(1)「応神王朝」最後の天皇
第25代天皇である。天皇の「第〇〇代」という数は、「便宜的」に使用されているに過ぎず、真実を表す数字ではない。
第1代の神武天皇の物語は、歴史的事実の細やかな痕跡はあるかも知れないが、存在が怪しい。
第2代~第9代は「欠史八代」と呼ばれるように実在しないと考えられている。もちろん、各種の実在説もある。たとえば、「欠史八代」とは葛城山麓の「葛城王朝」であり、三輪山山麓の「崇神王朝」に併合されたとする。奈良盆地の南西に葛城山があり、東に三輪山がある。
第10代の崇神天皇から第14代仲哀天皇までの「崇神王朝」についても、12代、13代、14代は、実在が疑わしい。
第15代応神天皇から第25代武烈天皇までは「応神王朝」と呼ばれる。応神天皇の存在も定かではない。そして、今回の第25代武烈天皇の実在に関しても、議論されている。
第26代継体天皇からを「継体王朝」と言うが、そのなかにも、「存在はしていたが、即位の有無が疑問」の天皇もいる。
こうしたことから、天皇の「第〇〇代」を逐一説明するのは骨が折れる。したがって、天皇の「第〇〇代」という数字は、真実を表すものではなく、「便宜的」に使用しているということです。
さて、第25代武烈天皇のことであるが、「応神王朝」最後の天皇である。武烈天皇の次は新王朝の「継体王朝」である。
『古事記』『日本書紀』の編纂は、継体王朝の第40代・天武天皇(在位673~686)の命による。天武天皇は、中央権力をめぐる内乱・動乱の勃発を防止するためには、思想統一が必要と考えた。「天照大神→神武→継体→天武」という万世一系イデオロギーと「天皇⇔天照大神⇔伊勢神宮」という天皇教イデオロギーを強力に推進した。
その一環として、どこの馬の骨かもわからない北陸出身の継体天皇を脚色しなければならなかった。王朝交代を隠すために、万世一系を取り繕う必要があり、歴史の偽造・改ざんがなされた。歴史は、古今東西、常に、勝者のためにある。そのために、『古事記』『日本書紀』の武烈天皇の記述がある。古代史に関心が深い人は、だいたい、そんな感じにあるようだ。
(2)『古事記』の記述は、何も語らない
第2代~第9代の天皇に関して、『古事記』『日本書紀』の両方とも、天皇の系譜のみが記述され、逸話・業績が記述されていない。そこで、「欠史八代」と呼ばれている。似たような感じであるが、第24代仁賢天皇から第33代推古天皇までの10代に関して、『古事記』では、系譜のみで、逸話・業績が記述されていない。そこで、「欠史十代」と言われている。ただし、『日本書紀』では、逸話・業績が記述されている。なぜ、『古事記』と『日本書紀』では、こんな違いがあるのか、議論中である。
一応、『古事記』の武烈天皇の部分の現代語訳は、次のとおりです。
小長谷若雀命(オハツセ・ノ・ワカサザギ・ノ・ミコト=武烈天皇)は長谷の列木(ナミキ)の宮に居て、8年間、天下を治めた。
この天皇に太子(=皇太子)はいませんでした。それゆえ、御子代(ミコシロ)として小長谷部を定めた。御陵(ミササギ=墓)は片岡の石杯(イワツキ)の岡にあります。
※御子代の「子代(コシロ)」とは、子供がいない場合、業績を言い伝える部民、「故人は立派な人でした」と伝える。そうでないと祟りが起きる。現代的に言えば、故人を供養する人。
天皇は崩御したが、日続(ヒツギ=後継者)を知らせる王がいない。それで、品太天皇(ホムダ・ノ・スメラミコト=応神天皇)の5世の孫である衰本杼命(オオドノ・ミコト)に、近つ淡海国(チカツオウミ・ノ・クニ)から上がって来てもらい、手白髪命(タシラカ・ノ・ミコト)と結婚して、天下を授けた。
※手白髪命は武烈天皇の姉。『日本書紀』では、手白香皇女と記される。
『古事記』には、これだけしか書かれていません。
