京都市の筋萎縮性側索硬化症(ALS)患者・林優里さんが、宮城県の大久保愉一容疑者ら医師2人に依頼して自らを“殺害”した嘱託殺人は、極めてショッキングなニュースだった。世間の反応は、この事件を「安楽死・尊厳死をめぐる問題提起」と受け止めようとする人々と、容疑者らにあの相模原・大量殺人事件の犯人とも通底する「優性思想」を感じ取り、犯行を厳しく指弾する人々に二分された。


 私自身の受け止めは、後者の感覚に近い。報道によれば、医師2人は彼女の主治医でなく、SNSで知り合っただけの関係で、うち1人は事件前、彼女から130万円の報酬を受け取ったとされる。また、大久保容疑者は「安楽死」への関心をSNSなどでさかんに発信していたが、その書き込みには「(コロナにより老人が大量に死ぬことで)若い者の負担が減ればいい」などと一部の人命を“不要な命”と見るニュアンスも垣間見える。


 個人的に気になるのは、林さんの生前のツイッターに《(介護を)「してあげてる」「してもらってる」から感謝しなさい 屈辱的で惨めな毎日がずっと続く ひとときも耐えられない》といった書き方で「死を望む動機」が説明されていたことだ。難病患者の実情には疎い私だが、病気の特性や治療による肉体的苦痛から「解放されること」を願う尊厳死と、精神的な“絶望”を理由とする自死とでは、意味合いに大きな差があるように思えるのだ。


 生きている意味がない、と思い詰める状況。それは人それぞれ違うだろう。四肢を失ってそう思う人もいれば、視覚・聴覚の喪失がそれに当たる人もいるに違いない。林さんにしても「何もかもすべて」を失ったかと言えば、クリアな思考やSNS等での意思疎通の能力は維持していた。世間には、“健常者”であっても破産やいじめなどで命を絶つ人はいる。「死ぬほどのことではない」「自死を選んで当然だ」――そんな線引きが他者に可能とは思えない。今回のケースで第三者が直視すべきポイントは、林さんの遺した「屈辱的」という言葉ではないか。それを軽減する方策は、果たして自死以外になかったのか。その点こそ突き詰めて考えるべき教訓のように思う。


 今週の週刊文春は、『「安楽死教を作る」ALS“殺人医師”たちの本性』という記事で、大久保容疑者らの人物像に焦点を当て、事件を否定的に捉えている。かたや週刊新潮は、『「スイスで安楽死契約」の日本人女性が激白! 嘱託殺人の被害者が私に吐露した「生き地獄」』というタイトルで、死を願う患者の立場から「安楽死の議論」を呼びかけた。新潮が取り上げた「日本人女性」は、文春記事にも登場する同一人物で、生前の林さんや大久保容疑者らと交流し、自身も海外での安楽死計画を持つ難病患者である。文春は大久保容疑者らを擁護するこの女性の主張もたっぷり聞いたうえで、違う意見、ALS患者の母を持つノンフィクション作家・川口有美子さんの談話も併記している。


 今週の文春・新潮では、三浦春馬さん自死の続報でも差が見られた。文春は三浦さんの死後、その日記を見た知人に話を聞くなどして『三浦春馬「遺書」の核心 「ボクの人間性を否定する出来事が」』という記事で彼の懊悩を多面的に描いたが、新潮は『「三浦春馬」動機は「家族問題」』と題し、自死の背景を家族問題と結論付けている。この記事においても、新潮が論拠とした「5年前の母親との絶縁」は、文春も言及したエピソードで、文春はそれ以外に英国留学中の精神的落ち込みや実父との再会などいくつもの出来事を詳述した。三浦さんを取り巻く複雑な状況を重層的に描いたのだ。徹底取材をした雑誌のほうが表現に慎重で、「薄い取材」しかしていない媒体が、逆に一刀両断の記事を書く。取材態勢に差が開いてしまったのか、最近の両誌には、そんな“ねじれ”が目立つように思う。


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三山喬(みやまたかし) 1961年、神奈川県生まれ。東京大学経済学部卒業。98年まで13年間、朝日新聞記者として東京本社学芸部、社会部などに在籍。ドミニカ移民の訴訟問題を取材したことを機に移民や日系人に興味を持ち、退社してペルーのリマに移住。南米在住のフリージャーナリストとして活躍した。07年に帰国後はテーマを広げて取材・執筆活動を続け、各紙誌に記事を発表している。著書は『ホームレス歌人のいた冬』『さまよえる町・フクシマ爆心地の「こころの声」を追って』(ともに東海教育研究所刊)など。最新刊に沖縄県民の潜在意識を探った『国権と島と涙』(朝日新聞出版)がある。