(1)弥生時代の疫病流行
日本で最古の結核は、弥生時代後期の青谷上寺地(あおやかみじち)遺跡で発見された。所在地は鳥取市で約2000年前の遺跡です。どうやら、稲作伝来と結核伝来は同時期であるようです。今日的表現をするならば、グローバル化が感染症をもたらす、と言えるかも知れません。
結核は戦中・戦前までは「死の病」と恐れらましたが、戦後、予防接種や新薬開発などで、かつてのような恐怖心はなくなったようです。しかし、毎年、結核で約2000人が死亡しています。感染症に対して、「完全勝利」は極めて難しいということです。人類は永く永く非常に永く、これからもずっとずっと永く感染症とお付き合いしなければならない運命にあるようです。
以前は、感染症は伝染病と呼ばれていました。これは1999年から「伝染病予防法」が「感染症予防法」に改正されたため、そう呼ぶようになったに過ぎません。感染症予防法は、感染症を、1類感染症~5類感染症、新型インフルエンザ等感染症、指定感染症、新感染症に分類しています。参考までに1類~5類の代表的感染症を記載しておきます。
1類感染症……エボラ出血熱、クリミア・コンゴ出血熱、痘瘡(天然痘)、ペストなど。
2類感染熱……結核、ジフテリア、鳥インフルエンザ(H5N1,H7N9)、重症急性呼吸器症候群(SARS)など。
3類感染症……コレラ、細菌性赤痢、腸チフスなど。
4類感染症……A型肝炎、狂犬病、鳥インフルエンザ(H5N1,H7N9を除く)、つつが虫病、発しんチフス、日本脳炎など。
5類感染症……インフルエンザ(鳥インフルエンザ・新型インフルエンザ等感染症を除く)、梅毒、麻しん(はしか)、手足口病、百日咳、風しん、後天性免疫不全症候群(エイズ),クロイツフェルト・ヤコブ病(プリオン病の一つ。牛の場合は狂牛病)など。
なお、新型コロナウイルス感染症は、2020年(令和2年)1月28日、政令第11号「新型コロナウイルス感染症を指定感染症として定める等の政令」によって、指定感染症になりました。指定感染症は、1類~3類に準じた対応の必要性が生じた感染症となっていて、原則入院です。
日本列島は大陸と交流によって、稲、鉄、馬、酒などがもたらされた。同時に、天然痘(疱そう)、赤痢、麻疹(はしか)もやってきた。
いつの頃か、インフルエンザも流行するようになった。
種子島に鉄砲が伝来すると、梅毒もやってきた。
幕末、ペリー来航で開国すると、コレラ、ペストがやってきた。
最近では、1981年エイズ(後天性免疫不全症候群)、1996年プリオン、1997年高病原性鳥インフルエンザ、2002年SARS、2009年鳥インフルエンザ(H5N1)、そして2020年は新型コロナウイルスである。グローバル化とともに感染症はやってくるのであった。
さて、古代に戻って、冒頭に述べたように、弥生時代の鳥取市の遺跡から結核が発見されている。結核は、そこだけではなく、いくつかの遺跡から発見されているが、どの程度、流行したのかはわからない。
(2)『日本書紀』の第1回目の疫病大流行
『日本書紀』の崇神天皇・即位5年(3世紀前半か)に疫病が大流行し、人口の半分が亡くなった、と記されてある。原文は「五年、国内多疾疫、民有死亡者、且大半矣」である。疫病大流行の原因は、神様の意に背いたからであり、疫病対策は、神様の意に従うことであった。八百万の神々の中の「どの神様か」というと、「三輪山=大物主(大国主)=大神」である。念のため言っておきますが、天照大神ではありません。そのことは、『昔人の物語(62)・崇神天皇』をご参照ください。
ともかくも、疫病対策とは、祈祷、神事であった。