参考までに、応神王朝の概略を書いておきます。応神天皇(15代)、その子が仁徳(16)です。仁徳の子の履中(17)、反正(18)、允恭(19)となります。允恭の子の安康(20)、雄略(21)となります。雄略の子が清寧(22)です。ここで、履中(17)の系統へ移り、履中の孫の顕宗(23)、仁賢(24)となり、仁賢の子が武烈(25)です。
武烈の死により、仁徳の系列は途絶えてしまった。本当に、途絶えたのかどうか、強引に継体が進出してきたのか、まぁいろんな推理が可能です。とにかく、継体の登場は、いかにも「いろんなことがあっただろうな」という感じです。
若干横道に入りますが、第21代・雄略天皇について少々説明しておきます。
武力・流血の強引手法で権力を掌握し、大豪族である葛城氏や吉備氏を容赦なく討伐した。ヤマト政権は有力豪族の連合体の色彩であったが、雄略天皇の腕力によって天皇中心の中央集権体制となった、と言われる。
もっとも、雄略天皇の崩御によって、ヤマト政権は再び有力豪族連合体になってしまったが、後世でも、雄略が天皇権力確立に画期的な役割を果たしたと考えられていた。
たとえば、『万葉集』の最初の歌は、雄略天皇の「籠(こ)もよ、み籠持(も)ち……」というガールハントの歌である。当時の人にとって、雄略が画期的な天皇であったと記憶されていたので、『万葉集』最初の歌に採用したのである。
ついでに、雄略天皇のガールハントに関して。基本的に女好きだったに違いないが、雄略は政敵を滅ぼすと、その妻・娘を次々に妃に迎えた。政敵の残党の恨みを減少させる手段らしいのだが、なんともはや……である。あれやこれやで、雄略天皇への評価は「有徳天皇」から「大悪天皇」までバラバラである。
(3)『日本書紀』武烈天皇の前半は、権力と女性の争奪戦
前置きが長くなってしまったが、いよいよ『日本書紀』の武烈天皇の段を現代語訳あるいは要約を、解説を加えながら紹介します。
(第1段)
①武烈天皇は仁賢天皇の太子である。母は、春日大娘皇后(雄略天皇の皇女)である。武烈は、仁賢天皇が即位して7年目に皇太子になった。
②成長して、刑理(罪人を刑罰に処する。理非を判定する)を好んだ。法令に明るかった。日が暮れるまで政務をなし、無実の罪も必ず見抜いた。訴えを断っても、情は得ていた。
③また、頻繁に諸悪を造作した。ひとつも善を修めなかった。おおよそ諸々の極刑を閲覧しないことはなかった。国中の人は震え恐れた。
(感想)なんだ、これは? ②と③では、まったく矛盾しているではないか。②はすばらしい人物という文章です。③は逆に、「諸悪を造作」「善はひとつもしない」「あらゆる極刑を見物した」であるから、とんでもなく酷い人物という文章です。難しい解釈は止めて、複雑な人間はいるもので、A方面から見ればすばらしい善人、B方面から見ればトンデモナイ悪人、ということは、よくある。
(第2段)は権力騒乱と女性争奪戦のごちゃ混ぜです。
①仁賢天皇が即位11年8月に崩御した。大臣の平群真鳥(ヘグリ・ノ・マトリ)は、国政を専断し日本国王になろうと欲していた。太子(武烈)のために宮殿を造ると言いながら、完成すると自分が住んだ。万事に驕り、傲慢になり、臣下の節度がまったくなかった。すでに、実力の観点からすれば、平群真鳥は太子よりも数段上であったのだ。
なお、このとき太子は10歳。嘘か真実か、『記紀』では、そうなっている。
②太子(武烈)は、物部麁鹿火大連(モノノベ・ノ・アラカヒ・ノ・オオムラジ)の娘の影媛(カゲヒメ)と結婚しようと思って、媒人(仲人)を派遣して、会うことを約束した。しかし、影媛はすでに平群真鳥の息子の鮪臣(シビ・オミ)と相思相愛の寝る仲であった。太子は、そのことを知らない。
蛇足ながら、「鮪」に関して一言。『日本書紀』では「シビ」と読みます。現代は普通は「マグロ」と読み、稀に「シビ」と読みます。「シビ」と「マグロ」の違いは、大雑把に言って、「マグロの小さいのがシビ」「マグロの子供がシビ」ということでしょう。
