毎年、8月になると、先の大戦の慰霊の記念日が続く。6日は広島に原爆が、9日は長崎に原爆が投下され、多くの人々が亡くなった、悲しみの日である。15日は終戦記念日だが、本当は終戦ではなく、敗戦ではないか、という気がするが、敗戦の日というと支障がある人もいたからだろう。敗戦を終戦と言い替えるのも妙だが、国民の間には戦争が終わった、と安堵感が広がったのも事実だろう。


 ところで、終戦記念日の前の12日に日航機墜落事故の慰霊が毎年行われる。1985年8月12日、羽田発伊丹行きの日本航空のジャンボ機が群馬県上野村の御巣鷹山の尾根に墜落。奇跡的に1人の少女が生存していたが、乗客乗員520人が亡くなった大事故である。以来、毎年8月12日に遺族が御巣鷹山に登山し、墜落した夕6時56分に追悼慰霊式を行っている。


 新聞、テレビは前日から大報道する。今年は35年だそうで、「父が亡くなったとき、私は母のお腹の中にいた」と言う人も参加していた。その人は34歳になる。立派な社会人だ。確かに遺族にとっては、息子が、娘が、夫が、母が、父が命を奪われた、という思いがあるだろう。日航はケシカラン、という気持ちもあるだろう。元はと言えば、米ボーイング社の杜撰な修理が原因だったが、怒りの、恨みの矛先が日航に向かったのだろうが、その怒りも、恨みもよくわかる。


 しかし、である。もう事故から35年である。仏教の法事でも33回忌というのがあるが、昨今では13回忌あたりでお仕舞いにしている家も多い。35回目の慰霊式というのは長すぎないだろうか。もう許してやってもいいのではないだろうか。


 今年も日航の赤坂祐二社長が慰霊式に参加していた。「出席するように要求したわけではない」と言うかもしれない。だが、事故を起こした航空会社の立場では、遺族が今年も御巣鷹山で慰霊式を行うと言えば、社長は列席せざるを得ない。遺族の中から「遺族会だけで慰霊を行いますから、日本航空から来なくてもいいですよ」くらい言ってほしいと思うのは私だけだろうか。テレビも新聞も、慰霊式を取り上げるのはもうやめにすべきではなかろうか。広島、長崎の原爆被害とは違う。いつまでも、恒例行事のように大報道するのは、週刊誌記者だった者の目には、他に企画がないから、手軽に大報道できるから、としか見えない。ジャーナリストとして大報道を続ける意味があるのだろうか。


 最近はどうなっているか知らないが、以前、航空会社には「ご遺族担当」という人がいて、その人物は毎日、黒の喪服を着ていた。航空事故でも起これば大変である、真っ先にご遺族の世話を焼くし、社長以下の幹部を案内し、遺族にお詫びに行く。ご遺族がこうしてほしいと言えば、希望に沿ってすべて手配する。命日には要求されなくとも、線香を上げに行く……。彼に責任があるわけでもないのに、遺族のため、会社のために頭を下げ続けているのが仕事なのである。大手のタクシー会社にもこういう専門の人がいた。


 実は、こういう話を書くのには苦い経験があるからだ。1972年に、日航機モスクワ墜落事故があった。コペンハーゲン発モスクワ経由羽田行きのJAL446便で、モスクワのシュレメーチェヴォ空港を離陸直後に墜落。乗客乗員62人が死亡したという事故である。死亡者の中に同窓生がいた。彼女は大学卒業後、渡米し、向こうの大学で学んだ後、図書館司書の資格を取り、帰国する前にヨーロッパに立ち寄った後、当該の日航機に搭乗し、事故に遭遇、帰らぬ人になったという。


 それから10年ほど後、週刊誌記者時代に、一通の内部告発の手紙を受け取った。告発者が誰だかわからないが、ともかく、下調べを行ったら告発の中身は事実だった。内容は、モスクワ事故の遺族の1人、H氏が「葬式代も補償金も一切いらない。代わりに日本航空はモスクワ墜落事故を記憶し、二度と事故を起こさないために『緑の安全バッチ』をつくり、社員全員が常に左胸に付ける」ことを要求したのだ。事実、H氏は補償金等、一切受け取らなかった。日航は安全バッチを付けろという要求には抵抗感があったらしいが、なんと言ってもご遺族の要求を断るわけにはいかないし、二度と事故を起こさないため、と言われては反対なぞできない。「わかりました」とH氏の要求を受け入れた。


