●マスクからみる日本社会の品質劣化


 前回、マスクに関する話を述べながら、片方の頭ではどうやら別のことが渦巻いていた。どんな人もそういう日常の思考方式には慣れていると思うが、前回の原稿を書き終えた時点で、筆者にはマスク問題から意識が徐々に遠のきつつあることが自覚できた。しかし、やはりマスクに始まった同調圧力の大きさへの圧倒的な再認識には、語るべきことは多いし、それを少し掘り下げてもいいのではないか。


 マスクに関するこの上半期に起こったことは、いわゆる新型コロナウイルス感染症に関する人々や権力の対応の鏡でしかない。これはいわば当然のことで、マスクの問題は世界を覆うパニックの象徴にしか過ぎない。ブラジルの大統領は感染したが、記者会見でわざわざマスクを外して見せ、アメリカの大統領はマスクをしない。欧米社会ではマスクは敗者の印で、勇気のないレッテルであるらしい。幸い、東アジアではそんな伝統・慣習・印象はないようで、とくに筆者も住み暮らしてきた日本では、明確に欧米風イメージはない。


 しかし、そうした慣習や考え方がないといって、欧米文化をコケにしていいのだろうかと筆者は思う。マスクに対する忌避感は対手の意志を尊重する、表情を大切にすることで相手を思いやりたいという意思を感じる。逆にアジア人は気持ちを人に見られたくないのかもしれないし、日本人はとくにそうかもしれない。マスク越しに忖度し、されることが美徳なのか。


 マスクに関する上半期の日本社会の動き、入手できないことに対する小児的なパニック騒動は、この社会が「市民がみんなマスクをしている民度の高さ」を象徴しているのではなく、「みんなと一緒にできない、同調できない恐怖」を反映している。筆者があらためて驚くのは、この「マスクが欲しい」症候群は、規模は大きいが非常に単純な同調圧力であることだ。きわめて根拠の薄弱なエピソードで忖度されることに馴れ、「みんな一緒に」日本人は自分でものを考えなくなった。


――読まないから考えない


 筆者が8~9歳の頃、祖父母の家の近くに住んでいた。借家ではあったが、祖父母の家は平家で広く、夏は近くの川から流れてくる風が涼しく、学校帰りに寄って、祖母からおやつをもらって昼寝をしていた。その家には玄関間口に3畳ほどの書院があり、なぜかがっしりした書斎机とガラス張りの大人の背丈ほどある本棚があった。机の上にはやはりガラス張りの小ぶりの書棚。その書棚は観音開きになっており、右側のガラスにはレースの飾りがあって、中にある本の背表紙が隠されていた。いかにも戦前風のデザインと、レースの隠し飾りは子どもの興味をそそるには十分な代物だった。


 経緯は忘れたが、ある日昼寝から目覚めると、寝ていたのはその書斎だった。人の気配がなく、これ幸いに前から開けてみたかったレースの飾りがついた書棚のガラス扉を、机に登ってそっと開けてみた。中にあったのは、料理本や裁縫に関する本、油絵入門といったいわゆるノウハウ本の類いであった。がっかりした。祖父母は当時、まだ若く未婚だった叔母2人と同居していたが、ノウハウ本は当時の彼女たちにとっては人に見せたくない「恥ずかしい」部類の本だったのだろう。ネットで怪しげなものを含めて、さまざまなノウハウを得意げにひけらかし、それに頼りきりの現代人とはかなり違う。この違いは、日本人が何かを得たのか、失ったのかを考えるカギだ。


 筆者はそれでも、その書棚から何冊かの詩集をみつけた。宮沢賢治、室生犀星、萩原朔太郎などに混じって、中野重治や金子光晴の詩もあった。中野の『機関車』『雨の降る品川駅』の何かわからないが力強さ、レジスタンスの強烈なアクを筆者の幼い心はむしり取った。金子の『富士』のフレーズ、「洗いざらした浴衣のような富士」は、一瞬で記憶した。本は、9歳の子どもにも衝撃的な出会いを準備している。ノウハウ本を隠したかった叔母たちのつつましい気持ちと一緒に忘れられない記憶だ。


 こうした話を思い出したのは、作家の月村了衛がある月刊誌の随筆で、最近の家具店が書棚を売っていないことに驚くところから始まる、日本の現代に対する批判を読んだためだ。筆者は、本を読まないことがものを考えなくなった原因だと短絡するつもりはないが、家庭にあった書棚から、父母や祖父母やその周辺から受け取り、伝達してきたもののひとつが読書から学んで考える姿勢ではないかと考える。その意味では、100冊程度の蔵書で測られる現代の知性の尺度には暗澹とした気持ちを隠すことはできない。


 こうして書くと、「今の若者は……」のような論難と勘違いされそうだが、まったく違う。マスクを求めて早朝からホームセンターに並んだのはほとんどが高齢者である。マスクがなければどうすればよいかという、冷静な方途に対する考えの取り方ができないのは今や年齢に無関係である。


――この国のジャーナリズムって?


 こうした状況を作り出しているのはネットとテレビであり、ネットは選択の幅を考慮すれば、テレビのほうが人に与える影響は相対的に大きいと思う。そしてそのテレビの、とくにジャーナルとしての質の劣化は、もうここでクドクドと書くに及ばない。2020年上半期のテレビに最も顔を出した人物は、白鴎大教授の岡田晴恵だと、これもテレビが報じている。どうでもいいけど、別にお前さんたちが驚くなよ。


 考えることをやめてしまった日本人に、開けているパチンコ屋をバッシングし、ホストクラブの感染蔓延ぶりを煽る。自粛警察を非難しながら、テレビが取締本部を担っている。


 東京都知事選挙では何も変わらなかったことを何も語らない。安定を求めている時期か、情勢かと疑問を投げるフリもない。これからどうするんだって、権力に聞けよ。数日で80人が命を落とした九州豪雨は東京から遠い話で、歌舞伎町と池袋の感染者数のほうがニュースバリューは上で、芸能人の不倫や離婚は時間はたっぷり。取材に金をかけているのは当たり前だからたっぷりになる。


 ものを考えなくなった日本人には、「日本人は民度が高い」「アメリカの人種差別はひどい」「香港は心配」「選挙では変化を求めない良識」を報じていれば多数の支持が得られる。見る側もメディアが報じているから、たぶんそうだとみんなで思いこむ。そういう同調圧力を形成する構造がもうできあがっている。「日本人とマスク」は、それを象徴したにすぎない。これは私見である。筆者は家庭から書棚が消えてから同調圧力の構造が生まれたと思っている。月村の言葉を借りれば、すでに「不可逆的」だとも思う。


●東京アラートと大阪モデル


 この稿は7月12日時点で書いている。どちらも、5月に当初示した指標は修正され、経済重視へ舵は「緩和」に切られた。最初はどういう指標で、それがどういう風に修正されたかの詳細は省く。考えなければならない、受け止めておかなければならないのは、経済重視でなければ国が沈むということに、メディアを含めて権力の側が気付き始めたということだ。そもそも「東京アラート」という言葉は消えた。


 東京では連日感染者数は200人を超え、大阪でも30人前後を行き来している。首都圏全体の感染増加傾向も明白になり始めているし、関西圏も規模は小さいが同様のカーブを描いている。大阪モデルは緑から黄信号点灯が目前に迫っている。


 しかし、本当に国はこのままでは沈むのだろうか。私たちが考えるべきは、そうした言説を真に受けて「With Corona」に同調してよいのだろうかということだ。この考察については次回に触れていきたい。(幸)