはずだ。


 すでに世界は、技術分業経済に移行し始めている。伝説的にいわれている技術立国は、「開発から最終製品」までのワンパッケージ立国である。すでに工場は世界に分散し、テレビも日本ではほとんど作られていない。自動車もしかりである。だが、東日本大震災のあと、世界中の自動車工場がストップした。主要部品の供給国として、日本はかろうじて「技術」を持つに過ぎない。


 米国は1970年代、日本型経営を学んだという説もあるが、そうではないように思える。米国が改めて注目したのは、官民の産業政策に関する政策の一体感だ。「行政指導」は英語では「規制」に見えるが、一方では行政による支援でもある。経営を学んだなどというのはどうも信じられない。「カイゼン」や「カンバン方式」という日本語が世界の企業用語になったというが、生産現場の「いいとこ取り」はあったかもしれないが、人件費の合理化などにみられる米国型経営方式は、日本に逆輸入された。


 1970年代に米国商務省などは、日本市場の相変わらずの閉鎖性に何度も言及している。それが米国政府中枢の強い関心を呼ばなかったのは、ソ連との冷戦構造のなかで、経済も含めてすべての側面で米国が世界のリーダーであるという存在感を見せつけなければならなかったという歴代の政権の宿命があった。日本では、1970年代半ばから為替相場の変動を見越して、いくつかの準備を進める余裕があった。1985年のプラザ合意で円が急騰したときは少しは影響があったが、すでに資金は潤沢だった。潤沢すぎてバブル以降の次の一手は打てなかったが。


 話を1970年代に戻せば、米国商務省が指摘し続けた通り、徐々に日本市場の実質的な閉鎖性が課題となってくる。「非関税障壁」という言葉が、一気に経済用語として定着し、その解決策を求める動きが1980年代に噴出する。MOSS協議がその象徴だが、それを後押ししたのが、その前から国際的に定着し始めた「たすきがけ交渉」である。(幸)