●生死を考える新たな医科学を


 前回、筆者は「医行為」が「科学」として再出発する期待を述べた。その到着点のひとつとして、人々に科学的世間知で最も肝要な前提として機能するのは、「人は死ぬ」ということの科学的受容になるのではないかということだ。人は死ぬことが、最高の科学的真実だということが普遍化して受け入れられる時代。その転換の装置として今回の新型コロナウイルス感染が現れたとみてもいい。少なくとも筆者はそうみておきたい。


 経済学的、社会学的議論、研究のなかでの「医療」がその存在感を減衰させれば、自然科学に近い科学としての「医療」しか残らない。人の生死に「科学的な」偽装をした議論が減るだけでもパラダイムは変わる。科学は自由を保障さえしてくれれば、「生きる」「死ぬ」ことを研究する新たな医科学を生み出す。


 あらためて「人は死ぬ」ということを科学的に考えるということはどういうことなのか。ここでは2つの視点で考えていくことにしたい。ひとつは、「人は死ぬ」ということの科学的アプローチは、「差別」の構造を根底から消していけるかどうかということである。そして、もうひとつの視点は「人は死ぬ」科学は、哲学的な問いかけ、人の哲学的、霊的な側面、スピリチュアリティティーも包含するということである。


 筆者はこの2点を「医科学」「医療科学」の根底に置きながら考えていくことで、医師の多数に常識感覚、当たり前感覚で存在している「医師であることの万能感」の存在を否定していくことができるのではないかと思う。「人は死ぬ」ことを考えるときは医師としての職能は無関係である。医師の万能感とは、「人は死ぬ」、そこも医師という職能の専門分野であるという「勘違い」を指す。尊厳死、平穏死、そこから地続きになりそうな安楽死まで、それらは医師だけの領分ではない。医師も含めて私たち人間の領分である。死に近い現場にいるからという理由で、そこに踏み込むことを誰が許したというのだろうか。あくまで医師は「治療に最善を尽くす」「身体的、精神的苦痛を取り除く職業者」でしかない。


 ALS患者の安楽死自殺を幇助した医師は、患者の「身体的、精神的苦痛」を不可逆だと判断したかもしれない。しかし、精神的苦痛は科学として不可逆なのか。その疑問を差し挟まない人間は科学者ではないし、医師だから医科学者だからそう判定することができたとでも言うのだろうか。


●医師とバスの運転手


 医師の万能感の根源にあるのは、「差別」であろう。それは、一定の優秀な能力をもってしか医師にはなれないという社会的評価と自己評価が一致しているということがあるかもしれない。たぶん、そういう一致性は、職業的には医師にしかないのかもしれない。でも、パイロットはどうだろうか。英語は必須言語だし、むろん科学的知識がなければそもそも飛行機など操れないだろうし、医師と同様にハードルの高い職業であることに変わりはない。しかし、パイロットは「訓練」の重要性が大きなウエイトを占めるように思う。機械に習熟すれば、安全に対する習熟度も増すというシンプルな過程も想像できる。


 その昔、渡辺美智雄が厚生大臣になって、日本医師会の武見太郎とケンカになった。渡辺は武見に面会して「医師会は国民の命を預かっている」と、医師会の存在意義をアピールした。渡辺は会見後、厚生省(当時)の記者クラブに戻ってその話をぶちまけ、「バスの運転手だって人の命を預かっている」と喋り、それはメディアによって伝えられ、以後、武見は渡辺を「無学の徒輩」と呼んで両者はことあるごとに対立した。


 こうしたエピソードにも、どこか医師が優越的な意識で人々を眺め渡している風景を感じることができる。だが、安楽死事件に見られるような差別の構造は、医師の優越的な自己評価が大きなウエイトを占めているわけではない。患者側に見られる「生きていたくない」感情には、被差別意識がかなり強く感じられるからだ。「人に迷惑をかける」「サポートされたくない」は苦痛とない交ぜになって患者を苦しめてきたことは想像するまでもないことであり、それは患者が生きていたこの世界に充満し、そして絶えることのない「差別」の構造に由来する。そこを後押しする「医師の万能感」に、筆者は不快な匂いを嗅ぐのだ。


