①不比等の娘、宮子と光明子
日本歴史に登場する数々の氏族のなかで、最大の氏族は「藤原氏」である。その始祖は、中臣(藤原)鎌足(614~669年)である。鎌足は、中大兄皇子(後の第38代・天智天皇)と協力して、645年、当時の最高権力者・蘇我入鹿を暗殺した。その功績により、中大兄皇子(天智天皇)の側近として大いに勢力を拡大させた。
鎌足の死後、古代史最大の内乱・壬申の乱(672年)が勃発した。天智天皇の息子・大友皇子(=第39代・弘文天皇)と天智天皇の弟・大海人皇子の戦いであった。勝者は大海人皇子で第40代・天武天皇(在位673~686年)となった。
鎌足の息子である藤原不比等(659~720年)は、壬申の乱の時は、まだ12~13歳で、どちらの勢力とも関係がなかった。しかし、基本的に中臣(藤原)一族は、天智―大友側なので、乱後、勝者・天武天皇は、中臣(藤原)一族の有力者を処罰したので、天武の朝廷内部には中臣(藤原)一族は誰もいなくなった。そのため、不比等は弱小氏族として、いわば「公務員試験」を受けて、下級役人から出発した。不比等は、かなり優秀な能力を持っていたようで、とりわけ法律の知識と文才は優れていたようだ。それで、徐々に出世していった。
不比等は頭脳明晰だけでなく、評判の色男であったようだ。竹取物語に、かぐや姫に恋焦がれる5人の貴公子が登場するが、その中のひとり、「車持の皇子」は不比等がモデルである。不比等の父は鎌足、母は車持与志古娘(くるまもち・の・よしこ・の・いらつめ)である。車持は天皇の輿(こし)や牛車(ぎっしゃ、うしぐるま)を制作・管理する姓である。地味ながら必須の官職であった。車持氏は、4つの地域、すなわち、越(北陸)、上野国群馬(くるま)郡、筑紫、摂津と関係があった。なお、群馬郡は今はない。そして、「群馬」はかつて「くるま=車」と呼ばれていた。ともかくも、竹取物語に登場する貴公子モデルが不比等なのだから、色男に間違いない。
不比等と婚姻関係にあった女性は数人います。蘇我娼子(しょうし)、五百重娘(いおえ・の・いらつめ)、賀茂比売(かものひめ)、県犬養三千代(あがた・の・いぬかい・の・みちよ、665~733年)です。県犬養三千代は、「橘三千代」ともいわれる。
不比等の長女は、宮子(?~754年)です。母は賀茂比売です。藤原宮子は、第42代文武天皇(在位697~707年)の夫人となった。そして、第45代聖武天皇(在位724~749年)を生む。
余談かも知れないが、宮子は、出産後、我が子(聖武)に会いたくないという奇妙な心の病に陥る。36年間、親子の対面なし、であった。うつ病の一種と思うが、何だろう。妊娠・出産のとき、宮子の心を深く傷つけショックな出来事があったに違いない。しかも、超秘密の出来事である。その謎がわかれば、日本史は根本的に見直されるかも知れない。
一応、ひとつの伝説を紹介しておきます。和歌山県に、安珍・清姫で有名な道成寺があります。そこに、髪長姫(宮子)伝説があります。エキスは、宮子は海女の娘であったが、髪長(超美女)であるがゆえに不比等の養女となった。そして、文武天皇の夫人となり、聖武天皇を生んだ、というものです。要するに、庶民の超美人が大出世というお話です。梅原猛の『海人と天皇』は道成寺の髪長姫伝説がネタです。この伝説から、どうやら「謎の宮子」「宮子には謎がある」と推測させますが、親子対面拒絶の原因はわかりません。何だろうな~、あれこれ想像するばかりである。
不比等の次女は、長娥子(ながこ)です。母は、たぶん賀茂比売と推測されています。長屋王(?~729年)の妾となります。長屋王は皇族です。
不比等の三女は光明子(701~760年)です。母は県犬養三千代です。不比等の決定的大出世のカギは、三千代の存在です。三千代は阿閉皇女(後の第43代・元明天皇(在位707~715年)の信頼厚い女官である。元明天皇の子が文武天皇である。三千代は文武天皇の乳母であった。だから、阿閉皇女(=元明天皇)と文武天皇と三千代は、極めて強烈な絆で結ばれていた。三千代は事実上トップ女官であり、朝廷内の非公式実力者であった。三千代の推薦で、藤原宮子(不比等の長女)は文武天皇の夫人になった。宮子が文武天皇の夫人になったことは、不比等は朝廷内に確固たる基盤をつくったことを意味する。さらに、不比等と三千代の間に三女・光明子が生まれ、光明子は、聖武天皇の皇后となった。
日本史最大氏族「藤原氏」をつくったのは、鎌足でも不比等でもない。実は、三千代の力だったのだ。三千代がいたからこそ、不比等は朝廷に食い込むことができたのだ。なお、三千代の力だけではなく、「不比等は天智天皇のご落胤」であるから出世したという説もある。