(3)仏教公伝によって、崇仏・廃仏の対立
『日本書紀』での第2回目の疫病流行は、欽明天皇(第29代、在位539?~571?)時代の仏教公伝と関係している。仏教伝来に関しては、私的な伝来は、かなり以前からあった。渡来人のなかには仏教を信仰していた者も大勢いた。「公的」・「公式」には、『日本書紀』では552年に仏教がもたらされた、とされている。ただし、552年は現代では少数学説のようだ。なお、「公的・公式の仏教伝来」を「仏教公伝」という。
『日本書紀』の欽明天皇の箇所に、次のように書かれてあります。
即位13年(552年)10月、百済の聖明王は、使者を派遣して金銅の仏像一体、幡蓋(ばんがい、仏具)若干、経論若干巻を献上した。その上表文は次のものです。
「仏法は、諸々の法のなかで最も優れています。この法は難解難入です。周公も孔子も理解できませんでした。この法は無量無辺で福徳果報を成し、無上の菩提を成します。例えば、ある人が隋意宝(思いのままになる不思議な宝)を手に入れて、必要な所で思いのままになるようなもので、この妙法も同じです。祈願すれば思いどおりになり、足りないことなどありません。それは遠い天竺からこの三韓に至り、その間、教に従い奉り、尊敬されなかったことはありません。それゆえに、百済王は陪臣を派遣して、帝国(ミカド)に伝え奉ろうと、畿内に伝えるのです。仏が『我が法は東に伝わる』と記したことを果たすのです」
欽明天皇は上表文を聞き終わると、歓喜踊躍して、使者に言った。「朕は昔から、このように詳しく法を聞いたことがない。しかしながら、朕は自ら決められない」。それで、群臣に問うた。「西蕃(朝鮮半島)が仏像を献上した。その顔は端嚴(きらぎら)しい。未だかつてなかった。礼をもってなすべきか、否か」。
蘇我大臣稲目は言いました。「西蕃(朝鮮半島)の諸国はみな、仏法に礼をもっています。豊秋日本(とよあきつ・やまと)だけが、ひとり背くことはできません」。
物部大連尾輿と中臣連鎌子は言いました。「我が国家の天下の王としているのは、常に天地社稷(しゃしょく、社は土地神を祭る祭壇、稷は穀物神を祭る祭壇)の百八十神であり、春夏秋冬の祭に拝むこととしています。今からこれを改めて蕃神を拝めば、国神が怒り恐ろしいことになるでしょう」。
天皇は言いました。「願っている蘇我稲目に仏を授けて、試しに礼拝してみよう」。
蘇我大臣は膝まずいて受け取って喜びました。
小墾田(おはりだ)の家に安置しました。丁寧に僧になったつもりで仏像を扱いました。向原(むくはら)の家を清めて、寺としました。
その後、国に疫病が起きて、民がたくさん死んだ。時間が経ってもますます多くなった。治療できませんでした。
物部大連尾輿と中臣連鎌子は同時に言いました。「昔あの日、私の計を採用しなかったから、このように病死が蔓延しました。今、元通りにしても遅くはありません。必ずいいことがあります。早く投棄して、その後の幸福を求めましょう」。
天皇は言いました。「申すままにせよ」。
有司(=役人)は仏像を難波の堀江に投げ捨てました。また、伽藍に火をつけました。焼けて何も残りませんでした。天に風雲がないのに、大殿(欽明天皇の宮殿)も火災になりました。
以上が『日本書紀』の仏教公伝の箇所の現代訳です。
仏教公伝は552年ではなく、538年という説が有力視されている。疫病が流行ったのも他の文献からすると538年の数年後らしい。いずれにしても、『日本書紀』では、仏教公伝によって、大和朝廷の有力豪族は、崇仏派(蘇我氏)と廃仏派(物部氏、中臣氏)の対立が発生したことになっている。ただし、近年の学説は、崇仏派・廃仏派の対立構図は間違いで、蘇我氏は単に外来宗教(仏教)の管理を天皇家から委託されていたに過ぎないとする。その辺りの話は面倒なので、一応、『日本書紀』に従って、崇仏派・廃仏派の対立構図をベースにして話を進めます。