 H氏は同級生の父親であった。同級生の家は家柄もよく、裕福な家庭なのだろう。彼女は名門の女子高を卒業した人で、活発な人だった。いつも仲のいい同級生と一緒だったので、クラスメートが「四人娘」などとからかっていた。父親のH氏はどういう仕事をしている人か知らないが、数寄屋橋の立派なビルに事務所を構え、新聞の首相動静欄にたびたび「H氏、来訪」と書かれていた。当時の田中角栄首相とは昵懇だったらしい。日航が安全バッチの着用義務化に「わかりました」と応じたのは、そんな事情があるかもしれない。


 ところが、問題はその後である。H氏は毎日のように日航を訪れ、社員が安全バッチを着用しているかどうか、見て回ったのだ。万一、安全バッチを付けていなかった社員、付け忘れた社員を見つけると、その場で怒鳴りつけるだけでなく、社長室に乗り込み、「安全バッチを付けていない社員がいる」と怒鳴り込むのだ。しかも、そのうちに日航社内で密かに安全バッチを付けているかどうかを見張るグループが生まれ、付けていない社員を見つけると、仕事中にもかかわらず、即座にH氏の事務所に駆けつけて通報するようになったという。


 実際、下調べで、H氏の事務所があるフロアでウロウロしていると、スーツの左胸に緑の安全バッチを付けた2~3人の人物がエレベーターを降りると、素早くH氏の事務所に入っていくのを二度も目撃できた。通報を受けたH氏は即座に日航本社に行き、当該社員を面罵するようになった。もはや、日航社内に「秘密警察」が誕生したような塩梅で、社員同士が疑心暗鬼になってしまったのである。手紙はこんな日航社内を案じた内容だった。


 早速、H氏に取材し、「行き過ぎではないか」と指摘した。むろん、H氏は激怒した。「たとえ、背広を着替えたときでも、安全を意識していたらバッチを付け替える。バッチをしないのは安全を意識していないからだ」と主張し、立ち上がって「娘の同級生だというから快く会ったのに何を言うのだ」と怒り出した。だが、怒られたからといって引き下がるわけにはいかない。引き下がりでもしたら編集部内で「あいつは取材もできない奴だ」と烙印を押されてしまう。しかし、不思議なことに相手が激口すると、妙に落ち着くものだ。「バッチを付けているから安全が保てるというものでもないでしょう。社内でお互いに疑心暗鬼になって仲間を信頼できないような状況こそ問題です。安全を保つにはバッチではなく、常に心掛けることであって、要は心の問題でしょう」と反論したが、そのとき、H氏の手が震えていたのが妙に記憶に残った。


 編集部内で、後に編集長になった副部長と執筆するデスクに内容をすべて報告すると、30分ほど雑談した後、副部長は「こっちの企画に変えよう」と企画替えを指示した。たとえ、同級生の父親であっても、正しいと確信するものを記事にしてほしいと思ったが、一方でホッとしたのも事実だ。日航の安全バッチの記事はボツになったが、その後、緑の安全バッチ問題の話を聞くことはなかった。H氏も行き過ぎたバッチ着用の強要をやめたのかもしれない。


 日航機御巣鷹山墜落事故では坂本九氏も犠牲者だった。テレビでは九ちゃんの夫人、柏木由紀子さんにインタビューしていたが、テレビ記者が御巣鷹山に行くかどうか聞くと、柏木さんは「そこに行っても、もう主人はいないでしょう。事故のとき、一生分の涙を流しました」と答えていた。テレビ記者はがっかりしたかもしれないが、大人の受け答えをしていた柏木さんに感心した。


 事故から35年である。日航社員には事故を知らない人もいるだろう。現在の社長だって35年前は課長にもなっていなかったのではなかろうか。日航の幹部を御巣鷹に出席させるような慰霊式は、35年経っても日航社員の心に重しを付けるようなことになりはしないだろうか。マスコミの報道が行き過ぎのせいかもしれないが、遺族、関係者が静かに故人を偲ぶ慰霊式であってほしいと願うのは間違いだろうか。(常)