(1)トルストイの弟子 


 布施辰治(1880~1953)は、大正から昭和の戦後にかけて活躍した弁護士である。貧しい人々、虐げられている人々の味方として、労農運動、廃娼運動、小作救済、水平社運動、普選運動、朝鮮独立運動、政治弾圧被害者救済などに関わり、権力者側からは「極左弁護士」と呼ばれた。そのため、弁護士資格はく奪やら、治安維持法違反で実刑を受けた。戦後も、三鷹事件などに関わった。


 本人の思想・心情は、「トルストイの弟子」を自認していた。当時の極左は、アナ・ボルである。アナーキーとボルシェビキである。布施辰治は、アナでもボルでもなく「トルストイの弟子」であった。


 トルストイ(1828~1910)はロシアの小説家・思想家である。代表作は『戦争と平和』『アンナ・カレーニナ』『イワンの馬鹿』『人生論』『復活』などである。現代にあっては、さほどでもないが、明治・大正期の日本では、トルストイの影響は非常に大きなものがあった。森鴎外、幸田露伴、徳富蘇峰、島崎藤村、幸徳秋水、堺利彦、与謝野晶子、賀川豊彦、島村抱月、武者小路実篤、有島武郎、宮沢賢治らは大きな影響を受けた。


 トルストイの思想とは、専制政治に反対するため無政府主義的思考への傾斜、非暴力平和主義、不服従の抵抗、貧困層への共感と救済活動、金儲け・搾取への嫌悪から私有財産の否定、「金銭によってなされる事業に正しきものなし」、原始キリスト教的な道徳観、贅沢な生活を恥とする……ということだろう。


 どうでもいいことだが、誰が言い出したのか知らないが、「世界3大悪妻」とは、ソクラテスの妻、モーツァルトの妻、そしてトルストイの妻となっている。トルストイの妻に関して言えば、あまり金銭を儲けることに罪悪感を抱くトルストイに対して、現実問題として十数人の子育てをしなければならない妻にとっては金銭が必要だ。その対立のようだ。


 布施辰治と妻も不仲だったが、これも同じようなことらしい。布施辰治は「貧困者相手に金にならない仕事」ばかり引き受ける、それでは家計・生活が成り立たない。妻は、「金になる仕事」「資産の運用」に知恵を使う。それが、布施辰治にしてみれば、スッキリしない。実際、妻の金銭的知恵がなければ、布施辰治の社会活動は成り立たなかったのではなかろうか。


(2)右往左往の若者


 宮城県の牡鹿郡蛇田(へびた)村(現石巻市)の農家に生まれた。水飲み百姓でも豪農でもなく、ごくごく平均的な農家であった。父親が変わり者で、30歳頃までは、働き者であったが、親が亡くなり家長になるや、ガラリと変わり、百姓の仕事をせず、酒と読書の生活になってしまった。どうやら、「東京へ出て福沢諭吉のように、政治と人生の哲学を研究したい」という夢想があったようだ。だが、家長であるからできない。


 布施辰治の幼少期は、母が外で百姓仕事、父は家で酒と読書と子守である。父は幼少の辰治相手に、社会問題、哲学を語って聞かせた。辰治少年は記憶力が並み以上だった。村に安倍医院が開業し、安倍は村の若者に自然科学やキリスト教を話した。辰治少年は、その話にとても感動したようだ。村の青年たちは、明治国家の富国強兵スローガンに吸い込まれていったが、辰治少年は、父と安倍の話から、そうはならなかった。


 1899年(明治32年)、20歳、東京に出た。大目的は「哲学の勉強」であった。新聞配達をしながら、ロシア正教のニコライ堂などあちこちの教会へ出かけたり、東京専門学校(早稲田大学の前身)法科に入学するも1ヵ月でやめたり、ニコライ堂の神学校の生徒になろうとしたり……上京して半年、右往左往であった。そして、明治法律学校(明治大学の前身)へ入学し、「法律という実力」を養った。それと、猛烈に「哲学の研究」をした。


 1902年(明治35年)、明治法律学校を卒業し、その年、判事検事登用試験に合格し、宇都宮地方裁判所の検事代理となる。しかし、それは、基本的に権力者の下部である。辰治は水戸黄門になろうとして、不起訴処分を連発した。そして、「気の毒」を絵に描いたような事件に遭遇した。母親が幼児3人と無理心中を図ったが、思い直して自首した。辰治は上役から、「母親を殺人未遂で起訴せよ」との命令が下り、辰治は辞職した。


