(1)藤原不比等


 藤原不比等(659~720)は、藤原鎌足の次男です。藤原不比等は「藤原氏」を最高・最大の氏族に築きあげた。不比等の長女が宮子です。


 とりあえず、藤原不比等の妻を列記します。


◎最初の正室……蘇我娼子(しょうし。?~700年頃)。藤原武智麻呂、房前、宇合の3男を生んだ。蘇我氏は衰退しつつある豪族であった。藤原氏も壬申の乱(672)で没落していた。


◎五百重娘(いおえ・の・いらつめ)……藤原鎌足の子であるから、不比等の妹になる。天武天皇(?~686、第40代在位673~686)の夫人になった。そして天武天皇との間に、新田部皇子(?~735)を生んだ。天武天皇の死後、不比等の妻となる。そして、麻呂を生んだ。


 当時の日本は、母が異なれば兄妹でも結婚はOKであった。現代日本ではNOである。なお、近親婚の範囲・是非に関しては、時代・国・地域によって相当異なる。


◎賀茂比売(かものひめ。?~735)……不比等の第3夫人。賀茂氏という豪族の出身です。この賀茂比売は長女・藤原宮子、次女・藤原長娥子(ながこ)を生んだ。ただし、2人とも、「生んだ」とされているだけで、事実は「養女」の可能性が大きい。


◎県犬養三千代(あがた・の・いぬかい・の・みちよ、665~733)……橘三千代ともいう。出生などハッキリしないが、要は、中堅豪族の出身である。天武天皇のときに女官となった。


 ここで、皇位継承について。第41代は持統天皇(在位690~697、天武の皇后)、第42代は文武天皇(在位697~707、天武の孫)と続き、次は、文武天皇の子である聖武(701生~756没)に内定していたが、如何せん、若年にため、少々長期間のワンポイント・リリーフとして、女帝2人が継承した。第43代は元明天皇(在位707~715)、第44代は元正天皇(在位715~724、元明の娘)である。そして、第45代聖武天皇(在位724~749)が即位した。


 県犬養三千代は宮中で、阿閉皇女(後に元明天皇)に仕えた。


 三千代は、最初、美努王の妻となって、葛城王(後の橘諸兄)、佐為王(後の橘差佐為)、牟漏王女を生んだ。


 684年に、葛城王を生んだ。685年に文武が誕生したので、その乳母となった。


 原因・時期は不明だが、美努王と離婚して、藤原不比等の後妻となる。そして、不比等の3女・光明子、4女・多比能を生んだ。光明子は、聖武天皇の皇后となった。4女・多比能の母は不明とする説が強い。


 三千代は、元明・元正の時代に女官ナンバーワンになった。不比等の出世に彼女の存在は不可欠であった。


 なお、不比等には、他にも女性がいた。4女・多比能の母は、あるいは、5女・殿刀自の母は、歴史文書に載らなかった女性です。記録する必要がないのか、記録するのがマズイのか、わかりません。


 いろんな名前が出てゴチャゴチャしましたので、整理の意味で、今度は、不比等の子供を列記します。


[男性]……「藤原4兄弟」と称されています。

●藤原武智麻呂(むちまろ、680~737)……母は蘇我娼子

●藤原房前(ふささき、681~737)……母は蘇我娼子

●藤原宇合(うまかい、694~737)……母は蘇我娼子

●藤原麻呂(まろ、695~737)……母は五百重娘

 

 藤原不比等は三千代の力もあって、「不比等政権」を築いた。しかし、720年、不比等は感染症(天然痘)で急死。藤原4兄弟はまだ若いので、単純に言えば「長屋王政権」となった。藤原4兄弟は「長屋王に謀反あり」をでっち上げ、「長屋王の変」(729)で妻子ともども自害に追いやった。そして、「藤原四子政権」となった。しかし、感染症大流行で、737年、4兄弟はそろって亡くなる。そこで、感染せず生き残った橘諸兄の「橘政権」となった。「橘政権」のブレーンは、下道真備(後に吉備真備)と玄昉法師の2人である。その後も、ドロドロの政変劇(740年藤原広嗣の乱など)が続く。ドラマにすると面白いと思うのだが、天皇が主人公のドラマは、テレビ会社にとってタブーみたい。


[女性]

○長女の藤原宮子(?~754)。父は不比等、母は、賀茂比売(かものひめ。?~735)とされている。しかし、宮子の実の両親は「謎」である。宮子は、文武天皇の夫人となった。そして、文武の子・聖武を生んだ。


