●それぞれに失望する夏


 この稿を執筆しているのは7月25日。新型コロナウイルス感染症の世界的爆発がなければ、東京オリンピックがすでに開会されていたはずだ。日本中が沸き立ち、東京は世界から幸福な視線を浴びていただろう。何という変わりようだろうか。


 災害をも伴う豪雨の長雨が続いているが、それすらも東京オリンピックが開かれていたら、ニュースは小さく取り扱われていただろう。コロナ禍に人々は倦み、出口の見えない暗闇の中で、右往左往している。誰がこのような間近な未来の暗転ぶりを想像しただろうか。専門家、政府、メディアの誰もが何かを発信したとしても、現況はそれを信じて疑わないという地平があるわけではない。


 私は中学、高校の6年間を北九州市の戸畑という街で暮らしたが、7月の最後の週末はピラミッド型に提灯を積みあげた山笠を100人近くの若者が担いで、メインストリートを走り回る大きな祭りが行われている。当然ながら今年は中止だ。7月25日の今日は、本来なら街の4大山笠が集結し、レース形式で行われるメインイベントが挙行され、数十万人の観衆がそれを見守る、はずだった。


 昨年も、一昨年も帰郷して見物した。腹に響く独特の和太鼓のリズムを軸とする囃子は子どもの頃に覚えたもので、ソウルフルである。男たちの汗と、200年以上続く掛け声、粘りつく濃い湿気の中で、夕立の匂いを嗅いだことを思い出す瞬間でもある。今年は東京へ行ったきりで音信が途絶えていた仲間のひとりが帰郷して見物するという予定も入り、昔の仲間たちも勢い込んでいた。リーダー役の地元の友は、それでも帰郷して宴を催したかった在京の友に6月、「東京からは来るな」とメールを送った。それぞれに落胆し、失望する夏が始まっている。


――予見についてどっちが正しいかを論じる愚


 メディアの論調もコロナ禍については先を見通せない苛立ちに満ちている。政府も何がしたいのかさっぱりわからない迷走が続く。前回のこの稿では、東京の感染者は100人超え、大阪も30人超えで、大阪では「大阪モデル」の信号が青信号から黄信号に変わるかもしれないと書いた。翌々日には大阪は黄信号が灯り、今でも点いたままだ。東京の感染者数は300人内外に膨らみ、大阪でも100人を超える状況が常態化している。


 緊急事態宣言が出された第1波とは違う、PCR検査数が増えたので感染者数は増えたが重症者や死者は少なくなったという説、現状は確実に第2波で感染者は倍々ゲームで増え、重症者数も相対的に増えるので、医療崩壊が起こるという説。見通しのなかで語られるのは今のところ、この2つの説だ。


 医師を中心とする専門家の多くは医療崩壊を心配し後者の論をとることが多い印象があり、政府は間違いなく前者である。7月20日を過ぎて、安倍首相はぶら下がり会見で、緊急事態宣言のときとは状況は違う、注意深く見守るというワンパターンのフレーズを繰り返している。


 先のことを考えるのに、どちらが正しいなどとは言えるはずがない。それなのに、どっちが正しいかを論じたがる空気はどうしようもない。たぶん、メディアが思うほど市民はバカではない。国が正しいか、医療専門家が正しいかに、極端に言えば市民には関心はない。欲しいのは、「安心」だけだ。どうして、こうどっちが正しいかに決着をつけたいのだろうかと思う。もはや同調圧力がないとやっていけない病気にメディアはかかっている。たぶん、新型コロナが収束してもこの病に日本のメディアが打ち勝つ先は見えないままであろう。


●go toキャンペーンの前から


 一応、医療提供体制に問題はないので、深刻な情勢ではないとする政府の具体的な政策もお寒いままだ。go toキャンペーンはその最たるものだろう。朝令暮改のいちいちについては周知の事実であり、ここでは詳しく語らないが、気になるのは4月の特別定額給付金のときのドタバタとの落差だ。