③太子(武烈)は約束の場所へ行くことにした。側近の舎人を平群真鳥の邸宅へ向かわせ、太子の命を奉じて、宮馬を探させた。平群真鳥は、「命令のまま官馬を進呈します」と言ったが、いつまで待っても献上されない。太子は恨みに思ったが、耐えて顔には出しませんでした。
④そして、約束の場所に行き、歌場に立ちました。歌場とは、市・お祭り場のような感じの所で、大勢の人がいて、そこで男女がダンスや歌を歌う。むろん、愛が育まれる場です。太子は、影媛の袖を取って、立ち止まったり歩いたりして求愛モーションした。そこへ、鮪臣がやってきて、2人の間に入りました。太子と鮪臣の影媛をめぐっての歌合戦となる。歌をそのまま紹介するとわかりにくいので、超意訳で。
太子が鮪臣に向かって歌った。「潮の流れが速いところ見ると、鮪(シビ)がちょろちょろ泳いでいる。鮪のすぐ横に、私の彼女の影媛が立っている」
鮪臣が太子に歌を返した。「影媛は、すでに私が張り巡らした垣根の中にいる。影媛は私の彼女だよ。影媛を譲れ、と言うのか」
太子が鮪臣に向かって歌った。「何を言うか。私の腰に垂らしている大刀を見ろ。今は抜かずとも、影媛を獲得するために、いつだって、抜いてみせるぞ」
鮪臣が太子に歌を返した。「太子は影媛を得るため、影媛を囲う垣根をつくろうとしているようだが、あなたにはつくれないでしょうね」
太子が鮪臣に向かって歌った。「鮪臣がつくった影媛を囲う垣根なんか、ヨロヨロですぐ壊れてしまう」
太子が影媛に歌を贈った。「琴の音色のような影媛。宝石に例えるならば、影媛は真珠だ。私は、真珠が欲しい」
鮪臣が影媛に代わって歌を返した。「太子のことなど、誰も恋していませんよ」
なお、この歌垣は『古事記』の第22代清寧天皇の箇所に、別の登場人物のエピソードとして、そっくり存在します。当時の有名な流行歌と推測します。
⑤太子は、初めて鮪臣と影媛が恋仲と知った。「ガーン」とショックを受ける太子であります。格好悪いですね~、無様ですね~、屈辱ですね~。ここに至り、これまでの、平群真鳥と鮪臣の父子の不敬行為を思い出し、メラメラと怒り狂った。
⑥その夜、太子は大伴金村の邸宅へ行って、恨みを晴らすべく策謀談合した。大伴金村は平群真鳥に次ぐ実力者である。大伴金村は、すぎさま数千の兵を結集して、鮪臣の邸宅を急襲して、鮪臣を殺害した。
このとき、影媛は殺害現場を目撃し、涙を流して悲しんだ。
⑦影媛がかわいそうだ、という葬送の歌。(歌省略)
⑧影媛が悲しみのあまり、「苦哉。今日、失我愛夫」と泣き叫ぶ。そして、歌を詠んだ。(歌省略)
⑨(仁賢天皇が即位11年8月に崩御した)その年の11月、大伴金村が太子に、平群真鳥誅殺を持ちかけた。太子は、すぐさま承諾し、共謀した。大伴金村は自ら兵を率いて平群真鳥の邸宅を囲み、火を放った。邸宅は全焼し、平群真鳥は殺害され、殺害は子弟に及んだ。
平群真鳥は死の直前、各地の塩に呪いを掛けた。ただし、角鹿海(ツヌガノウミ=敦賀の海)の塩だけは、呪いを掛け忘れた。それゆえ、皇室は敦賀の塩は食するが、他の所の塩は食べてはいけないことになった。
⑩(仁賢天皇が即位11年8月に崩御した)その年の12月。大伴金村は、平群真鳥を討伐し、政を太子に返し、太子に天皇即位を促した。それで、天皇に即位し、大伴金村を大連とした。
なお、大連とは、当時のヤマト政権の最高ポストで、大伴氏と物部氏の両氏が独占した。
(4)『日本書紀』武烈天皇の後半は、残虐非道オンパレード
(第3段)武烈天皇の残虐非道のオンパレードとなる。残虐非道部分は、ゴシックにしました。
①即位1年3月、春日娘子を皇后とした。その両親は、ともに誰だかわからない。父母未詳の皇后は春日娘子、ただひとりです。武烈天皇は、『古事記』『日本書紀』の編纂者から、ものすごく差別されていたのだろうな。それとも、武烈天皇の存在そのものがなかったのか……。