○次女は、藤原長娥子(ながこ)。父は不比等であるが、母は一応、賀茂比売とされているが、本当はわからない。長屋王(?~729)の妾となり、安宿王、黄文王、山背王(藤原弟貞)、教勝の3男1女を生んだ。長屋王の変では、不比等の血統ということで、長娥子と3男1女の子どもたちは、特別に助命された。なお、3人の男は、ドロドロの権力修羅場に身を投じていくが、教勝(きょうしょう)は長屋王の変で助命された後は出家して写経などをして静かな生活を過ごしたようだ。


○3女は、藤原光明子(701~760)である。母は、県犬養三千代である。光明子は聖武天皇の皇后となった。


○4女は多比能で、母は県犬養三千代である。多比能は、橘諸兄の正室になった。ここで面倒が発生する。前述したように、橘諸兄は、三千代の最初の夫・美努王と三千代の間の子である。多比能は不比等と三千代の間の子である。ということは、橘諸兄と多比能の夫婦は両方とも三千代が実母となってしまう。当時、異母兄妹の近親婚はOKだったが、同母兄妹の近親婚はNOであった。だから、多比能の実母は不明で、三千代の養女であろう、と推測します。


○5女の殿刀自は、説明の必要のない女性です。


(2)産後うつ説


『続日本紀』の天平9年(737年)12月27日に驚くべき記述がある。737年とは、天然痘が大流行し、藤原4兄弟がそろって急死した年である。


 十二月二十七日 大倭国を改めて大養徳国と書くことにした。


 この日、皇太夫人の藤原氏(宮子)が皇后宮に赴いて、僧正の玄昉法師を引見した。天皇もまた皇后宮に行幸した。皇太夫人が憂鬱な気分に陥り、永らく常人らしい行動をとっていなかったためである。


 夫人は天皇(聖武)を出産以来、まだ子である天皇に会ったことがなかった。玄昉法師が一たび看病するや、おだやかで悟を開かれた境地となった。そうなった時ちょうど天皇と相まみえることになったので、国中がこれを慶び祝した。そこで玄昉法師に絁(あしぎぬ)千匹・真綿千屯・絹糸千絇・麻布千端を施与し、また宮子に仕える中宮職の官人六人に、それぞれに応じて位階を授けられた。中宮亮・従五位下の下道朝臣真備に従五位上を、少進・外従五位下の阿倍朝臣虫麻呂に従五位下を、外従五位下の文忌寸馬養に外従五位上を授けた。


 この年の春、瘡のある疫病が大流行し、はじめ筑紫から伝染してきて、夏を経て秋まで及び、公卿以下、天下の人民の相次いで死亡するものが、数えきれないほどであった。このようなこと近来このかたいまだかつてなかったことである。


 宮子は聖武を出産(701)してから737年まで、実に36年間、一度もわが子・聖武に会ったことがない。原因は、「憂鬱な気分に陥り、永らく常人らしい行動をとっていなかった」ということだ。それが、玄昉法師が一たび看病するや、すぐさま全快した。


 これは一体全体、何だろうか?


 簡単に考えれば、「産後うつ」がこじれて極度の憂鬱ノイローゼになってしまった。令和天皇の雅子妃も「産後うつ→適応障害」になった。それに、皇室等上流権力層では、出産と育児は分離されるのが、よくあるパターンである。赤子は生母から切り離されて乳母が育てるのである。だから、宮子と聖武が切り離されるのはわかるのだが、36年間一度も面会なし、は異常である。


 それでは、宮子の憂鬱ノイローゼは非常な悪化状態だったのか。でも、玄昉法師の1回の看病で、アッと言う間に全快したから、そんなに酷い憂鬱ノイローゼではあるまい。原因の数%は産後うつかも知れないが、本当の原因は、他にあるに違いない。


 余談ながら、大正天皇に関して。明治天皇の皇后・昭憲皇太后(一条美子)には子が生まれなかった。5人の側室(女官)に、5男10女を儲けた。しかし、2人は死産、8人は夭折。成人したのは、1男4女の5人である。なぜ、夭折が多いのか。近親婚の遺伝子悪影響説がもっぱらですが、どうやら乳母・女官が使用する白粉に含まれる鉛による脳膜炎だそうです。


 大正天皇の生母は柳原愛子であり、出産直後に育児は別の女官が担当した。柳原愛子は女官として、大正天皇の周辺にいたが、親子の名乗りはなかった。大正天皇は、ずっと昭憲皇太后が母と教えられていた。大正天皇が、事実を知ったのは、かなり遅かったようだ。明治・大正の時代でも、母子分離は当たり前のように実行されていた。