●優生思想がもたらしたもの


 充満する差別の構造は、医科学の進歩が社会経済的な差別、人種や性、宗教という医学が未分化の時代からあった差別の構図をより強化し、鮮明化させる役割を果たしてきたことはハッキリしている。それは、差別に対する嫌悪感情、理性的な差別撤廃論理の拡大と同時にさらに拡大しているという厄介な問題も助長している。分子生物学の進歩に関する勘違いは、その最たるもので、人は生まれる前から、受胎する以前から平然と差別されるようになった。遺伝子によってもたらされる疾病リスクファクターは、「発症しない」可能性すら否定し始めている。


 差別は「生物学が科学的根拠を与えた」という錯覚によって、構造を確立した。遺伝という概念が、メンデルの関心・研究から生まれ、ダーウィンの「種の起源」と交差し、それが優生学的根拠となってさまざまな人種的差別、民族主義、それに伴う悲惨な歴史を構築し、さらにその研究の進化がさまざまな疾患の特定と治療法開発、あるいは開発への期待へと進んできた一方で、新たな「優生学」を生んだ。これは、100年前くらいの話だ。当時、専門家しか輪郭を知らなかった「遺伝子」を、今は世界中で、誰もが常識として共有している。


 メンデルの研究を世に出したひとり、英国の生物学者ウィリアム・ベイトソンは、遺伝学「Genetics」という言葉を1905年に生み出した人物だが、彼は同時に「人類が遺伝に干渉し始める」ことを明確に予言した。ここから優生思想が萌芽した。彼は、「遺伝の科学はまもなく、とてつもない規模の力を人類に与えるだろう。そしてどこかの国では、それほど遠くない未来のどこかの時点で、その力が国家の構成を操作するために使われることだろう。その国にとって、あるいは人類全体にとって、そうした操作が最終的に善となるか悪となるかはまた別の問題である」と語っている。明確に、不快感を持って、ベイトソンはその後の歴史を予感しているのである。


●チャーチルはなぜ批判されたか


 ベイトソンのように、こうした生物学の進歩を「リスク」として捉え、危惧した人は実は少数派だ。この頃、ダーウィンの従弟のフランシス・ゴールトンは、ダーウィンの遺伝学的論理の未熟さを突くかたちで、すでに「優生学」を唱え始めている。1904年にゴールトンは、H・G・ウェルズなどの文学者や言語学者も参加した講演会で、「優生学を新しい宗教のように、国家的意識に導入しなければならない」と主張したとされる。


 遺伝情報に関してベイトソンは、ゴールトンの主張した「ヒトの表現型」(身体的・精神的な形質)を指標に使うべきではなく、実際の情報は遺伝子の組み合わせ(遺伝型)が表現型を決定していることを説いた。そして優生学者が、この遺伝子操作を学んだなら未来を操作できるようになると警告した。


 それでも優生学は欧米で燎原の火のように広がっていった。ゴールトンの死から1年後の1912年7月に第1回優生学会議が、ロンドンで開かれた。そこではドイツ人たちが熱心に「民族衛生」の名のもとに「民族浄化」を論じ、米国の論者は遺伝的不適格者に対する「断種」を生き生きと語ったとされる。この会議には第2次大戦時の英国首相、ウィンストン・チャーチルも参加したと伝えられる。


 米国で白人警官による黒人への暴行死がきっかけとなったBML運動で、英国ではチャーチル元首相を差別主義者として弾劾する動きもあった。ホロコーストを行ったナチと戦ったチャーチルが、なぜ批判の対象となったのかを伝えない日本のメディアは、本質的に差別問題に鈍感である。安楽死問題に差別構造が潜むことを、繰り返し論じてもたぶん理解はされない。


 優生学的な差別構造は、日本では戦後も長く温存されてきた。旧優生保護法は1948年に成立し、96年まで生きていた。ヘラ・ラフルスらによると、優生思想には消極的優生思想と積極的優生思想があり、前者は何らかの障害等がある者の子孫を残さなくする考え方であり、後者は強者が子孫をたくさん残すようにする考えだ。


 日本の旧優生保護法は、消極的優生思想を体現したものだが、とくに20世紀初頭から米国で台頭した「断種法」の影響が強い。ラフルスの優生学年表では48年の日本の優生保護法成立はトピックスとして記述されている。日本でも優生思想受容の恥ずべき歴史があったことの刻印は消えることはない。


 こうした構造化した差別思想が、医師の「本質的な科学」に対する無理解と相乗したとき、どうなるのか。次回はそこを考えてみたい。(幸)