「75年」の節目を意味する表現に「三四半世紀」という言葉があることを、恥ずかしながら最近まで知らずにいた。今年の8月は、太平洋戦争終結から「三四半世紀」の夏。よりスッキリした節目「半世紀」のタイミングで各メディアが戦争を回顧した25年前を振り返ると、質も量も著しく“先細り”してしまったが、終戦時15歳だった少年も今や90歳、戦争報道もそろそろ限界に近付いているのだろう。とは言っても、ネット上の「戦争ネタ」書き込みでは、戦後世代の無知・不勉強・歴史改竄が、目を覆わんばかりに悪化する一方だ。その意味では、たとえ新味のない“風物詩的報道”でも、古い番組の焼き直しでも、放映する価値はむしろ高まる傾向にある。


 とくにNHKはこのジャンルで、最近でも見応えのある番組を作っている。今年も原爆投下やアウシュビッツ、戦後補償などをめぐる力作を揃えたが、個人的に最も興味深かったのは『渡辺恒雄 戦争と政治~戦後日本の自画像』というドキュメンタリーだった。93歳にして日本一の巨大新聞社・読売新聞グループに君臨し続けるナベツネこと渡辺会長に、政治記者・新聞社幹部としてどっぷり関わって戦後政治の流れを語らせたロングインタビューである。


 政界をフィクサーのように遊泳し、歴代自民党政権の最深部を熟知する渡辺氏が、戦後史の貴重な証言者であることに異論はない。ただ正直、新聞人としての氏については、「功」よりもはるかに「罪」の大きさを感じる。1000人~2000人規模の記者たちが一糸乱れぬ“社論通り”の記事を書き、共産圏のメディアかと思うほどのっぺりと“顔が見えない”紙面作りをする。渡辺氏のトップ就任以後、こうした「上意下達メディア」に変貌した読売新聞に、私は違和感を禁じ得ないのだ。氏は、異論を持つ同僚・部下を徹底排除して、イエスマンの王国を築き上げた。「自由な言論」を旗印とする新聞社で、あるまじきことだと私には思える。新聞人としてのナベツネ氏は、そうした権力欲・支配欲のモンスターに映るのだ。


 ところが、今回のインタビューを見ると、渡辺氏の価値観の根っこには青年期からの反軍、反独裁への強固な思いがあり、自由主義的な首相、吉田茂や池田隼人らに共感した。その後、タカ派の中曾根康弘氏に対しても、首相就任にあたってその右派思想を彼自身が修正させたという。先の戦争への反省、という部分は読売新聞の報道でも力を入れ、今世紀に入っても、渡辺氏自ら旗を振り、長期連載を紙面化したことがある。この分野の報道はまだ足りない、とも語っていた。


 番組では歴史研究家・保阪正康氏のコメントを引く形で、過去の戦後政治史では保守・右派とされた人々にも左派・革新層と大差ない戦争体験の記憶があり、その体験の共有で両者の議論が成り立っていた、と指摘されている。しかし、最近は戦中派世代の退場によってこの「土俵」が失われ、いよいよ対話が困難な時代に突入した、というのである。


 今週のサンデー毎日では、その保阪氏が連載『「世代」の昭和史』で、「戦争要員」として最も多くの犠牲者を生んだ大正10~13年生まれの人々に言及し、遠藤周作、鶴見俊輔、古山高麗雄、水木しげるら各氏の作品に、この世代ならではの深い「人間観」「世界観」が見て取れると論じている。例えば、陸軍幼年学校~陸士という軍人のエリートコースを歩んだ作家・村上兵衛氏は、元軍人でありながら昭和天皇の退位論を発表し、この世代ならではの思いを作品化した。渡辺恒雄氏も彼らに近い大正15年の生まれだ。


 戦場に多くの友人を失い、自らも死と直面した戦中派世代。私たち戦後生まれの人間は、この世代の人々が体験から掘り下げたさまざまな思索の断片に、いったいどれほど触れてきただろう。現政府の指導層を見る限り、この「継承」は失敗に終わったように見える。人間観、社会観、歴史観において、両世代には絶望的な「隔たり」が見て取れる。本来、先行世代の体験は学ぶ気になれば学べる。だが、多くの戦後世代はそれをしなかった。米国の大統領にも似た印象を抱くのだが、読書や教養を軽んじて生きてきた国家指導者に、だからこそ私は信を置けないのだ。


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三山喬(みやまたかし) 1961年、神奈川県生まれ。東京大学経済学部卒業。98年まで13年間、朝日新聞記者として東京本社学芸部、社会部などに在籍。ドミニカ移民の訴訟問題を取材したことを機に移民や日系人に興味を持ち、退社してペルーのリマに移住。南米在住のフリージャーナリストとして活躍した。07年に帰国後はテーマを広げて取材・執筆活動を続け、各紙誌に記事を発表している。著書は『ホームレス歌人のいた冬』『さまよえる町・フクシマ爆心地の「こころの声」を追って』(ともに東海教育研究所刊)など。最新刊に沖縄県民の潜在意識を探った『国権と島と涙』(朝日新聞出版)がある。