『日本書紀』を読めば、欽明天皇の時期の崇仏・廃仏の帰趨は、仏教の宗教教義そのものではなく、極めて単純に疫病流行と深く関わっていたことがわかります。崇仏・廃仏の両派は、疫病は神仏が起こすものと完璧に信じていました。
(4)天然痘の流行
『日本書紀』に記載された第3番目の疫病流行は、敏達天皇(第30代、在位572?~585?)の時期に発生した。やはり、崇仏・廃仏が大きく関わっています。『日本書紀』の現代語訳を、少々長くなりますが、掲載します。
敏達天皇即位13年(584年)、百済から弥勒菩薩が、2回にわたって、各一体がもたらされた。
蘇我馬子(551?~626)は、その仏像2体を請うて、鞍部村主司馬達等と池辺直氷田を派遣して、四方に使者を出して仏教修行者を訪ねさせた。これによって、播磨国の僧還俗者を得た(僧還俗者とは、僧であったが普通人に戻った人のこと)。名を高麗の恵便(えべん)という。大臣(蘇我馬子)は、すぐに導師(仏像の前で読経する人)とした。司馬達等の娘の嶋(しま)を恵便に渡して出家させた。善信尼(ぜんしんノあま)という。善信尼の年齢は11歳です。さらに、善信尼の2人の弟子を渡して出家させた。ひとりは漢人(あやひと)の夜菩(やぼ)の娘の豊女(とよめ)で、前蔵尼(ぜんぞうノアマ)という。もうひとりは、錦織壺の娘の石女(いしめ)で、恵善尼(えぜんノあま)という。
ここで、司馬達等、池辺氷田、恵便の3人について、若干の解説をいたします。
◎司馬達等(しばたっと)は、中国系渡来人の系譜の人物。司馬氏が渡来した時期は不明です。司馬氏は、仏教公伝以前から仏教を信仰していた。その娘が嶋(出家して善信尼)です。善信尼は、日本最初の出家者であり、日本最初の尼です。
司馬達等の息子の鞍作多須奈(くらつくりノたすな)は、用明天皇のとき、日本最初の僧・徳斉法師となった(後述します)。孫の鞍作止利(くらつくりノとり)は飛鳥時代最高の仏師である。法隆寺金堂本尊釈迦三尊像、法興寺(飛鳥寺)の飛鳥大仏が代表作です。
◎池辺氷田(いけべノひた)も渡来人の系譜の人物です。東漢(やまとノあや)氏の系譜ですが、その東漢氏は中国系なのか百済系なのか、よくわからない。しかし、東漢氏はかなり大きな集団で、多数に分化していた。そのひとつが池辺直氏である。そして池辺氷田の一族は、どうも技術系一族であったようだ。というのは、次のお話からの推理です。
前述したことですが、欽明天皇は難波の堀江に仏像を投げ捨てさせた。その後日談のようなことが、『日本書紀』の欽明14年に書かれてあります。要約すると次のようになります。
河内の人が、海の中から仏教の音楽が聞こえ、発声源は光輝いている、と言っている。天皇は不思議に思い、池辺氷田を派遣した。池辺氷田は海の中を探して、光り輝く楠木を見つけ天皇に献上した。天皇は、その楠木で仏像2体を造らせた。
この話から、欽明天皇の心は崇仏と廃仏の間で揺れ動いていたのだろう、と想像します。天皇の心はどうでも、池辺氷田の一族は仏像を造っている。つまり、技術系の一族なのだろうと思います。
◎恵便(えべん)は高句麗から渡来した僧である。『日本書紀』には「還俗」していた、つまり元僧侶となっているが、他の文献では、仏教が普及していないため純粋な出家の生活ができず、やむなく俗世界の生活もしなければならなかった、ということだ。つまり、「外見上、還俗したように見えた」だけということらしい。