②即位2年9月、孕んだ婦女の腹を割いて、その胎児を見た。
③即位3年10月、人の指の生爪を剥いで、イモを掘らせた。
④即位3年11月、信濃国の男丁(労務税の強制労働者)たちに、城を造らせた。
⑤同年同月、百済意多郎(クダラ・ノ・オタラ)が亡くなった。高岡丘(現在の大和高田市岡崎らしい)に葬られた。百済意多郎とは、コリアの古代歴史書『三国史記』からの推理では、百済の王族の一員でヤマトに滞在していた人物です。
⑥即位4年4月、武烈天皇は、人の頭の髪を抜いて、樹のてっぺんに登らせて、その樹の根本を切り倒して、登った人を落として殺すのを楽しみとした。
⑦同年、百済の末多王(マツタオウ)は無道暴虐をなした。そこで、国人は末多王を捨てて、嶋王を立てた。これを武寧王(ムネイオウ)とした。『百済新撰』によると、「末多王は……(末多王と武寧王の説明記述されている)」。
突然、百済王の名前が登場して面食らいますので、若干の解説を。
西暦400年頃(仁徳天皇の時代)、百済の王仁博士の渡来以降、百済と倭との関係は極めて親密になった。475年、高句麗の侵攻で百済は大敗北、首都漢城(ソウル近辺)が陥落した。百済は首都を錦江流域の熊津(現在の公州)へ移した。百済大敗北、熊津遷都の大混乱の頃、百済の王族の一部は倭に亡命していた。そのひとりが末多王である。第23代百済王が急死したので、末多王は帰国することになった。帰国に際して、倭は筑紫の軍士500人を付けた。末多王は第24代東城王(在位479~501)となった。東城王は百済復興の成果を上げたが、晩年は贅沢三昧の馬鹿殿様になった。そのため、暗殺された。
後を継いだのが、第25代武寧王(在位502~523)である。第21代百済王は、弟の昆支王を倭へ送る際に、妊娠している自分の妃を同伴させ、途中で出産したら百済へ送り返せと命じた。筑紫の加唐島で出産したので、「嶋君」と名付け百済に送り返した。この赤子が長じて武寧王となった。そうした経緯が『日本書紀』に書かれてある。
⑧即位5年6月、武烈天皇は、人を水路に潜らせて、外へ流れ出るところを、三刃の矛で刺し殺すことを楽しみにした。
⑨即位6年9月、皇太子を立てることは非常に大事だ。しかし、朕には後継がいない。何をもって名を伝えるべきか。御子代として小泊瀬舎人を置く。このことは、前述したように、『古事記』にも書かれてある。
⑩同年10月、百済の使者・麻那君が調(貢物)を進呈した。貢者は納められても、貢職(職人・技術者・人材)がない、ということで、使者は留め置かれた。「先進技術が欲しい~」って感じです。
⑪即位7年2月、武烈天皇は人を樹に登らせて、弓で射落として笑いました。
⑫同年4月、百済王は使者・期我君を派遣して、調を進呈しました。それとは別に、表(文)を奉り言いました。「前の使者・麻那君は、百済王の一族ではありません。それで、謹んで期我君を派遣して、朝(ミカド)に仕えさせましょう」。
その期我君には子がいて、法師君と言う。これは倭君の先祖です。
若干の解説。『続日本紀』に「桓武天皇の母は、姓は和氏、諱(いみな)は新笠。百済武寧王の子純陀太子より出ず」とある。つまり、桓武天皇の母の祖先は「武寧王―期我君―法師君」という推理がなされるが、不確定要素がある。ただし、その周辺の百済系統であることは間違いない。
⑬即位8年3月、女を裸にして平な板の上に座らせて、馬を女たちの前に連れてきて交尾させた。女の性器を見て、濡れている者は殺した。濡れていない者は地位を剥奪して官婢とした。これを楽しみとした。
池を掘り、苑をつくって、禽獣でいっぱいにした。そうして田猟(カリ)を好み、狗(イヌ)を走らせ馬と試合をさせた。入ったら、なかなか出てきません。