不比等の四女は多比能(たびの)です。母は、一応は県犬養三千代となっている。橘諸兄(たちばな・の・もろえ、684~757年)の正室となった。そこで疑問が出る。実は、橘諸兄の母は三千代であるのだ。となると、多比能・橘諸兄の夫婦は、両人ともに母が三千代になってしまう。同母兄妹の近親婚はダメだから、多比能の母は三千代ではない、と言われている。よって、多比能の実母は不明。
不比等の五女は、殿刀自です。『続日本紀』に、大伴古慈斐(こしび)の妻になった、とあるだけで、母も不明。とりたてて説明することもないようです。
②藤原四子政権の成立と崩壊
第42代文武天皇(在位697~707年)の後継天皇は、第43代元明天皇、第44代元正天皇(在位715~724年)、第45代聖武天皇となります。元明、元正の2人の女帝は、聖武天皇が若すぎるための、中継ぎリリーフの役割であった。
不比等は、文武、元明、元正の時代、皇室との血縁関係を固め、4人の息子の出世を後押しした。4人の息子は、それなりに有能であったから、順当に出世していった。言うまでもなく、藤原不比等は朝廷の最高実力者で、いわば「不比等政権」であった。
しかし、720年、不比等は突然に死去。『続日本紀』の文章からすると、急性の感染症の可能性が高い。具体的には、痘瘡(天然痘)か麻疹(=はしか)と推測される。毒殺説もある。
藤原4兄弟の上には、長屋王が位置していて、「長屋王政権」となる。藤原4兄弟はまだまだ若いし、長屋王の妾は4兄弟の姉である長娥子であるから、藤原4兄弟と長屋王とはいい関係にあった。しかし、次第に、藤原4兄弟と長屋王の間に不信・不穏が漂い、ついに、729年、長屋王の変となる。
単純に言えば、藤原4兄弟と長屋王との権力争いである。聖武天皇に「長屋王に謀反の企て」との密告があり、聖武天皇は、藤原宇合を大将に直ちに兵を派遣する。長屋王の邸宅は兵に包囲され、長屋王は妻子ともども自害した。
事件は藤原4兄弟の謀略である。
謀略大成功によって、藤原4兄弟は大変な出世をした。朝廷の最高合議機関は9人の参議で、4人とも参議になった。「藤原四子政権」になったのである。しかし、長くは続かなかった。
735年、九州北部で天然痘が大流行した。そのため、税の一部(調)の免除が認められた。736年も大流行は続き、九州北部は飢饉となる。この年、朝廷は遣新羅使を派遣したが、途中の九州で随員が天然痘に感染した。一行は、新羅へ渡り任務を終え、翌年の737年(天平9年)、帰途につくが、大使は対馬で死亡した。一行は平城京に帰還したが、それは、全国的に天然痘ウイルスが拡散したことを意味した。737年7月には、大和、伊豆、若狭、伊賀、駿河、長門で大流行の報告がなされた。庶民だけでなく、「藤原4兄弟」を含め、大勢の貴族・役人も死亡して、朝廷は機能マヒした。
9人の参議で生き残ったのは、2人だけ。そのひとりが橘諸兄であった。そして、いわば自動的に「橘政権」となり、藤原一族は政権から遠ざかることになった。
天然痘の猛威は738年1月に、ほぼ終息した。
『続日本紀』の天平9年(737年)最後の文章は、「春から、瘡のできる疫病が大流行した。はじめは九州で広がり、夏から秋に、公卿をはじめとして天下の人民が相次いで亡くなり、その数は数えることができない。これは、かつてなかったことである」とある。
この時期の総人口の25~35%が天然痘で死亡したと計算されている。
この壊滅的被害のため、農業の生産性向上のため「墾田永年私財法」が施行(743年)された。
また、聖武天皇は、仏教の帰依が足りなかったことが原因と考え、廬舎那仏像(奈良の大仏)建造、国分寺建立を命じた。聖武天皇の心は、『大仏建立の詔』を読めば、疑いもなく人民の幸福を願っての大事業なのだが、人民はこの大事業によって、さらに苦しんだのであった。もっとも、経済学では180度異なる解説が成り立つようだ。「不況時の公共事業による景気回復策」説と「不況時の大増税でさらに不況」説がある。
なお、天然痘大流行は、その後の日本では周期的に発生したが、735~737年のような壊滅的大流行にはならなかった。
ここで、藤原4兄弟を並べてみます。それぞれ独立して、南家・北家・式家・京家の開祖となった。4兄弟の名前と4家の家名を暗記する必要はないが、大学受験のため暗記せねばならないと思う者は、馬鹿馬鹿しいと思いつつも「南部北部さ、牛の牧(まき)」の語呂合わせを覚えよう。
●藤原武智麻呂(むちまろ、680~737年7月25日)=母は蘇我娼子=藤原南家開祖…… 次男の藤原仲麻呂(706~764年)が台頭し太政大臣になるが、最後は「藤原仲麻呂の乱」(764)で斬首された。その後の藤原南家はパッとしたことはない。存在していたという程度のこと。