(3)髪長姫伝説


「藤原宮子とは何者か?」と調べて始めると、すぐに「髪長姫伝説」にヒントがあるのではないか、と思うようになります。これは、紀伊国日高郡(和歌山市の南方向)の道成寺に伝わっている。道成寺と言えば、「安珍・清姫」のお話が有名ですが、「髪長姫伝説(道成寺宮子姫伝記)」もあります。それを要約してみます。


㋑文武天皇の時代、紀伊国日高郡に9人の海人(あま)がいた。毎日、海に入って、あわび・さざえなどを採って暮らしていた。9人の中の1人は乙女で、名を「宮」といった。あるとき、海底より虹のような光が射した。人々は怪しみ恐れた。宮は、その光の正体を突き止めるため海に潜った。光の正体は黄金の千手観音像であった。宮は、長い髪に包み、持ち帰り、家の近くの岩の祠(ほこら)に大切に祀った。


㋺藤原不比等が参内のとき、南門に雀が巣を作った。雀を追い払って巣を見れば、1丈(約3メートル)もある黒髪で作られていた。珍しい出来事なので、帝に奏上し、その結果、この髪の長い女性を探すことになった。そして全国に勅使が派遣された。


㋩宮は、朝夕、千手観音像のご供養をしていた。その姿を、紀州日高郡へ派遣された勅使・栗田真人(実在の人物で、藤原不比等の側近)が目撃した。髪が長いことから、この女性が探し求める女性と確信した。栗田真人は帝の勅を伝え、上京を促す。宮は、8人の兄と相談しなくては、と言う。

 

㊁そこで、栗田真人は8人の兄と会う。8人の兄は、宮の上京を承諾する。


㋭栗田真人は宮を伴い、都へ帰った。宮は、藤原不比等の養女となって、名を「宮子媛」と改めた。そして、ついには、文武天皇の后となった。


㋬宮子は雲上人になったが、故郷が忘れられない。そして、とりわけ千手観音像が心配でならない。不比等に「千手観音様が心配でたまらない」と、ひたすら頼むと、不比等は帝に申し上げた。帝は、一寺を建立せよと、紀道成に命じられた。 ※紀道成は不明。某学者は「紀麻呂」と推定している。紀麻呂は不比等の側近である。


㋣紀道成は、寺を建立するため、木材を筏にして日高川を下った。筏が岩に衝突して、紀道成は死亡する。遺骸は川下の「三百瀬」(みよせ)に流れ着いた。そこに、里人は、道成を葬り、祠を建てた。それが、今も残る「紀道明神」である。


㋠紀道成は死亡したが、勅命の一寺建立は着々進行した。1丈2尺の木像の千手観音が彫られ、宮子の黄金の千手観音が納められた。一寺は建立され、その名を「紀道成」からとって「道成寺」とした。


 以上が「髪長姫伝説」(道成寺宮子姫伝記)の概要です。


 伝承なので、基本的ストーリーは同じですが、細部は異なっているものもある。例えば、宮の幼少時は「脱毛症」で「髪なし幼女」というものもある。たぶん、「髪長」を強調したいため、あえて「髪なし幼女」にしたのではなかろうか。シンデレラ・ストリーに「みにくいアヒルの子」が付け加わった感じかな。


 超重要問題は、「完全なる下層階級・海人の娘が、天皇の后となり、しかも、次代の聖武天皇を生んだ」ということである。そんなことは、あってはならないことである。天皇の神聖なる尊厳が破壊されてしまう。事実ならば、絶対秘密事項とせねばならない。


 だから、やはり「髪長姫伝説」(道成寺宮子姫伝記)はフィクションだ、となる。藤原宮子の父は、不比等であり、母は賀茂比売である。そう言い張らねばならない。


(4)伝説は真実か


 可能性としては、不比等が紀州を旅したときに、現地の接待の一環として差し出された女性とセックスして生まれたということかな……。昭和初期までは、新潟や四国の田舎では貴人が来ると、その家の女性を差し出し、あわよくば、その家系に貴人の遺伝子を導入する、ということがあった、と何かの本で読んだことがある。


 謡曲「海人」では、藤原房前(不比等の次男)は、不比等と讃岐の海女との間に出来た子となっている。そこから推理すると、宮もそんなことかも知れない。紀州の海人の女性に産ませた娘が、超美人に育ったと報告があり、引き取ったのかも知れない。海人の娘だから、都にはいないスポーツ系筋肉質美女である。さらに、海人は倭人と異なる人種で、今ならハーフ美女かもしれない。とまぁ、空想はどんどん膨らむ。


