「安倍政権の守護神」と囁かれ、政権が前例のないウルトラCを使ってまで次期検事総長にと画策した黒川弘務検事長の問題は、ツイッターデモが空前の盛り上がりを見せるなか、“文春砲”の炸裂で黒川氏が突如辞任するという大どんでん返しになった。23日発表の毎日新聞調査によれば、内閣支持率は前月の40%から27%に急落。『5月1日、産経記者の自宅で“3密”6時間半 黒川弘務検事長は接待賭けマージャン常習犯』というこのスクープによって、今週の文春は、2月に赤木俊夫さんの遺書スクープを掲載した号に続く完売となった。


 記事の内容はすでに知られている通り、黒川氏がコロナ禍の自粛要請下、産経の司法担当記者2人、そして朝日の元司法担当記者1人と違法な「賭けマージャン」に興じていた、という話だ。この衝撃的暴露で、黒川氏をめぐる政権の策略は粉砕されたわけだが、「政治権力の検察人事への介入」をテーマとした先週からの問題は、「メディアと検察の癒着」という新たな要素が出たことで、さまざまに複雑化した。


 近年、コアな政権支持層は“マスゴミ批判(メディア批判)”に力を入れ、桜・モリカケやコロナ対策等々への政権批判の矛先を「報道が悪い」という話に逸らそうとする姿勢が顕著だが、今回はそこにピッタリな醜聞かと言えば、当事者が産経と朝日という左右両極の新聞社だったため、いささか歯切れの悪い面もある。


 結局のところ今回の問題は、刑法に触れる賭博の問題と“3密無視”という“表面的”な論点を取り払えば(それらはシンプルに“けしからん行為”に決まっている)、より根深い問題として、「対権力の取材姿勢」というメディア論に帰結する。近年は、政治部記者による予定調和の官邸記者会見が、批判を集めるようになってきたが、より権力に厳しいイメージを持っていた社会部記者、しかも安倍政権と“敵対”する朝日の(元)記者までもが、ということで、世間にショックを与えたのだ。


 一部論者には「内閣の検察への介入」というそもそもの論点を打ち消すため、「メディアの検察への介入」という話に持っていこうとする向きもあるが、社会部記者と検察や警察との関係(政治部記者と政治家も同様)では、記者側は情報提供を期待する“弱い立場”にあり、読売のナベツネ氏(渡辺恒雄会長)のような“超大物”でもない限り、影響力の行使は権力→メディアの一方通行だ。権力がメディアの言いなりになるような、逆方向の影響力はない。


 正直、社会部記者が警察・検察に食い込んで親密化を図る取材スタイルは、大昔からのよく知られた話である。個人的にはむしろ、今回の出来事を奇貨として、政治部も社会部ももう、欧米メディアに見られないこの手の“癒着型アプローチ”を一掃してしまうのも、いい機会だと思う。放置すれば世に出ない事柄を掘り出すのが、本物のスクープなら、権力との親密さを競い合い、「公式発表より先に書くこと」だけを目指す報道はメディアの自己満足、読売テレビの敏腕記者・清水潔氏が言うところの“エゴ・スクープ”(米国での呼称、現地では無価値とされる)でしかない。


 権力との親密化で得られるのは結局、このエゴ・スクープが大半で、「権力に不都合なこと」は逆に書きにくくなってしまう。権力の側としては、だからこそ“抱き込み”を図るわけであり、この関係の行き着く先は“御用記者化・御用メディア化”にほかならなない。多くのメディアでは、“肉薄しながらも取り込まれない”という難事業を記者個々人に求めるが、いっそのこと思い切ってエゴ・スクープを放棄すれば、すべてスッキリする。


「知っているけど書けない情報」を大量に貯め込むより、「断片情報を寄せ集め、たとえ不完全な形でも、忖度なく取材結果を書く」ほうが、よほど紙面は生き生きする。今週の見事な文春砲を見て、改めてそう感じた。


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三山喬(みやまたかし) 1961年、神奈川県生まれ。東京大学経済学部卒業。98年まで13年間、朝日新聞記者として東京本社学芸部、社会部などに在籍。ドミニカ移民の訴訟問題を取材したことを機に移民や日系人に興味を持ち、退社してペルーのリマに移住。南米在住のフリージャーナリストとして活躍した。07年に帰国後はテーマを広げて取材・執筆活動を続け、各紙誌に記事を発表している。著書は『ホームレス歌人のいた冬』『さまよえる町・フクシマ爆心地の「こころの声」を追って』(ともに東海教育研究所刊)など。最新刊に沖縄県民の潜在意識を探った『国権と島と涙』(朝日新聞出版)がある。