●藤原房前(ふささき、681~737年4月17日)=母は蘇我娼子=藤原北家開祖…… 藤原北家は当初は南家・式家の下の感じであったが、藤原内麻呂が百済系美人妻を桓武天皇に差し出して朝廷との関係強化をはかり、藤原冬嗣の時から大躍進し、道長・頼道の摂関政治黄金時代を築く。
●藤原宇合(うまかい、694~737年8月5日)=母は蘇我娼子=藤原式家開祖…… 式家は平安初期までは相当活躍するが、その後は漸次衰退し、事実上消滅する。
●藤原麻呂(まろ、695~737年7月13日)=母は五百重娘=藤原京家開祖…… 京家は平安初期には文化芸術分野で人材を輩出したが、その後、目立つこともない。
藤原4兄弟の関係で、若干のことを付記しておきます。
〇4兄弟の中で、最初に参議になったのは、717年、次男・房前である。このときまでは、参議は氏族の中からひとりだけと暗黙の了解があった。それを、不比等は突破した。「藤原家は特権的な氏族」であることを認めさせたのである。
〇「藤原四子政権」になるや、自分たちの兄妹である光明子を皇后にすることに成功する。光明子は、すでに聖武天皇の「夫人」の地位にあったが、「皇后」となった。皇族以外からの「皇后」は初めてのことだった。
〇藤原4兄弟と言うと、なんとなく、仲良し4兄弟とイメージしてしまうが、それなりに軋轢はあったようだ。ただ、それが爆発する前に、仲良く同じ年に、天然痘で死んでしまったのである。
〇権力闘争と疫病大流行の関係は、「藤原四子政権」崩壊のようにハッキリわかるケースもあるが、よくわからないケースが多い。でも、疫病大流行は間違いなく権力闘争と関係するものです。なぜなら、疫病大流行は、人々にとって、とてつもなく大きな事件だからである。
③疫病大流行と対策
『昔人の物語・第73話・善信尼』で書いたように、『日本書紀』には、3回の疫病大流行が記録されている。
第4回目は『続日本紀』の記録となる。文武天皇(在位697~707年)の時代は、毎年、どこかの地域で疫病が大流行している。たとえば、706年(慶雲3年)の疫病は、閏正月から京畿、紀伊、三河、駿河の広範囲に流行した。天皇は祈祷を命じたが、疫病の勢いは衰えなかった。4月には、河内、出雲、備前、安芸、淡路、讃岐、伊予へと西日本へ拡大した。706年だけでなく、毎年、そんなことが書かれてある。
その頃の疫病は1種類ではなかった。その頃の記録から推測すると、マラリア、住血吸虫、つつが虫、結核、天然痘のようだ。天然痘は遣唐使など外国との交流が盛んになるとやってきた。
疫病が発生すると、天皇は、とりわけ聖武天皇は熱心に次のようなことをした。
・全国の神社に幣帛(へいはく)を奉じて祈祷することを命じる。幣帛とは、まあ、お供物と思えばよい。
・全国の寺院に読経を命じる。お経は数々あるが、その頃は、『仁王経』(仁王般若経)が流行っていた。大乗仏教は、六波羅蜜(布施・持戒・忍辱・精進・禅定・智慧)を修行して、涅槃(安らぎ、解脱)に至ることを説くが、6つの中で、智慧(=般若波羅蜜)をとりわけ重視するのが、一群の「般若経典」である。その中のひとつが『仁王経』(仁王般若経)である。第41代持統天皇(在位690~697年)の頃から、疫病・災害・飢餓を退ける仁王会が始まった。奈良、平安初期は『仁王経』(仁王般若経)は非常に流行った。
ただし、ご注意を。仏教学では、『仁王経』(仁王般若経)には仏教以外の思想が混じり過ぎている、中国で作られた偽仏教典という見解が強いようだ。
なお、奈良、平安初期には、大般若経、金光明最勝王経も疫病・災害・飢餓の対策に効果ありとされ、さかんに読経された。
・病人に医薬を与える。
・貧しい人に、食事・品物を与える。
光明子は「悲田院」「施薬院」を設置して大々的に慈善事業をした。また、湯室(浴室)で1000人の病者の垢を洗うことを誓い、1000人目に全身ウミのハンセン病患者が現れた。皇后が全身のウミを吸い終わったら、その病者は阿閦仏(あしゅくぶつ)の化身であった。室内は光明と芳香で満ち、姿が消えた……という説話は、平安時代後半から有名だった。
光明子の仏教に裏打ちされた慈悲の活動は、母・三千代の影響のようだ。
・大赦を出す。
しかし、疫病は当たり前ながら消滅しなかった。
なお、大陸から多くの僧侶が来日しているが、その多くは僧侶兼医術師であった。754年に来日した鑑真(688~763年)も僧侶兼医術師であった。
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太田哲二(おおたてつじ)
中央大学法学部・大学院卒。杉並区議会議員を8期務める傍ら著述業をこなす。お金と福祉の勉強会代表。「世帯分離」で家計を守る(中央経済社)など著書多数。