かつて治らなかった病気が治るようになる、という点で医学・医療の進歩は望ましいことに異論はない。結核は不治の病ではなくなったし、新型コロナウイルス感染症による肺炎でも、人工呼吸器で助かった命は多い。


 しかし、治療法がなかった時代と生命の誕生や、死亡の定義といった、生死の境界線が変わることにより、別の問題を生み出すことがある。


『先端医療と向き合う』は、次々に生まれる新しい医療と、それにより生じている生命倫理上の問題を扱う1冊である。扱うテーマは、生殖補助医療や出生前診断、臓器移植、再生医療、遺伝子診断、人工知能による診断、合成生物学、安楽死……と多岐にわたる。


 医療の進化は、人々の想像をはるかに超えて進んでいる。


 体外受精や顕微授精などの生殖補助医療や、海外で行われている代理出産については承知していたが、近年は「子宮移植」も始まっているという。


 著者も指摘しているように、第三者からの精子や卵子の提供による生殖補助医療では血がつながっていないし、子宮移植は多大な負担とリスクがある。そこまで負荷が大きいのであれば、正直、養子縁組でよいのではないか、という気にさせられる(少し前の世代では、日本でも頻繁に行われていた)。


■ブタの臓器が自分に入ったら


 臓器移植では、そもそも移植できる臓器の数が足りないことなどが、問題となってきた。貧しい国では、臓器売買も批判されている。これらの解決方法として、ほかの動物から臓器移植をする「異種移植」が研究されている。


 抗体医薬が出てきたときに、マウスの抗体をヒトが拒絶反応を起こさないように、キメラ抗体やヒト化抗体を作製する技術が注目されたが、今度ははるかに大きい動物の臓器を移植するというのだ。ヒトからヒトへでも臓器移植には、免疫反応が伴うが、〈遺伝子改変などによって抑える研究が進められている〉という。


 動物は、ブタが最有力候補だが、自分の体にブタの臓器が入るとしたら、どんな感じがするのだろう? 現在、〈人間としての自己同一性混乱をもたらす、心理的・精神医学的なリスクも指摘されている〉。発症時の年齢にもよるが、「ブタの臓器しか助かる道がない」となれば、選んでしまいそうな気もする。世界を見渡せば、宗教的にNGとなる人もいるはずだ。


 さらに、人間の細胞を動物に入れて、ヒトの臓器をつくる研究も始まっている。ギリシャ神話の「キマイラ」(ライオンやヤギほか、複数の動物が組み合わさった怪物)の世界である。iPS細胞でも、動物に頼らざるを得なくなるのかもしれない。こちらも動物保護など倫理的問題が指摘されている。


 近年は〈生命体またはその一部をつくることを目指す合成生物学〉が盛んに行われている。2016年には、米国の研究グループが、自然界にはない細菌を生み出すことに成功した。ゲノム編集にかかるコストや技術レベルが下がり、誰もが生物学や生命科学の研究ができる「DIYバイオ」の取り組みも始まった。


 怖いのは、おかしな人はどこにいるかわからない、という問題だ。〈バイオハザードのリスクを高める恐れや、医療への応用に進んで自己流治療が横行すれば健康被害の拡大をもたらす恐れも懸念される〉。実際、米国では〈人間の細胞の遺伝子操作キットを提供する事業者が現れた〉。


 新型コロナウイルスに伴う混乱でわかったように、ひとたび毒性を持った新興のウイルス感染症や細菌感染症が広がれば、社会は大混乱に陥る。作為的であれ、過失であれ、人為的なバイオハザードが起きない仕組みは不可欠だ。


 数々の先端医療に対して、本書で繰り返されるのは、「日本ではルールや規制がまだない」ということである。


 著者が指摘するように、〈先端医療・研究の報道では、最後に一言、「倫理面の議論が必要だ」と締めくくるのが定番だが、ではその議論の結果、みなが納得できるルールをどこで誰がどう決めるのかは、あいまいなままにされてきた感がある〉。


 しかし、その間にも医療技術は進化を続け、臨床の現場で利用されていく。本書を読めば、「放置は危険」と誰もが気づくはずだ。(鎌)


<書籍データ>

先端医療と向き合う

橳島次郎著(平凡社新書800円+税)