若い頃は自分より一回り上、「団塊の世代」の上司や先輩に反発心を抱いていた。「俺が、俺が」という“出しゃばり感”、押しつけがましい傲岸さが鼻についたのだ。彼らのさらに上司、戦前・戦中生まれの人たちが漂わせる「よきに計らえ」という若者への鷹揚さが、この世代には欠けて見えた。ベビーブーム世代として過当競争にさらされ続けてきた彼らの環境が、そんな特徴を育んだのかもしれない。
ただ1960年代生まれの自分たちが還暦に近づくと、昨今の歪んだ世相を生み出した責任はもっぱら自分たち、あるいはその前後の世代にあるように思えてきた。ネットで誹謗中傷を繰り返す中心は、40~50代の男性とされ、その手の嫌がらせが警察沙汰になり、逮捕者を見てみればやはり50代、なんて事案も数多い。70代に差し掛かる団塊の世代への“インチキ臭いイメージ”は相変わらず拭えないが、悲しいかな自分たちの世代にも、鬱屈した自意識を持て余す陰湿なイメージが出来上がってしまった気がする。
今週号ですでにシリーズ第4話になっているが、先の大戦や戦後史の研究で知られるジャーナリスト・保阪正康氏が、世代論の切り口から戦争の時代を回顧する『「世代」の昭和史』という連載をサンデー毎日で始めている。第1話から順に見出しを並べると、『青春を戦争に奪われた「大正11年生まれ」へのレクイエム』『学徒出陣世代の怒り「我々は戦争のために生まれたのではない」』『大正10年代生まれは「戦争と死」をどう表現したか』『前世代の戦争責任を問うた司馬遼太郎』といった具合である。
大正11年(1922年)生まれだと、日米開戦時に18~19歳、終戦時は22~23歳。学徒出陣の対象になったのは彼らからだ。作家の司馬遼太郎はこの1歳下。当の保阪氏は1939年の生まれで終戦時は5歳だった。保阪氏が連載の入り口で、大正11~13年生まれにこだわったのは、この世代に最も戦死者が多いという理由からだった。
私自身も少し前、仕事上の調べもので、終戦時の世代論を意識させられた。1930年生まれの作家・野坂昭如と3歳下の俳優・菅原文太による古い雑誌対談を見てのことだ。終戦時の野坂は旧制中学3年生。かたや菅原は国民学校(小学校)6年生だった。国家のために死ぬことを覚悟して、そうせよと教えられてきた野坂は、一夜にして民主主義を語り出す大人たちに驚愕し、強烈な不信感を禁じ得なかった。ところが、農村部で野山を駆け回る小学生だった菅原は、そうした「時代の断絶」に気づかずに“あの夏”を過ごしていた。「焼け跡闇市派」の前者と「疎開派」の後者には、わずか3歳差で時代認識にそんな違いが見られたのだ。
生まれた時期を基準にしてその特性を語る世代論に関しては、個人の価値観をより普遍的に見る立場から拒絶する論者もいて、保阪氏もそのことに触れている。だがやはり、実際に体験したり身近に見聞きしたりした出来事と、“生まれる前の出来事”には、大きな差があると思う。事後的に歴史書や小説、映画などで詳しく知ることは可能だが、「世代全体」として見た場合、そうした“学ぶ人”はごく一部に留まる。
「対立と分断」という目下の世界的状況に関しても、インターネットの普及および世代交代による「世界大戦の忘却」という2大要素の影響があると私は感じている。戦争体験者がまだ多かった時代は、殺戮のむごさ・虚しさや国家の暴走を恐れる心情が、皮膚感覚として人々に共有されていた。しかし現代では、もはやその教訓は“本を読み学ぶ人”にしか継承されていない。しかも、読書人口は年々減る一方。戦中派世代の親のもとで育ち「紙の本の時代」を生きながら、十分に歴史を学ぶ努力をせず、「歴史的記憶」の受け渡しに失敗した。私たちの世代には、そんな負い目もあるように思う。
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三山喬(みやまたかし) 1961年、神奈川県生まれ。東京大学経済学部卒業。98年まで13年間、朝日新聞記者として東京本社学芸部、社会部などに在籍。ドミニカ移民の訴訟問題を取材したことを機に移民や日系人に興味を持ち、退社してペルーのリマに移住。南米在住のフリージャーナリストとして活躍した。07年に帰国後はテーマを広げて取材・執筆活動を続け、各紙誌に記事を発表している。著書は『ホームレス歌人のいた冬』『さまよえる町・フクシマ爆心地の「こころの声」を追って』(ともに東海教育研究所刊)など。最新刊に沖縄県民の潜在意識を探った『国権と島と涙』(朝日新聞出版)がある。