 考古学調査によって、道成寺は、文武天皇の勅命で建立された寺であり、飛鳥・奈良の大寺院や有力国分寺に匹敵する規模だったことが明確になってきた。なぜ、紀伊国日高郡に巨大な寺院が建立されたのか。道成寺には、文武天皇と特別な因縁があるに違いない。すなわち、藤原宮子と道成寺は深い関係がありそうなのだ。


 また、義淵(ぎえん、643~728)や行基(ぎょうき、668~749)というトップ高僧も道成寺に関わっており、やはり、道成寺は並みの寺院ではないことがわかる。なお、義淵の弟子には、玄昉、行基、隆尊、良弁などがいる。行基は、民衆への直接布教を禁止されていた時代にあって、階層を問わず布教すると同時に社会事業(溜池、架橋、布施屋など)を実行して、民衆の圧倒的支持を得た。そして日本初の大僧正となり、奈良の大仏建立の実質的責任者となった。


 不思議に思うのは、不比等の長女・宮子と3女・光明子の比較である。宮子は聖武天皇の母である。光明子は聖武天皇の皇后である。光明子は存在感が圧倒的なのだが、宮子は極めて薄い。例をあげれば、宮子の住まいは、不比等の邸宅の隅にあったに過ぎない。なぜ、冷遇されたのか。宮子の実母が賀茂比売ならば、賀茂一族のしかるべき人物が大出世するはずだが、そんな痕跡はない。


 あれやこれやの推測・空想の果てに、こんなストーリーを描いてみた。


 文武天皇の皇后予定者は、皇族の石川刀子娘(いしかわの・とすの・いらつめ)と紀竈門娘(きの・かまどの・いらつめ)の2人がいた。文武天皇の即位(697)と同時に、2人は皇族の娘だから「妃」の称号を授かった。


 紀竈門娘の紀氏は、その名のごとく紀州と関係があった。紀竈門娘の侍女に、紀州日高郡出身の宮子がいた。


 文武天皇は紀州へ旅行したとき、引き締まった肉体の宮子を一目見るなり一目ぼれ。それが宮子で、都へ来て宮中で仕えよ、と命じられた。宮子は紀竈門娘の侍女として仕えた。


 文武天皇の性欲は、2人の妃ではなく、宮子に向かった。そして、聖武が生まれた(701)。


 701年、不比等と県犬養三千代の間に光明子が生まれた。不比等と三千代は、野望を抱いた。聖武をイイナリ天皇にし、光明子を皇后にする。完璧に権力を獲得するため権力亡者の道を決断した。


 第1に、聖武の母・宮子を養女にした。宮子は、「妃」(皇族の娘)の1ランク下の「夫人」(大臣の娘)にした。


 第2に、聖武のライバルを排除する。2人の妃は、「夫人」の下の「嬪」(大臣より下の者の娘)とした。文武天皇が死去(707)すると、713年には、「嬪」と称することさえ禁じた。


 第3に、母・宮子の素性は周知の事実だったので、時間をかけて、母が下級女子の聖武即位反対派を排除していった。元明・元正の2人女帝の間に、それを成し遂げた。


 不比等と三千代にとって、宮子は聖武を生んで用済みなのだ。宮子と聖武が親密になれば、天皇の母だから自ずと権力の一角を占めるようになる。そうなると、紀氏が台頭するかも知れない。そうなっては、困るので、宮子と聖武の間に障壁をつくって会わせないようにした。


 宮子は当然、憂鬱になる。宮子が滅茶苦茶をしでかさないように、紀伊国日高郡に寺院を建立することは認めた。


 歳月は流れ、不比等も亡くなった。藤原4兄弟も亡くなった。


 玄昉法師は、たぶん、こう諭しただろう。


「あなた様を苦しめた不比等も藤原4兄弟も亡くなりました。これからは、橘諸兄の政権です。その補佐役は、下道真備と不肖ながら私、玄昉が努めます。遠慮なく、お子様・聖武天皇にもお会いできます。あなた様の周りは一変したのでございます。千手観音さまのお手配です。諸行無常」


 宮子は一瞬にして、苦から解放され、悟り開いたのである。


 その後の宮子の運命は?


 宮子と玄昉法師のスキャンダルがばらまかれたり、娑婆世界は何かと騒がしいものだ。


 749年、聖武天皇の次は孝謙天皇である。聖武の娘、宮子の孫である。このとき、太皇太后の称号を受けた。


 754年、崩御。享年70歳。


 なお、梅原猛著『海人(あま)と天皇』を参考にしました。


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太田哲二(おおたてつじ

中央大学法学部・大学院卒。杉並区議会議員を8期務める傍ら著述業をこなす。お金と福祉の勉強会代表。「世帯分離」で家計を守る(中央経済社)など著書多数。