厚生労働省が「保健所等の業務負担軽減及び情報共有・把握の迅速化を図る」ために開発・導入した「新型コロナ感染者情報把握・管理支援システム(HER-SYS)」が計画どおりに運用されておらず、集計機能が使えないなどの問題が先日明らかになった。オンライン授業体制も学校によって格差が大きいという。


 日本は本当に技術先進国なのか。新型コロナウイルス感染症(COVID-19)対応の過程で自信が揺らぐ中で、今年6月、理化学研究所と富士通が開発したスパコン「富岳」が8年半ぶりに計算速度世界一を奪還したことは、久々のグッドニュースだった。そうした国民の雰囲気を察してか、「新型コロナウイルス感染症対策専門家会議」が突如解散された後、山中伸弥氏等をメンバーに立ち上げられた有識者会議では早々に、COVID-19対策への「富岳」利用が掲げられた。


■アベノマスクは合格?


「富岳」を用いた研究開発分野は、「新型コロナウイルス表面のタンパク質動的構造予測」「新型コロナウイルス関連タンパク質に対するフラグメント分子軌道計算」等の基礎研究、「治療薬候補同定」から「パンデミック現象および対策のシミュレーション解析」「室内環境におけるウイルス飛沫感染の予測とその対策」まで幅広い。


 特に「ウイルス飛沫感染の予測」研究では、病室・オフィス・学校での換気方法と効果、多目的ホールでの飛沫・エアロゾル拡散、材質の異なるマスク装着時の飛沫抑制効果の違いなどが可視化され、身近な研究成果として報道されてきた。また、「マスクによる被感染防御効果」研究では、ヒトの上気道をモデル化し、鼻と口で深呼吸時にどの程度の飛沫が上気道に取り込まれるかも評価されている。


 マスク着用は、1918(大正7)~1921(大正10)年の「インフルエンザ・パンデミー」時も推奨された。当時の内務省衛生局は、国内外の流行状況と予防措置、道府県(東京は府だった)における施策や公益団体の活動、流行性感冒の病原・病理・症候・治療・予防や国内統計など広範な知見を、1921年内にはつぶさにまとめ、翌年3月に『流行性感冒』を発行した。


 この資料は、国立保健医療科学院の「貴重統計資料」としてスキャンデータが公開されているほか、『流行性感冒―「スペイン風邪」大流行の記録』(平凡社・東洋文庫778、2008)として蘇り、入手可能である。長らく幻の書だったが、西村秀一氏(国立病院機構仙台医療センター臨床研究部ウイルスセンター長)が2004年に古書店で入手し、復刻にこぎつけたという。


 流行当時は病原体さえ不明であったが、『流行性感冒』でマスクの効果を述べた部分を読むと、LancetやJAMAの論文から予防効果が期待できる繊維数を調べ、独自の実験も行って予防に適した材質と枚数を割り出したことがわかる。


 具体的には、容量約1Lのブリキ筒内に平板培養基を入れて上を布で覆い、さらに漏斗をかぶせる。筒の下方にはゴム管とポンプを取り付ける。緑膿桿菌5白金耳を生理食塩水200ccに溶かした菌液0.5ccを、漏斗を介してスプレーし、下からポンプで500cc×20回吸引する。10分放置後、24時間孵卵器に入れ発育した菌数を数える、というもの。その結果の推奨が下表である。



 改めて手元にあるアベノマスクを眺めると、袋折りしたガーゼが五重になっているので、このときの基準に照らせば「病者のみ着用の場合」も合格ではある。それはさておき、現在、漠然とマスクをしている私たちに比べると、しっかりと着ける意義を考えている印象を受ける。


■日本では警察署が防疫と統計に貢献


 100年前の大流行は第一次世界大戦の時期とも重なった。『流行性感冒』では「其の源を何処に発せしや全く不明にて、且つ其の伝播の経路も不明に属す」としつつも、1918年5月以降にスペイン、スイス、オランダ、ブラジル、インド…と全世界に拡がっていった経過や各国の予防措置が記録されている。