 辞職しても、いつでも弁護士になれる。しかし、当時の弁護士は「三百代言」と罵られることも多く、現代のように見栄えのよいものではなかった。そこで、『平民新聞』の編集者になろうかな、外交官になろうかな、そうこうしていたら、やむなく弁護士を開業せざるを得ない出来事(説明省略)が発生した。しかし、半年で弁護士事務所は借金を残して解散した。この逆境を乗り切るためか、孫文の革命運動にのめり込み、さらには大酒を飲んで血を吐く病人状態。とんでもなく「格好悪い」布施辰治であった。


(3)一流弁護士になった


 この格好悪い布施辰治に対して、「捨てる神あれば拾う神あり」で、平沢光子は、「この青年は一流弁護士になる」と見込んだ。1905年(明治38年)、光子は資金を借り、東京・四谷に事務所兼住宅を借り、結婚した。光子は才覚があった。金になる仕事をどんどん持ってきた。しかも、辰治の気性を知っていたので、非道な仕事は請け負わない方針を周囲に公言していた。


 それと、貧困者からは実費しか取らない、しかも、貧困者に対して誠実・親切ということで少しは評判になった。当時の司法界は権力的・命令的な雰囲気であったが、少人数ながら儒教的仁愛の持ち主もいた。そうした人からも、さほど儲かりはしないが、安定的に仕事が来るようになった。


 それやこれやで、弁護士生活が軌道に乗り、1911年(明治44年)には、四谷の事務所兼住宅は洋風に新築された。


 辰治の気持ちは、立派な洋風事務所=贅沢。建築費(借金)返済のため弁護士活動をする(お金のために活動)ことに抵抗を感じた。


 光子の気持ちは、立派な洋風事務所=一流弁護士。一流弁護士には自然に儲かる仕事も来る、というものであったろう。単なる虚栄心ではなかったと思う。


 2人の間に若干の隙間はあったが、まぁ、第三者が見れば、「割れ鍋に綴じ蓋」ということか……。でも、辰治自身は、2人の隙間をかなり深刻に悩んでいた。でも、子供が次々に生まれているから、やはり「割れ鍋に綴じ蓋」じゃないかな。


 1915年(大正4年)4月に「鈴ヶ森おはる殺し事件」発生。1918年(大正7年)3月、裁判最終決着。この事件で、犯人とされていた被告の無罪を勝ち取ったとして、布施辰治は一挙に有名になった。仕事は、どんどん増えて、1日平均4回も法廷に立つほど忙しくなった。


 布施辰治は一流弁護士になった。光子の目に狂いはなかった。


(4)社会運動に積極的に関わる


 妻光子の存在で一流弁護士の道を歩んだが、一方では、トルストイを学びながら、社会運動へも積極的に関わった。反体制の社会主義者が逮捕された場合、これを司法の場で弁護する役を買って出た。幸徳秋水事件(1910~1911)では、菅野スガの弁護人を希望したが、筆頭弁護士から、やんわり断られた。正義感のあまり何を言い出すかわからない未熟さを感じ取ったのだろう。それでも大関心をもって傍聴した。


 そして、辰治は各種の社会運動に積極的に関わっていく。


 1917年(大正6年)、独自の普通選挙運動を展開する。普選への情熱を語る独演会(個人演説会)を各地で開催したり、パンフレットを数万枚作成した。


 1918年(大正7年)8月3日、富山県に高米価反対、米よこせデモが発生し、またたく間に全国に広がり、9月17日までに参加者が1000万人を超えた。世に「米騒動」と呼ばれた。そして、7831人が起訴された。辰治は、各地で弁護活動を行った。


 さらに、荒畑寒村(1887~1981)の新聞紙法違反では数十人の弁護士が言論弾圧に抗議の弁護を展開したが、辰治も熱弁をふるった。言論弾圧事件では、他にも大杉栄(1885~1923)などの弁護をした。


 言論に関して言えば、1920年(大正9年)、布施辰治は個人雑誌『法廷より社会へ』を創刊した。トルストイの考え方、例えば、金銭欲から離れた誠実な人格者が多数輩出されないと社会改革はうまく行かない、そんな主張が掲載された。


 むろん、全国各地で発生した多くの労働争議にも関わった。戦前の最大ストライキとは、1921年(大正10年)の川崎・三菱造船所争議である。労働側はキリスト教社会主義者・賀川豊彦(1880~1960)が最高顧問として工場管理を実行するが、経営側は国家権力と一体となって、警官の抜刀どころか憲兵隊(陸軍)まで出動させた。その結果、この大争議は労働側の「惨敗宣言」で終息した。ただし、多くの弁護士が大争議支援に参加し、自由法曹団の実質的創立(初活動)となった。むろん、辰治も先頭に立って活動した。