 特別定額給付金に関するドタバタを時系列的にみていくと、政府が新型コロナウイルス感染対策にいかに腰が浮いたまま対応してきたかがよくわかる。先走って言えば、現在、一部の医療専門家が政府の楽観姿勢を悪しざまに批判するのは、このあたりのふらつきぶりに目が行っているからである。


 特別定額給付金は、緊急事態宣言を行うための国民への補償的措置である。そのため、当然ながら緊急事態宣言と特別定額給付金政策はリンクして行われた。緊急事態宣言はまず4月7日に首都圏、大阪、兵庫、福岡を対象に発表された。これを全国に拡大したのが4月16日。


 一方、国民への補償対策は当初、「生活支援臨時給付金」という名目で収入減少世帯に30万円を給付する方針だった。実際、安倍政権はこの方針を4月10日に発表した。当初方針ではこの給付のラインは年収300万円以下の世帯であったが、これは300万円を少しでも上回れば給付されない、あるいはそうした所得環境のある人がもらうための情報に漏れなくアクセスできるかなどの問題が溢れ出した。これが、公明党の抵抗で国民一律に10万円を給付する特別定額給付金に変更されるのだが、変更が決まったのは4月16日。


 このドタバタについて、評論家の田原総一朗氏は「平時の発想」か「戦時の発想」の違いだと説明している。生活支援臨時給付金は政府予算が対応できる能力から逆算した「平時の発想」で、特別定額給付金は「戦時の発想」だというのだ。そして、もともと安倍首相はコロナ対策では「戦時の発想」があったために、公明党に背中を押されて得たりや応とばかりに政策を変更したのだという。


 こうした考え方の違いが鮮明に出てくるところに、今回のコロナ対応に見る政府の迷走ぶりが象徴されるように筆者は思う。「平時の発想」はおそらく、「小さな政府」的な考え方のスタンダードであり、「戦時の発想」は「大きな政府」論と読み替えることができる。


 立ち向かうべき敵の強大さ、国民の結束を促して対抗すべき問題であるとの視点は理解できる側面は大きい。しかし、「戦時の発想」でポピュリズム的な政策判断が行われたとしたら、いかにも問題は大きいと筆者は思う。確かに低所得生世帯「生活支援臨時給付金」30万円の給付の具体的方法は知恵を尽くさねばならないナーバスな問題ではあったかもしれない。そこは政府が乗り越えて国民を公平と福祉の観点から説得しなければならない問題だったと思う。


 思い出してほしい。メディアは公明党に背中を押された安倍首相に、こぞって拍手を送ってはいなかったか。何不自由なく限られた空間で人生を送ってきた人間(ミュージシャンの動画にツイッター投稿した感性をみればわかるが)が、ひょいと戦時発想に切り替え、大きな政府のもとに同調を呼びかける構造に冷たい汗が流れる思いがしなかったメディアに、筆者は暗澹たる思いを隠すことはできない。


 一律10万円を寿ぐ前に、本当に生活に困る人の繊細で丁寧な掘り起し、行政を面倒くさがらせない細かな指摘と監視で、自分たちも平時の発想での一貫した行政努力を求める姿勢をとろうとしたのだろうか。現状のメディアからは何も伝わらない。たぶん「生活支援臨時給付金30万円」→「特別定額給付金10万円」は自殺者の数で跳ね返るだろう。メディアは収束後にポピュリズムに加担したツケをどう払うだろうか。


 go toキャンペーンは、現状も批判の渦中にある。経済と感染対策の両方を走らせるという方法は今のところ、国民の支持は得られているようにメディアはみせている。しかし、ここでは「平時の発想」が逆襲する構造が透ける。前述した落差はそこで、特別定額給付金とのニュアンスの違いが大きいのである。国民はすべてポピュリズムを歓迎するわけではない。ステイホームから、弾を避けながら散歩へ行けと国民は犬扱いされて大人しいわけではないのである。(幸)