●軽んじられたデフォーとカミュの記録と記憶
前回は、安易な死生観ブームが加速するのではないかとの筆者の予感に沿って、その予兆的なものを拾い集めてみると述べたが、今回も、新型コロナウイルス感染の世界的な拡大の中で、「歴史的転換点」になるとの予測の根拠らしきものをランダムにあげることを続けたい。
前回にも断ったが、ここでの指摘や論考は筆者の能力によるものではなく、現在、そこら中を飛び交っている言説を網で掬い取っただけのものである。しかし、そうした言説がひとつの流れになるとき、頭をもたげつつある死生観に対する社会の関心も何らかのまとまりをつくってしまう予感を、筆者は感じている。
新型コロナウイルス感染の状況下で散らかる多様な言説、それも将来展望に影響するようなものを取り上げつつ、筆者自身の不安を抽出し、確認していくことを今後数回続けみたい。それはたぶん、曲解されたり、捻じ曲げられたりする行程を経て焦点化していき、新たなコロナ禍後の社会の生きにくさを回避したい「同調圧力」として表面化するからではないかと危惧するからである。
なお、前回は「人工呼吸器は若年者に」、「ダイヤモンド・プリンセス」、「階級社会の輪郭の鮮明化」を摘まんでみた。今回は中途となっていた「階級社会の……」の続きから始めてみる。
●階級社会の輪郭の鮮明化(続き)
ダニエル・デフォーの小説『ペストの年の記録』(注:「ペストの記憶」とする訳本もある)では、すでに、感染は平等には広がらないことが書かれている。感染爆発は、実際にはその瞬間に階級格差とともにその波紋を広げ、ひずみを拡大させる。それでは情報化が進んだ現在では、爆発が起こった瞬間にそれが社会に認知されたかどうか、となると妙に疑わしくなってしまう。
相変わらず、当初伝わってきたのは感染メカニズムや感染者数や死亡者数だけである。爆発が起きてようやく4ヵ月を過ぎようかというときになって、ブラジルの貧しい人々が住むファベーラで感染が拡大していること、米国では黒人の感染者数が白人の2倍になっているとのデータが、揃って喧伝されるようになった。
感染爆発の瞬間に、相対的に貧しい人は気をつけろとの警報が出されたとの報告を筆者は聞いたことがない。1722年にすでにデフォーがドキュメント的な小説でそのことを表現しているのに、専門家も、科学者も、文化学者も人文学者も、政治家も、メディアも先人の伝えには無関心である。
この物語で混同してはならないのは、津波災害に際して、先人が例えば「ここより上へ逃げよ」とか、「家を建てよ」と伝えてきたことを取り上げ、「教訓は守られなかった」という言説と同視化することである。津波の言い伝えが守られなかったように見えるのは、人々の営みが長年をかけて形成した土地や環境の変化が素因としてあるのであり、例えば津波が警報されたとたん、多くの人々は高台に逃げた。津波の恐怖への対処を忘れたわけではなく、逃げ遅れた人々も、教訓を優先できなったいくつかの事情がある。
デフォーの小説は、ロンドン市民がオランダでのペスト感染を噂し、不安がるところからスタートし、やがてロンドンでも流行が始まり、当初は行政の発表を鵜呑みにしていた人々は、その感染が収束する見込みのない絶望的なものになっていることに気付くが、それはすでに時遅しであり、何よりも「向こう側にあったことがこちら側に来たときの恐怖と不安」が描かれていることにつきる。行政は真実を知らないのに真実を知っているように市民を騙し、市民が気づいたときには手遅れなのである。
アルベール・カミュが1947年に発表した小説『ペスト』でも、「ひとたび市の門が閉鎖されてしまうと、自分たち全部が、かくいう筆者自身までも、すべて同じ袋の鼠であり、そのなかで何とかやっていかねばならぬことに、一同気が付いた」という表現がある。
つまり、情報はすでに起こってから流されるものであり、誰が感染リスクが高いのかも、感染の実態が掴めない間は何もわからないのである。それでも、それはすでに階級の中で、「収束を待てる人と収束までに埋没してしまう」人が出てくる可能性は予見できる。人々が知らないことをいいことにして、感染爆発の予兆が見えてきたとき、誰に逃げろと警報を発するのかに行政は関心がない。
米国やブラジルでは鮮明な格差の中に感染の実態も浮き彫りになった。日本ではそれがぼんやりとしているが、社会的には都市にそのリスクが高いことは、国のエンジンを直撃していることも意味し、日本としての実態的な影響、都市住民への警報の遅さは問われてもいいように思える。
●全体主義が成功を収めているのか