恵便は、なぜ播磨にいたのか。おそらく、物部氏等の廃仏派の勢力が強い大和及びその周辺では、仏教への迫害もあり布教困難と判断したのだろう。播磨には秦氏らの渡来人が相当数住んでおり、仏教布教がしやすいと判断したのだろう。むろん恵便は私的に日本布教に来たのではない。朝鮮の資料には、恵便の名は見当たらないのですが、高句麗からの派遣僧だったに違いありません。なお、播磨(兵庫県)には、恵便ゆかりのお寺や多くの伝説があります。
さて、『日本書紀』に戻って……。
蘇我馬子は仏法のみを頼り、3人の尼を崇め敬った。3人の尼に池辺氷田と司馬達等を付けて、衣食を供えさせ、仏殿を宅の東方につくって、弥勒の石像を安置し、3人の尼にひれ伏して請い、大会で拝みました。このとき、司馬達等は仏舎利(釈迦の遺骨)を斎食(お供えを置く器)の上に得た<拝んだら、器の中に仏舎利が現れた、という超自然現象のお話>。すぐに舎利を蘇我馬子に献上した。蘇我馬子は試みに、舎利を鉄の台の上に置き、鉄の槌を振り上げ打った。そしたら、鉄の台と鉄の槌は粉々に壊れてしまったが、舎利は壊れなかった。また、舎利を水の中に投げ入れた。舎利は心の願いのまま浮かんだり沈んだりした。それゆえ、蘇我馬子、池辺氷田、司馬達等は、仏法を深く信じて、修行を怠けなかった。蘇我馬子は石川の宅の仏殿を修繕した。仏法のこれがはじめです。
即位14年(585年)2月15日、蘇我馬子は塔を大野丘の北に立てて、大会で拝んだ。司馬達等が、前に得た舎利を塔の柱頭に収めた。24日に、蘇我馬子が病気になった。卜者(うらべ、占い師)に問うた。卜者は答えた。「祟ったのは、父のときに祭った仏神の心なり」<前述のように、欽明天皇の時代、父・蘇我稲目が祭った仏像は物部氏と中臣氏によって堀江に投げ捨てられたままになっている>。
蘇我馬子は即刻、子弟を派遣して、占いの結果を天皇に奏上した。天皇は詔(天皇の公文書)で言いました。「卜者の言に従って、父の神(稲目が祭った仏像)を祭れ」。蘇我馬子は詔を奉って、石像を礼拝し、命を延ばしてくださいと乞い願った。この頃、疫病が国中に流行り、民で死んだ者が多かった。
<卜者は、蘇我馬子の病と疫病の流行は、仏像を粗末にしたことへの祟り、と占った。天皇も、いったんは、それを信じたが……>
即位14年3月1日、物部守屋(?~587)と中臣勝海が天皇に奏上した。「なぜですか、私ども臣の言を肯定しないのは。欽明天皇のときから敏達天皇の今日まで、疫病が流行し国民が絶命しました。蘇我の仏法興行のためではないと言えるでしょうか」。
天皇は詔で言いました。「灼熱ならば(=明らかならば)、仏法を断て」。
3月30日、物部守屋は自ら寺を詣でて、胡床(こしょう、あぐら、折りたたみ椅子)に座った。その塔を切り倒し、火をつけて焼いた。仏像仏殿も焼いた。仏像の焼き残りを取って、難波の堀江に捨てた。
その日は、雲がないのに風雨だった。物部守屋は雨衣を被った。蘇我馬子と法侶(僧侶、具体的には3人の尼)を責めて、心をこわし辱かしめた。(物部守屋は)佐伯造御室を派遣して、蘇我馬子が供える善信尼らを呼んだ。蘇我馬子は命令違反できず、痛み、嘆き、悲しみ、泣きつつ、尼らを佐伯造御室に渡した。役人は、尼らの三衣(僧が着る衣)を奪い(つまり裸にして)、からめとらえ、海石榴市(市場の名前)の亭(宿駅)で、鞭打った。
<善信尼は12歳である。前蔵尼と恵善尼も若い娘であったろう。それを裸にして群衆の前で鞭うつ。なんとも惨い仕打ちである>
敏達天皇は任那を再建しようと思って、坂田耳子王を使者とした。<任那滅亡は『日本書紀』によれば欽明23年(562年)です>。