大風と雨が去らないので衣で暖かくしているので、百姓が寒さに震えることを忘れてしまいました。食べ物が美味しいので、天下の飢えを忘れてしまった。侏儒(小人)と芸人を入れて、乱れた音楽を流して、奇異な遊びをして、ふしだらな声をあられもなく発していました。昼も夜もずっと宮人と酒に沈み溺れ、錦の布を敷物とした。上等な絹を着ている者が多くいました。
⑭同年12月、崩御した。武烈は10歳で即位し、在位8年、18歳で崩御したのである。
(5)空想古代史
戦前は『古事記』『日本書紀』は真実を語っているとされていた。万世一系は間違いなし、というわけだ。でも、武烈天皇の残虐非道も真実だ、とは言えないので、一般人が読む『古事記』『日本書紀』からは削除された。
基本的に古代は不明な部分が多いので、いろんな推理がなされる。
●王朝交代の場合、新王朝は正当性を主張するため、前王朝を貶める。とりわけ、継体天皇の血統が疑問なので、直前の武烈天皇は、こんなに酷い奴だと叫ぶ必要がある。この論が一番流行っている感じです。
●これだけボロクソに武烈天皇を書かれると、天邪鬼的思考で、「武烈天皇は案外素晴らしい天皇かも知れない」という論理をつくり上げる。とりわけ、(第1段)の②を根拠に、「法治主義」を徹底し、情実を排除した結果、残酷な刑罰になったとする。
●いやいや、やはり武烈の残虐性は本当だ。残虐というよりも、幼いゆえの馬鹿だったのだ。あるいは、影媛に振られて、性的不能、女体へのサディズムが強烈になったのだ。
●そもそも武烈天皇はいなかった、という説も有力みたい。
●雄略天皇の悪い側面を武烈天皇にした、という説もある。
●いやいや、武烈は存在していた。18歳で崩御しなかった。政争に敗れ、側近とともに追放された。ヤマト政権の影響が完全にない、遠い僻地(宮城県栗原市あたり)まで流れていった。栗原市の「山神社」は武烈が祭神である。
しかし、繰り返しますが、古代史は不明な部分が多く、想像力が大きく膨らみ過ぎると、いわば「空想古代史」ができあがります。
一時期、日本古代史にユダヤが関係するお話が流行った。それも「空想古代史」です。あるいは、宇宙人がからむ「SF的空想古代史」も人気があるようです。手塚治虫の漫画にも、そんな作品があります。
そもそも、日本の最高神は何か、皇祖神は何か、という発想があります。天照大神じゃない。『日本書紀』を素直に読めば、高皇産霊尊(たかみむすひ・の・みこと)が最高神・皇祖神になる。『記紀』の専門家は大半がそう思っているのではないかな。要するに、日本の古代史は根本的に何かがオカシイと感じている人が相当大勢いる。
そのことと、江戸時代につくられた各種の偽歴史古文書とが合体する。江戸時代には、「奇」なるものが人気を集めたようで、本物そっくりの「人魚の骨」などがつくられた。黄金埋蔵金の本物そっくりの古文書などもつくられた。本物そっくりの偽歴史古文書もつくられた。偽歴史古文書を読んだ人は、「大陸文化に毒された歴史、古事記・日本書紀」と「純粋日本古来の歴史」の瞑想となる。
武烈天皇は「純粋日本古来の歴史」を守るため、平群真鳥を活用した。平群真鳥は武内宿祢の孫である。武内宿祢は古代王権の完璧な忠臣である。武烈天皇は平群真鳥を殺したと見せかけて、平群真鳥を飛騨国へ逃した。飛騨国には「純粋日本古来の歴史」が伝わっていて、それを文字化する使命を託されたのだ。こうした瞑想は、案外、ファンが多いようだ。瞑想話は100%真実ではなくとも、少しは真実が含まれているかも……と思ってしまうのだろう。
場所が九州だったり、出雲だったり、いろいろな「空想古代史」ができあがります。なんにしても、空想って楽しいよね。
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太田哲二(おおたてつじ)
中央大学法学部・大学院卒。杉並区議会議員を8期務める傍ら著述業をこなす。お金と福祉の勉強会代表。「世帯分離」で家計を守る(中央経済社)など著書多数。