国家間の落差との観点では、全体主義国家が感染防御に一定の存在感を示したという説が流布し始めた。筆者は危険な兆候を感じる。ロシアは破綻が見え始めているが、死亡者の少なさは強権国家のプライドを感じさせる(正確性は別にして)。世界に先駆けた武漢市の激烈なロックダウンのありようは、独裁国家社会の特徴を十分に見せたし、ベトナムは最も感染封鎖に成功したと評価されている。
市民への警報の遅さ、警報自体への関心の薄さに比して、感染爆発に対する全体主義的な政策の賛美が強まる傾向に無関心でいいのだろうか。ロックダウンは日本では「自粛要請」という言葉に置き換えられたが、強制力を持ったロックダウンの必要に対する主張は徐々に声高さを増している。政府与党内から罰則付きの非常事態宣言の法制化も議論されているとの報道は、ロックダウン待望論の同調圧力に乗じていると考える。自粛警察が跋扈し、それを非難する世界は実は健全なのかもしれない。
●ダイヤモンド・プリンセス(続き)
これも前回の続きだが、感染症専門家として乗船した岩田健太郎神戸大教授が、2時間で船から下りた件について、岩田の主張に否定的な意見があることに付言が足りなかったので補足しておこう。
かなりの岩田批判を目にしたが、その多くは前回触れたような「岩田提言」の中身ではなく、岩田が自ら撮影した船内の動画をユーチューブに投稿した行為であり、その際に岩田が「ものすごい悲惨な状況で怖いと思った」や、「カオス」との表現を付したことを、不安を煽るだけと批判していることである。作家の佐藤優はある月刊誌で、「岩田教授がするべきだったのは、動画を投稿することではなく、船内の防疫体制に不備を感じたのなら、専門医としての職業倫理に基づき船内の専門家と徹底的に議論することだったのではないか」と述べている。また佐藤は、動画を削除しながら主張を変えないとする岩田の行動にも「煽り」の批判と疑問を提示している。
船内専門家との「徹底的な議論」は、岩田が「2時間で船を下ろされた」と述べていることが事実なら、議論自体の場が設定できなかったことを割り引く必要はあると思うが、多くの批判は佐藤の、煽りにしか映らなかったという見解と同じだ。しかし筆者は、少し行儀の悪い点はあるものの、岩田の言い分も聴いたほうがいいように思う。佐藤のような説得力のある言論人が、行儀の悪さを厳しく指摘しつつ、岩田の主張内容に関する検証もしてほしかったという思いも強い。これは佐藤だけに当てはまる。他の批判者は岩田の悪口でしかない。少なくともこうした言説が同調圧力になることは避けてほしいのである。
●マスク不足
新型コロナウイルス感染が騒ぎになると、すぐに薬局、ドラッグストア、スーパーマーケット、コンビニからマスクが消えた。
筆者は2月初めに、自宅の周りにあるスーパー4店、ドラッグストア3店、コンビニ6店、ホームセンター1店を訪ね歩いた。どこにもマスクはなかった。このとき思ったのは当時、マスクして歩いている人はどうやって手に入れたのかということだった。すでにこのとき、ネットでは通常価格の数十倍で売られ始めていた。その後規制はされたが、当時から3月まで、メディアの報道がマスク不足に触れない日はなかったと言っていい。
その頃、一部の専門家は感染対策でマスクはあまり意味はないと言い、メディアもそれを喧伝した。要はマスクなしでも「心配するな」と言いたかったのだろう。評判の悪いWHOのテドロス事務局長も「マスクは意味ない」などと声高に喋っていた。WHOは3月12日にパンデミック宣言を出しているが、そのときには大々的にマスク否定はしていなかった。その前には、「感染拡大抑止効果はあるが、呼吸器症状がない人には不必要」とコメントしており、日本の一部専門家、メディアもこれに依拠したことは明らかだ。
日本衛生材料工業連合会によると、18年度のマスク生産量は55億3800万枚。ほぼ8割は輸入。中国からの輸入が止まっている状況下では、国産メーカーが不眠不休で生産しても、需要には追い付かないのは自明だった。で、その解決策として「マスクそれほど効果ない説」が流布されたと筆者はみる。
しかしその後も、マスク不足に対する社会不安は消えなかった。3月末になると、少ないマスクの販売先へ早朝から行列をつくる光景が全国で目立ち始め、ついに4月1日、いわゆる“アベノマスク”の国民配付が政府から発表される。
アベノマスクの貧相なことに言及しても仕方がない。それより、この一事の重大さは政府の愚民意識が露わになったことである。国民はタダで配ってほしいのではない。ドラッグストア、スーパーマーケット、コンビニの店頭で、適正価格でいつでも買えることを求めていた。貧相だったのはマスクだけではなかった。少なくとも、アベノマスクが筆者に与えた傷は深い。警報を鳴らすのにも、国民生活の質を維持することにも、国は関心がないことを露呈した点では、マスク問題は象徴的な事例だった。(幸)