歴史や言語、宗教などのバックボーンが異なると、価値観やモラルの“骨格”そのものが、まるで違うものになったりする。私は数年間暮らしたラテンアメリカで、現地人とのギャップに直面するたびに、そのことを深く痛感した。


 感覚の違いはさまざまな局面で味わったが、その多くは突き詰めれば他人との関係性、「周囲の目」の捉え方、という話になる。私たち日本人は「正直・勤勉」で、現地の人々は「怠惰でだらしない」。在留歴の浅い邦人はそう決めつけがちなのだが、差異の根本は実際にはモラルの有無でなく、“行動を縛る空気”の存否にある。「人の目にどう映るか」を重視する日本人は、そのことがプラスに働く面がある一方、集団主義のストレスにしばしば悩まされる。中南米の人たちは、他人の生き方にもっと無頓着・無干渉でいることが普通で、だからこそ自由奔放でいられるのだ。


 そんなことをふと思い出したのは、ネット上でイスラム学者・中田考氏のインタビュー記事を読み、こんな一節を見たからだ。「中東人の発言というのは、すべて“ポジショントーク”(有利不利を考えての発言)なんです。(略)争いの多さ、一言でも失言すれば死んでしまう状況が育んだ気質です。(略)そもそも彼らに本音なんてないんです。日本人の感覚からすれば理解しがたいかもしれませんが……」


 それ以上の詳しい説明は出ていないが、損得勘定こそが彼らの中心的価値観で、それ以外の“本音”など存在しない、とまで言い切ってしまう氏の分析は大胆かつ興味深い。そして氏は、同じカイロ大学で学んだ先輩留学生・小池百合子都知事のキャラクターを、「言ってしまえば、中東人」とこのインタビューで評したのだ。


 今週の週刊文春は、7月に都知事選を迎える小池氏について『小池百合子カイロ大首席卒業の嘘と舛添要一との熱愛』という記事を載せた。以前から彼女の学歴詐称疑惑を追い、月刊文藝春秋などに記事を書いてきたノンフィクション作家・石井妙子氏が同社から『女帝 小池百合子』という本を出したのに合わせ、掲載された記事だ。


 留学時代、小池氏と現地で同居した女性による詳細な証言、彼女が初歩的なアラビア語さえ歯が立たず、進級にも失敗していたのに、帰国して「カイロ大学卒業」を喧伝しメディアに露出していった描写は実に生々しい。記事は石井氏の「問題は学歴詐称にとどまらない。彼女の政治姿勢や知事としての資質にもかかわる、現在進行の問題なのです」という言葉を紹介し、細川護熙氏の日本新党から小沢一郎氏の新進党・自由党、小泉純一郎首相時代の自民党へとのし上がっていった彼女のたくましさが、この留学生時代からの行動原理に沿ったものだったことを描き出している。


 彼女の価値観が本当に、中田氏の言う「中東人的な損得勘定」一本だとすれば、確かにわかりやすい。どんな豹変・裏切りも、逡巡せずできるに違いない。そしてふと、今日の日本には、似たタイプの人が思いのほかいるのかもしれない、そんな考えも浮かんだ。“集団主義への適応”という縛りがなくなれば、そのあとにがらんどうの価値観しか残らない人は結構多いのでは、と。


 ネットには「学歴など関係ない」「たとえ中卒でもいい仕事をすればいい」などと、小池知事を擁護するカキコミも目立っている。だが私は、経歴詐称という問題は人物の本質に関わる疑惑だと思っている。そこを平気で偽れる人間に、“誠実さ”は1ミリも期待できないと思うからだ。しかし、コロナ禍で彼女のパフォーマンスは好評で、再選はほぼ確実と見られている。国政でも都政でも、現在の民意の分断・対立は、左右のイデオロギー以前に、政治家にそこを問うか否か、という違いのような気がする。


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三山喬(みやまたかし) 1961年、神奈川県生まれ。東京大学経済学部卒業。98年まで13年間、朝日新聞記者として東京本社学芸部、社会部などに在籍。ドミニカ移民の訴訟問題を取材したことを機に移民や日系人に興味を持ち、退社してペルーのリマに移住。南米在住のフリージャーナリストとして活躍した。07年に帰国後はテーマを広げて取材・執筆活動を続け、各紙誌に記事を発表している。著書は『ホームレス歌人のいた冬』『さまよえる町・フクシマ爆心地の「こころの声」を追って』(ともに東海教育研究所刊)など。最新刊に沖縄県民の潜在意識を探った『国権と島と涙』(朝日新聞出版)がある。