●祭は止まる、政(まつり)も止まる


 日本人は半ば常識的に学習していると思うが、政治の政の字は「まつりごと」として、祭りから出発しているのだと考えられている。祭礼を司るのが政(まつり)人であり、それは昔の政治家の装束が、現代の神職のようなもので飾られていることからも窺うことができる。


 日本に土着する祭り、とくに夏祭りの多くは「疫病退散」を目的に始められたという起源説が多い。前回に触れた私の故郷の夏祭りも、始まりは「疫病退散」だったと教えられた。夏の終わり頃には「夏越祭」という祭礼もあり、茅の輪をくぐって疫病や災害を払い落とす行事も覚えている。夏越祭は大阪や京都の神社でも行われており、たくさんの人が茅の輪をくぐる。


 こうした日本の伝統である祭りが全国軒並みに中止になっているのは、コロナ禍のなかでは仕方がないにしても、政もその機能を止めている現状は、ほとんど日本人の歴史的・土着文化的習慣に反するものだと思える。国会も開かない、首相が会見もしない、政府幹部の発言が食い違う、こうした政の滞りはかつてないことだと言える。


厚生労働大臣は、PCR検査を受ける基準、例えば37.5度以上の熱が4日間続いたら検査するという方針を、そんな方針を出した覚えはない、どうも誤解されたようだと言った。もうずいぶん前だけど。それでも政は、そのレベルでずっと継続されている。「高い関心を持って注視している」と言い続けているレベルで、国民はそのあとの言葉をもう待たなくなった。「承知している」は、聞き飽きた。


 Go toキャンペーンはどうするのだろうか。私のメールファイルには毎日どっさりと、旅行会社から案内が入る。どうするの、行ってもいいの? 九州に帰って、昔の友人と4人以内で酒盛りしてもいいのか?


 柳田国男は、「日本人の固有信仰は、昔から今に一貫して、他には似たる例を見出さないほど、単純で潔白でまた私のないものだった」と言っている。そのマインドから「まつりごと」が生まれ、政治的な色彩も併せ持つようになったのだと言っているのだろう。大事なことは、日本の祭りの基礎となっている信仰が「利他的」であることだ。「私のないものだった」というところに、祭りが「まつりごと」と一体となった系譜を読み取ることができるのである。


 多額の歳費と賞与をもらって、国民が疫病に苦しむなかで国会論議もしないのが利他的であるはずがない。いつか日本の祭が復活、民が「わっしょい」と声を上げるときがきても、「まつりびと」(政治家)は参加させるな。この疫病の退散を願うことに懸命になれない「まつりびと」など必要はないはずだ。そうやってシュプレヒコールすることくらいしか、私を含めた下層の人間は考えることがない。


 利他的であった日本の「祭礼」の「こころ」模様は、現代日本政治に象徴される「利己」の世界観に変化している過程を踏み、コロナ禍によってそこを表出し、階級社会の確立を明確に明瞭に浮き立たせた。とりあえず、マスクを求めて右往左往し、祭りを取り上げられ、帰郷するのも憚られる層と、「高い関心を持って注視する」ことができる層に分断させられていることが明確になった。そこに気が付いた、それだけでもいいかもしれない。とにかく爪を研いでおく理由くらいはできたのだから。


●医療のパラダイムシフト


 新型コロナウイルス感染は医療のあり方も劇的に変えるかもしれない。単純に言えば、医療機関の経営悪化が、その契機になるかもしれないが、筆者は本質的には医療は経済学的、社会学的に受容されてきた状況から、科学的に人々に受け入れられていく方向に転換するのではないかという予感がする。経済という物差しで受療するのではなく、治療、あるいは効率的で効果的な療養と延命といったものが重視され、それはすなわち医療を科学として認識する態度が普遍化するかもしれないということである。


 新型コロナウイルス感染は、科学哲学者トーマス・クーンが「科学者はパラダイムの下で仕事をする」とし、そのパラダイムが転換するのは「偉大な科学的発見」だと規定したことの流れにあるとみるとわかりやすくなるかもしれない。現在のワクチンも特効薬もないウイルス感染の跋扈は「偉大な科学的発見」ではないが、重大な医科学の転換を促しているように見える。


 むろん、その行き先のなかに、感染症学の新たな展開、発見への期待もあるが、医療が「医行為」という科学に本格的に目覚める契機になるかもしれない。その医科学のパラダイムを転換させるのは医師ではない。患者だ。たぶん、このパンデミックは、そのイメージとはかけ離れて、長く我々を苦しめることになるかもしれない。しかし、ワクチンや特効薬がなくても、人は科学的にこの疾病に対応する、あるいは対応しなければならないと相応のバリューで考え始め、波紋を広げ、それが普遍化していく、ように思う。何が何でも抗生物質という時代を、「昔は瀉血なんて治療法があったんだ」と驚くような、科学的な世間知をもとに驚く時代が1ジェネレーション程度の速度でやってくるだろう。


 その人々に科学的世間知で最も肝要な前提として機能するのは、「人は死ぬ」ということの科学的受容になるだろう。死ぬ、ことは結局、最高の科学的真実だということが普遍化して受け入れられる時代が迫ってくる。その転換の装置として今回の新型コロナウイルス感染が現れたとみてもいい。少なくとも筆者はそうみておきたい。


 経済学的、社会学的議論、研究のなかでの「医療」がその存在感を減衰させれば、自然科学に近い科学としての「医療」しか残らない。人の生死に科学の偽装をした議論が減るだけでもパラダイムは変わる。科学は自由を保障さえしてくれれば、「生きる」「死ぬ」ことを研究する新たな医科学を生み出す。


 そしてその医科学が最も大きく、まるごと転換していくなかで醸成されるべきなのが、「差別」に対する精神の無意識の転換だ。


●「差別」に科学的に切り込む機会


 コロナ禍のなかで、ALS患者の安楽死が2人の医師の幇助で行われた。医学を学んだことを万能感にした医師が少なくないことを、また実感させられた。患者が自らの処し方をあれこれ考えるのは仕方がないし、それはいつでもどこでも誰でも考えていることである。


 筆者は医師の馬鹿げた万能感に基づく言い訳に耳を貸す聞く気はないが、安楽死を求めた患者の心情には一定の科学的アプローチは必要だと考える。生きていることの苦痛はいったい何から生まれているかを考えることが、いま最も大事なのである。


 いろんな要素があるだろうが、その患者が持っていただろう「被差別感の苦痛」は最もアプローチしなければならないテーマだと思う。差別の構造は、「治癒の見込みがない病気になって可哀そう」だという、優越的視点からの同情のようなものが最も根源的で悪質なもので、そこに隠されている「排除」の肯定が最大の障壁だ。「排除」という言葉に対する人々の嫌悪感は、すでに政治の世界で現れた。しかし、それは人々が自己の中に棲む「排除」意識を炙り出されたが故の嫌悪だ。


 次回からは、この「排除」の論理が現代人のこころに棲みついている「病巣」は、近代優性思想によって形成され、こびりついたことを示しながら、この「優性思想に基づく排除の論理」からの脱却が、医科学の次なる最大のパラダイムの転換になるとの期待を述べてみよう。(幸)