 1922年(大正11年)3月、全国水平社が創立された。水平社運動は国家権力側にとって弾圧対象団体であった。布施辰治は水平社関連の事件の弁護人として、頻繁に法廷に立つようになった。1925年(大正14年)、群馬県世良田村(現太田市)で、世良田村事件が起きた。小学校教師が部落の児童へ差別対応をした。水平社は抗議した。しかし、周辺村人は「差別は当然」「部落民の増長」ととらえ、計画的に部落を襲撃した。寺の鐘が襲撃合図で、120名の部落民に対する暴行と家・家財焼き捨てが3時間にわたって実行された。そして、無抵抗で暴行された被害者の部落民も起訴された。布施辰治は、現場を見て、この差別暴力事件を深く心に刻んだ。布施辰治の墓石に、自作の句が刻まれている。「生くべくんば民衆とともに 死すべくんば民衆のために」は、世良田村事件を念頭に思って詠んだ句という。


 1922年(大正11年)4月、日本農民組合が結成された。布施辰治は、小作料減免、耕地取り上げ反対に関係する多くの裁判に関わるようになった。


 同年10月、布施辰治は、「借家人同盟」を立ち上げた。大都市の地主・家主の所有権乱用は誰の目にも「問題あり」だった。それで、1921年(大正10年)に借地法・借家法が制定された。辰治は、この法が100点満点と思っていなかったが、画期的な社会政策立法であるとして、この法律の普及のため講演会を精力的に開催した。


(5)朝鮮人の友として


 布施辰治は、かなり若い時期から、朝鮮人・台湾人に親しみを抱いていた。基本的に「いじめる人」ではなく、「いじめられる人」に愛着を持つ人なのである。


 1919年(大正8年)3月1日、朝鮮全土で独立運動の超巨大デモが発生した。「3・1独立運動」「独立万歳運動」と呼ばれる。


「3・1」の約1ヵ月前、ウイルソン米大統領の民族自決主義、一民族一国家に感激した在日朝鮮人学生多数が東京神田駿河台のYMCA会館に集まり、「独立宣言書」を採択した。その結果、約60名が検挙され、9名が起訴された。辰治は無報酬で弁護団に加わった。


「3・1独立運動」は非武装運動であった。第1次世界大戦後、レーニン、そしてウイルソンの民族自決主義によって、ヨーロッパでは続々と民族国家が生まれていた。だから、独立は世界の流れ、難しくない、という楽観論があったと思う。


 一方、独立達成のためには、武力だ、テロだ、という動きも必然的に発生する。義烈団は、テロによって独立を達成しようとした。1913年に結成されたが、多数が逮捕されたため1916年には解体状態になった。1919年の「3・1」は非武装のため失敗したと総括したようだ。そして、少人数の武装組織に再結成された。1920年9月釜山警察署爆弾事件、12月密陽警察署爆弾事件など、1年間に1~2回、1926年まで爆弾事件を次々に起こした。したがって、「義烈団事件」とは、そうした一連の事件を総称する場合もあるし、そのなかの1つだけを取り出して言う場合もある。私の周辺の人に尋ねたら、「3・1独立運動」「独立万歳運動」は知っていたが、義烈団を知っている人はいなかった。


 1923年3月黄鈺(ファン・オク)警部事件(北京義烈団事件)が発覚する。北京から大量の爆弾を持ち込み、植民地の主要施設を爆破しようと計画したが、計画が漏れて未遂に終わった。


 大阪毎日新聞(1923年4月12日号)は次のように報じた。


「……過般、爆弾36個、不穏文書950部を発見押収する……新聞紙掲載禁止のため詳細は報道の自由を有しなかったが、該陰謀事件は北京に根拠を有せる有力な不逞鮮人が組織している義烈団に於いて企画されたもので、その計画は3月1日の独立記念日を期して鮮内各署並に要路の大官に爆弾を投擲して諸官署を破壊し、大官の暗殺を敢行し……関係犯人は京畿道警部黄鈺等18名で……而して逮捕された犯人中には総督府官憲である黄警部も交り居る事とて絶大なる不祥事として当局はその取調を厳重にし、……3月1日は例の万歳騒擾の記念日で警戒厳重であることを黄警部は自己の勤務上知れるものから3月1日決行の予定を一時中止せしめ……」


 余談ながら、2017年の韓国映画『密偵』は、この事件を脚色したもので、韓国では大ヒットした。映画では黄鈺警部は別の名前になっているが、要するに黄鈺警部が日帝側の密偵なのか、義烈団側の密偵なのか、あるいは、悩める二重スパイなのか……、韓国でも評価が分かれているようだ。多くの人間は、スパッと白黒・善悪がハッキリできないのかも知れない。できるのは、あの世での審判だけかも知れない。