このとき、急に天皇と物部守屋が、瘡(疱瘡=天然痘)の病になった。それで、派遣しなかった。天皇は、橘豊日皇子(後の用明天皇)に詔として言いました。「父の欽明天皇の詔に違反し背いてはならない。任那の政を勤め修めるべきだ」。
また、瘡を発症して死者が国に満ちた。その瘡を患う者が言った。「焼かれ、打たれ、摧(くだ)かれるようだ」。泣きわめいて死んでいった。老人も少年も静かに語り合って言いました。「これは、仏像を焼いた罪だ」。
即位14年6月、蘇我馬子は奏上した。「私の疾病は未だ癒えていません。三宝の力がなくしては救い治ることは難しいのです」<仏教では三宝とは、仏・法・僧ですが、ここでは善信尼ら3人の尼を意味する>。
ここにおいて、天皇は詔として蘇我馬子に言いました。「汝、独り、仏法を行うは可である。余人は断である」。すぐに、3人の尼は蘇我馬子に還された。蘇我馬子は3人の尼を受け取って未曽有の歓喜で喜んだ。3人の尼を礼拝し、新しく精舎を造り、迎え入れて供養した。
ある本の云です。物部守屋、大三輪逆君、中臣磐余連が、仏法を滅ぼそうと謀り、寺・塔を焼き、仏像を棄てるようとした。しかし、蘇我馬子が抵抗して従わなかった。
即位14年8月15日、天皇は病が重くなり、大殿で崩御。
このとき、殯宮(もがりノみや、遺体を安置する宮)で、蘇我馬子と物部守屋の「からかい合戦」は省略します。2人の間は非常に険悪であることがわかります。
人間の心というか世論というか、180度の変化です。「疫病流行は仏像礼拝が原因」が「疫病流行は廃仏が原因」へと変化していったのだ。その一因に、「3人の若い尼への惨い仕打ち」が「廃仏派はなんて惨いことをするのだろう」という感情を醸成したのだろう。
(5)用明天皇は天然痘で崩御
『日本書紀』の用明天皇(第31代、在位585~587)の記述に移ります。用明天皇の母は蘇我稲目の娘です。そんなことで、用明天皇は分類上、崇仏派です。
天皇の地位をめぐる権力闘争の部分は省略して、崇仏・廃仏と疫病に関係することだけを記述しておきます。
用明天皇即位2年(587年)4月2日、磐余の河上で御新嘗(天皇即位儀式)を行った。この日、天皇は病気になり、宮へ帰った。天皇は群臣へ詔で言いました。「朕思う、三宝に帰依するを欲する、卿ら之を議論せよ」。群臣は朝廷に入って議論した。
物部守屋と中臣勝海は、詔に反対した。蘇我馬子は賛成した。そして、両派は小規模な武力衝突を起こすが膠着状態となる。
その間も天皇の疱(疱瘡=天然痘)はますます悪化した。鞍部多須奈(司馬達等の子)が進み出て奏上した。「臣、天皇のため、出家修行します。また、丈六仏像と寺を造り、奉ります」。天皇は悲しみ泣き叫んだ。今、南淵の坂田寺の木の丈六仏像と狭寺の菩薩が、これです。
4月9日、用明天皇は大殿で崩御。
即位2年7月21日、磐余池上陵に葬られた。
そして、7月は蘇我馬子軍と物部守屋軍の戦いとなった。「丁未(ていびん)の乱」という。蘇我軍の完全勝利で終わる。蘇我軍には厩戸皇子(うまやどノみこ=聖徳太子)もいた。「丁未の乱」の戦死者は数百人で、この時期の感染症死者数よりは少ないのではなかろうか。この乱以後、仏教は推進され普及していく。
敏達天皇も瘡を発病したと書かれ、用明天皇も瘡で亡くなったと書かれています。時代は天然痘が大流行していたのです。
この際、天然痘に関して、若干説明しておきます。
天然痘は、天然痘ウイルスによる感染症です。疱瘡、痘瘡と呼ばれていた。致死率が20~50%と非常に高い。感染すると全身に膿疱が生じる。治癒しても、膿疱の痕跡「あばた」を残す。