 例えば、ロサンゼルス市の防疫と流行状況を手書きしたグラフからは、感染者の増加から少し遅れて死亡者が増える傾向が伺える。



 国内の感染状況はグラフ化されていないが、ほぼ間断なく3年間流行を繰り返し、累計患者は23,804,673人、死亡者は388,727人にのぼった。当時、衛生局と同じ内務省に置かれていた警察署が防疫活動を行った。さらに、駐在所の巡査が所轄地域の流行状況を警察本部に電話・電報連絡するなど、「積極的サーベイランス」も担ったという。


 第2回の流行では患者数が大幅に減った一方、致命率は上昇した。その解釈として、「残っていた第1回の病毒が、気候の変化で多くの者が呼吸器を侵される時期に至って再び台頭した」、また「感染者の多くは第1回に罹患を免れた者で、比較的重症だった」「第1回に続き第2回にも感染した者は大体軽症だった」「概して第1回に激しい流行がなかった地域で流行った」といった意味の記述がある。



 また、同書の付表として、道府県別・月別の患者と死亡者(絶対数と単位人口当たり)、性別・年齢階級別・職業別の患者・死亡者数だけでなく、流行と同時期の死因(大分類)別死亡や呼吸器系疾患による死亡なども掲載されるなど、超過死亡や関連疾患への目配りもあった。


 熱心な啓発活動も行われ、お堅い調査・統計資料と所轄が同じとは思えない、インパクトの強いポスターやシンプルな標語が作成された。



「予防注射で宿のなくなる風乃神」とあるように、細菌を材料とする多種類の「ワクチン」もつくられた。当時はドイツのRichard Pfeifferと北里柴三郎が別々に純粋培養に成功した「インフルエンザ菌」も有力な病原体候補とされたため、成分として同菌や肺炎球菌、溶連菌などが用いられた。結果的に重症化予防に役立ったとの統計もあり、細菌による二次感染には一部有効だったのかもしれない。


■著者は謎、でも感じる気概


 細部まで読めば読むほど興味深い『流行性感冒』だが、著者は不明である。ただ、「内務省衛生局」名の前書きは、「全世界を風靡した流行性感冒」は「疫学上稀に見る惨状を呈した」に始まり、毎回の流行に対して、常に「学術上の知見と防疫上の経験に鑑み最善の施策を行い」「予防に努め」「防疫官を海外に派遣して欧米における予防施策の実際を視察させ」「専任の職員を置いて予防方法を調査させ」「学者や実地家の意見を聞く」など、遺漏のないことを期したという。


 さらに、この病気の予防方法については今後の学術研究を待つ必要があるが、「今回の流行で行った施策が今後の参考資料となり得ると信じて」資料を作成したと締めくくっており、少し耳が痛い。


 COVID-19は病原体がわかっている。海外視察に行けなくても、情報収集・交換できる手段もある。しかし、世界を見回すと、一世紀前と同じ基本的な予防手段を実践できない人たちがいる。施策の検討・決定過程の詳細が開示されないという問題もある。


 後世から見て的外れな部分があったとしても、現在可能な限りの方法で取り組み、きちんと記録に残せば、必ず役に立つ日が来るはずだ。


【リンク】いずれも2020年8月30日アクセス

◎理化学研究所計算科学研究センター「新型コロナウイルス対策を目的とした研究を「富岳」上で実施します」

https://www.r-ccs.riken.jp/library/topics/fugaku-coronavirus.html


◎理化学研究所計算科学研究センター「室内環境におけるウイルス飛沫感染の予測とその対策(2020年8月24日記者勉強会資料)」

https://www.r-ccs.riken.jp/wp-content/uploads/2020/08/20200824tsubokura.pdf


◎国立保健科学医療院・貴重統計書No.73内務省衛生局著「流行性感冒(1922.3)」

https://www.niph.go.jp/toshokan/koten/Statistics/10008882.html


[2020年8月30日現在の情報に基づき作成]


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本島玲子(もとじまれいこ)

「自分の常識は他人の非常識(かもしれない)」を肝に銘じ、ムズカシイ専門分野の内容を整理して伝えることを旨とする。

医学・医療ライター、編集者。薬剤師、管理栄養士、臨床検査技師。