●2020年で世界は変わる?
2020年は、歴史的に大転換の年になるとする見方が普遍化し始めている。記号化された歴史的転換点には諸説あるが、直近は第2次世界大戦だろう。しかし、第2次大戦が記号化されたのは世界史的な「転換」だけであって、それがもたらした諸分野への影響、それを受けた変化、経済学の新時代、グローバリズムなどは十分な吟味と評価は行われていなかったり、あるいは途上にあるだけである。
高齢化社会や少子化時代の到来は漠然としたSF的な予測はあったものの、世界のあらゆる分野の学術的関心、洞察が一体的に行われたとの証拠はまだないし、各論の中で各論が噴出している(それも取るに足らない)だけだ。
私たちが確定的に知っていることは、第2次大戦後には先進国を中心に知的爆発が起き、それはすなわち教育爆発を呼び、そして現在の情報爆発につながってきたという漠然とした「状態」だけである。
情報爆発によって、たぶん新経済学が生まれ、グローバリズムにつながり、そして2020年、感染爆発につながって世界が新たなステージや、環境の中に入りかけているということが、なんとなくわかる。なんとなく、だ。もう少し経ったら、たぶん、少し頭がよくて、耳に快感をもたらす新しい、もっともらしいフレーズを考え出す人々が現れ、20年以降の何らかの主導権を得るべく画策し始めるだろう。
キーワードは何だろうか。筆者の貧しい頭では想像もつかないが、「希望や夢の取捨選択」のようなものになるのかもしれない。自由度は高いが範囲は狭い。富を持つ人々の明るい未来。ドリームは本当にドリームの世界。夢で終わる。
御託を並べるのはいい加減にして、そうした予兆的なものを拾い集めてみよう。1回目の今回は、新型コロナウイルス感染の世界的な拡大の中で、「歴史的転換点」になるとの予測の根拠らしきものをランダムに挙げてみる。むろん、こうした指摘や論考は筆者の能力によるものではなく、現在、そこら中を飛び交っている言説を網で掬い取っただけである。
しかし、そうした言説がひとつの流れになるとき、頭をもたげつつある死生観に対する社会の関心も何らかのまとまりをつくる予感もする。それはたぶん、新たなコロナ禍後の社会の生きにくさを回避したい「同調圧力」として表面化するからである。
●人工呼吸器は若い人に
最初に挙げたいのは、やや感情的で具体的に人々の心に突き刺さっている棘だ。発信地はどこだろうか。アメリカかイタリアか。筆者が、状況を伝える言葉として聞いた出元はついにわからずじまいだが、出元など聞かされたほうはどうでもいい。それは、コロナ感染重症者の中で、不足してきた人工呼吸器を高齢者ではなく、若年者に優先するというトピックスである。
端的に言えば、この言葉が世界中に投げられたとき、人は何を思ったのだろうか。多数派は「肯定」だったのだと推量するし、たぶん間違ってはいない。また、筆者はその言葉を報道するジャーナリスティックな意匠に、「正義」の匂いも嗅いだ。人工呼吸器を若年者に譲るのが正義であるなら、ことさらそれを議論の的にすべく投げ込まないでもいい。
そうして、その点はすでに決着がつけられたように、今では口の端に上らなくなった。議論の余地なし、が共有されたのだろうか。緊急的に発し、コンセンサスを確認しなければならない実態が薄くなり、物理的にその議論の必要が消えているだけではないか。現実に若年者に人工呼吸器は譲られていたのか、いるのか、誰も検証はしていない。
重箱の隅をつついてみよう。「人工呼吸器は若年者に」はどのような具体性を帯びているのか。60代の重症者は、40代に譲るのか。その際、40代の重症度と60代の重症度はまったく同じと考えていいのか。それは普遍的なのだろうか。
視野を世界に広げれば、貧しい40代の重症者に富裕な60代の重症者が人工呼吸器を譲った例はあるのか、黒人の40代重症者に白人の60代重症者は譲った例があるのか。「正義」が果たされた例はいったいどの程度あるのか。「高齢者」も「若年者」も一括りではない。
●ダイヤモンド・プリンセス
クルーズ船ダイヤモンド・プリンセス号の新型コロナウイルス感染に対する日本政府の対応は、当時世界中の注目を集めていた。この初動対応は世界に反面教師的なテキストも提供した一方で、専門家と政府事務方のパワーバランス、メディアの情動的報道の一面性を明瞭に浮き上がらせた。
国立感染症研究所が5月3日に出したレポートでは、2月3日に横浜港に入港した同船は3711人の乗員乗客のうち、712人の患者(感染者)を出した。別のレポートでは死者は13人だとされる。
初動対応については、当時、新型コロナウイルス感染の実相がまだ十分に定かではなく、中国・武漢における都市封鎖と感染状況が伝えられるだけだったと言っていい。そのなかで中国から海を渡った感染者の塊がダイヤモンド・プリンセス号だったと言っていいだろう。米国の医学者はその後、この事例を「壮大な実験場」だったと評しているし、世界中の専門家と政府が並々ならぬ関心を寄せていたことがわかる。
当時船内では、専門家である環境感染学会のチームは早々に下船し、感染対応したのはDMATだったとされる。DMATは周知のごとく、災害対策、治療のエキスパートであり、外科・内科の総合的診療チームだ。同じ「惨事」とはいえ、対応し必要とされる「専門家」というイメージはない。DMATが何でもできるという思い込みが政府にもメディアにもあったようにみえる。
感染症専門家として本人も強く希望し、乗船した神戸大学教授の岩田健太郎は、2時間で船から下りている。岩田の著書にはこのときにあったことが詳細に書かれているが、対応するチームは厚労省、DMAT、DPAT(精神科医療チーム)で、岩田は感染管理の専門家として、PCR検査の同意書取得は不必要、DPATは船外で活動できる、ゾーニングをきっちりとすべきだと提言したところ、「なぜ一生懸命やっているのを否定するのか」というような情念的な反発を食って、船を下ろされたという(この部分は岩田氏の著書に一方的に寄っている。それは自覚しております)。
岩田はその後、自分で撮影した動画を日本語と英語で公開したが、主にゾーニングの重要性について日本メディアは「言っていることは正しいかもしれないが、態度が悪い」と言い、海外メディアは態度について関心はなかったと述べている。
新型コロナウイルス感染に関する国内メディアの姿勢は科学的な関心は一切持たず、情動的な報道に終始している。一般市民をなめきった不遜な姿勢で、その後も「自粛警察」に眉を顰めるポーズをみせながら、それを煽るという不思議な対応を常態化させ、それをまるで矛盾だとは考えていないことも露呈している。
●階級社会の輪郭の鮮明化
5月以降になって米国の黒人差別とコロナの連動、ブラジルの感染拡大が論じられるなかで、大きな要素として格差社会が感染拡大のひとつのカギとなっていることが露わになってきた。このことは実は当たり前の話であり、問題の中核はコロナ以前から意識されていたことである。多くの人たちもとくに驚くことではないかもしれない。
ただ、感染症と階級社会の関連については、1722年に書かれたダニエル・デフォーの小説『ペスト』ですでに、感染は平等には広がらないことが書かれている。多くの市民たちは、そのことを問わず語りに聞かされ知っている。ただ、現在起こっていることは、それが感染爆発を引き金として、次第に鮮明な輪郭となり始めたということである。(幸)