以前、題名は忘れましたが洋画を見た。男が美女に惚れる。最後は、美女が天然痘に侵され、全身が疱瘡だらけ、美しい顔も疱瘡だらけで死ぬ。「天然痘はメチャ恐ろしい」と、今でも、その映画のそのシーンだけを思い出します。
近代医学成立以前の紀元前1000年頃にはインドで天然痘患者の膿を接種させ軽い症状を起こさせて免疫を得る方法、人痘法が行われていた。古代インドってスゴイですね。紀元前500年頃の釈迦の教え(仏法)は日本へもたらされたが、天然痘の人痘法は残念ながら日本へは伝わらなかった。人痘法が世界に知られたのは、なんと3000年後、18世紀前半の英国へ伝わったことからです。
人痘法予防接種は役には立ったが、2%が死亡した。このとき、ジェンナーが牛痘法(種痘法)によるワクチンを開発し、1796年、少年に接種して成功した。この成功は超スピードで世界に広まり、1805年、ナポレオンは全軍に種痘を命じた。日本でも幕末期、種痘法の輸入でバタバタしていたが、いったん成功すると日本でも超スピードで普及した。そして、WHO(世界保健機関)は、1980年、地球上からの天然痘根絶宣言をした。
根絶はされたが、一定レベル以上の研究所では天然痘株の保有が認められている。生物化学兵器への転用が心配されていて、万一の場合の防止のため天然痘株を保有してもよいとされたのだ。日本でも千葉の研究所が冷凍保存している。2001年の米同時多発テロ事件後、備蓄が始まり、自衛隊に投与されている。アメリカでは、3億人分を備蓄している。せっかく天然痘を根絶したのに戦争のため莫大な予算で備蓄・種痘している。人類って愚かだな~と思ってしまう。
(6)善信尼ら百済で学ぶ
繰り返し述べますが、587年(用明天皇2年)7月、丁未の乱、わかりやすく言えば、蘇我・物部戦争である。これによって、廃仏派の物部氏が滅んで、すんなり仏教が普及することになった。
その1ヵ月前の587年6月21日の『日本書紀』の記述は、善信尼らが、百済へ行って戒律を学びたい、と要望します。
(587年6月)21日、善信尼らは、蘇我馬子に言いました。「出家の道は、戒律が根本です。百済へ行って、戒律の法を学び受けたい」<戒律とは、簡単に言えば出家者の規律です。「戒」は自発的な決心、「律」は罰則つきの規則で数百条ある。一般信者が守る宗教的規律で使用することもあります>。
この月(6月)、百済の調(みつぎ物)の使者が来た。蘇我馬子は言いました。「この尼らを率いて、汝の国に渡って、戒律の法を学ばせろ、(使者の役目が)終わったら、(尼らを百済へ、すぐに)出発させ派遣せよ」。
使者は答えて言いました。「臣らは藩(国)へ帰って、国主に(尼らの件を)申し述べます。その後に、(尼らを百済へ)出発させ派遣させても、遅くはないでしょう」。
そんな話があったが、同年7月は、丁未の乱、用明天皇の埋葬でテンヤワンヤ。同年8月は、崇峻天皇(第32代、在位587~592)が即位。
そして、翌年の588年(崇峻即位1年)、百済は使者と僧の恵総(えそう)・令斤(りょうこん)・恵寔(えしょく)らを派遣して、仏舎利を献上した。百済の使者は、恩率首信・徳率蓋文・那率福富味身らを派遣して調を献上し、仏舎利と僧、寺工、鑪盤(ろばん、鋳物の手法)博士、瓦博士、画工を献上した<それらの人名がズラズラと書かれてありますが、省略します>。
蘇我馬子は百済の僧らに請い、戒を受ける法を問うた。善信尼らを百済の使者・恩率首信らにあずけて、学問のため出発派遣させました。
飛鳥衣縫造(あすかノきぬぬいノみやつこ)の祖の樹葉(人名です)の家を壊して、初めて法興寺(飛鳥寺)をつくった。この土地の名を飛鳥真神原(あすかノまかみノはら)とつけた。また、飛鳥の苫田(とまた)と名をつけた。この年は、太歳戊申(太歳はとてもめでたい年の意味)である。
法興寺(飛鳥寺)について若干の解説を。元興寺とも称した。『日本書紀』の記述のように、蘇我氏の氏寺として建てられた。本格的な伽藍を備えた日本初(2番目かも)の寺院です。蘇我氏宗家が645年の「乙巳(いっし)の変」(以前は「大化の改新」と呼ばれていた)で滅亡しても、飛鳥寺は朝廷の保護も受けて、人々から非常に尊敬された。平城遷都によって、奈良へ移転した。
ただし、蘇我馬子が飛鳥の地に建てた法興寺は、そのまま存続した。しかし、平安時代に火災・落雷で廃寺同然になった。江戸時代になって、ぼちぼち再建されたが、かつての栄華はない。蘇我馬子(仏師は鞍作止利)がつくった飛鳥大仏は何度か補修はされましたが、日本最古の仏像です。飛鳥大仏を拝めば、蘇我馬子、善信尼の心がわかるような気がします。
即位3年(590年)3月、学問尼善信らが、百済から帰ってきた。桜井寺に住んだ。
桜井寺(→豊浦寺→向原寺)について若干の解説を。仏教公伝の箇所で、蘇我稲目が欽明天皇から百済の仏像を下賜され、仏像のため「向原(むくはら)の家を清めて、寺としました」と書きました。これが桜井寺です。桜井寺は、推古天皇の時代、豊浦の宮(推古天皇が即位した宮)へ移転して、壮大な伽藍を有する豊浦寺となった。おそらく、法興寺よりも古く、日本最古の寺院と言えるかも知れません。平安時代から廃寺同然となり、今は、遺跡しかありません。ただし、江戸時代に向原寺として再建されましたが、かつての面影はありません。
即位3年10月、山に入って寺の材木を取った<むろん、桜井寺の増築のためである>。
即位3年に出家した尼は、大伴狭手彦連の娘の善徳・大伴狛夫人・新羅媛善妙・百済媛妙光、また、漢人の善総・善通・妙徳・法定照・善智総・善智恵・善光です。司馬達等の子の多須奈も同時に出家し、名を徳斉法師という。
ということで、日本仏教の基盤がつくられていった。基盤をつくったのは、善信尼ら女性達であった。590年の出家者は女性が11名、男性は1名である。そして、仏教普及は感染症という苦と深く結びついていたことを忘れないでほしい。聖徳太子の活躍は、いわば仏教普及第2幕である。
ところで、感染症はどうなったか。
『日本書紀』は、持統天皇(第41代、在位690~697)までの記述であるが、その間、疫病流行の記述はない。誰それが病気になった、読経したら快復した、といった記述はあるが、疫病流行の話は出てこない。偶然、疫病の大流行がなくなったのか? 仏教興隆のご利益で疫病が収束したのか? それとも、『日本書紀』の編集者が疫病流行を書かなかっただけなのか?
まぁ、小流行はあったろうが、大流行はなかったのだろう。飛鳥の人々は、仏教興隆の賜物と思ったに違いない。善信尼らは大変な信頼・尊敬を集めたに違いない。それで終われば、「めでたし、めでたし」なのだが、そうはいかない。
やはり感染病大流行はやってくる。
『続日本紀』は『日本書紀』に続く正史で、文武天皇(第42代、在位697~707)の697年から桓武天皇(第50代、在位781~806)の791年が記されている。
第4回目の疫病大流行は698年から始まる。文武天皇の時代である。この流行は713年まで15年間、繰り返し襲ってきた。さぁどうなるか……。またの機会を、お楽しみに。
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太田哲二(おおたてつじ)
中央大学法学部・大学院卒。杉並区議会議員を8期務める傍ら著述業をこなす。お金と福祉の勉強会代表。「世帯分離」で家計を守る(中央経済社)など著書多数。