 布施辰治は、この黄鈺警部事件(北京義烈団事件)を京城(現ソウル)地方法院で弁護するため、1923年(大正12年)7~8月、渡朝した。釜山では、北風会(朝鮮の社会主義団体)の講演で喝采を浴びた。公判は、黄鈺警部の証言がハイライトで傍聴者は大興奮した。


 1923年(大正12年)9月1日、関東大震災。布施辰治は大地震直後から、サイドカーで駆けずり回った。そして、朝鮮人大虐殺が始まった。犠牲者は数百人~数千人とまちまちである。ちなみに、民本主義で名高い吉野作造(1878~1933)の聞き取り調査では、2613人となっている。


 そんななか、9月3日に朴烈(1902~1974)、9月4日に妻・金子文子(1903~1926)が東京世田谷署へ「保護検束」された。「朴烈事件」の始まりである。


 朴烈は、1919年(大正8年)の「3・1独立運動」後、日本へ渡り、朝鮮独立運動を土台に無政府主義活動、主に雑誌『太い鮮人』を発刊するなどしていた。当時、「不逞鮮人」なる用語が流行っていて、それをカケたものである。布施辰治とも面識を得た。


「保護検束」後、朴烈と金子文子は、治安警察法違反、爆発物取締罰則違反、さらには大逆罪で起訴された。別段、具体的計画があったわけではなく、本人が「天皇を暗殺したい」と内心を吐露したためだ。朴烈の内心は、大逆罪の法廷で、朝鮮独立・対日憎悪を大演説して死刑になる、という一種のヒロイズムかも知れない。貧困のなか、朝鮮独立を夢見る名もなく力もない雑草の1本に過ぎない自分が、大逆罪の法廷に立ち死刑になる、自分の名は永遠に残る、自分の死刑が朝鮮独立の一里塚になる、そんな気持ちだったのだろう。


 辰治は、朴烈・金子文子の弁護を最初から行った。


 1926年2月26日、大審院の特別裁判初公判。「朴夫婦、朝鮮礼装で裁きの庭に晴れ姿、士扇を斜に得意げに入廷」「鶴を織った紫の朝鮮服に黒の紗帽(さぼう)という礼装で、手に紗扇を持ち刺繍のある白靴を穿き……」「傍聴者が一斉に立って頭を下げた」などと報じられた。朴烈は、「天皇の名代たる裁判官に対して朝鮮王の威儀をもって相対したい」と希望し、布施辰治が大審院側と折衝して実現した。朴烈のいわば一世一代の晴れ姿であった。


 同年3月25日、2人とも死刑判決。


 同年4月5日、「天皇の慈悲」で恩赦、2人とも無期懲役に減刑された。しかし、2人は「天皇の恩赦」を拒否した。もっとも、拒否しても通用するわけがない。


 同年7月23日、金子文子は宇都宮刑務所で自殺した。布施辰治は死因に疑問をもち、刑務所の墓地で遺体を発掘したが、死への経過は不明だった。


「朴烈事件」は、なおも、大騒動をもたらした。


 同年7月29日、「朴烈夫婦の怪写真」が出回った。裁判の予審中、椅子にゆったり座っている和服の朴烈、その膝の上で、和服の金子文子が本を読んでいる、そうした写真(後に、撮影日は1925年5月2日と判明)である。裁判中、そんな光景はあり得ないし、しかも写真まである。世間は騒然とした。世間だけでなく、国会は空転した。


 その後の朴烈は、日本の敗戦まで刑務所にいた。獄中に22年2ヵ月いたわけで、日本の政治犯の最長記録である。朴烈は、在日朝鮮人のスターとなった。しかし、獄中生活が長すぎたためか、人間関係は下手であった。また、心の奥底の「朝鮮独立」だけでは、戦後の新たな対立にうまく対処できなかったようだ。


 なお、2017年に韓国で『金子文子と朴烈』が映画化され大ヒットした。瀬戸内晴美が金子文子を扱った『余白の春』を執筆している。金子文子の獄中歌集『獄窓に想ふ』、獄中自伝『何が私をかうさせたか』がある。涙のためハンカチのご用意を。


 布施辰治が関係した朝鮮人事件は他にもいろいろある。戦後も、朝鮮人が関連した事件に多く関わった。2000年2月29日、韓国文化放送は1時間番組「PD手帳」で、「発掘、日本人シンドラー布施辰治」が放送された。2004年には韓国政府から日本人初の建国勲章を授与された。なお、2018年、金子文子も建国勲章を授与された。


(6)国家権力の弾圧に追い詰められる


 1924年(大正13年)には、普通選挙法成立が近づいたということで、「無産階級の利害に立脚する全国的単一無産政党」を誕生させるための準備組織「政治研究会」が創立された。その本部役員に布施辰治も参加し、事務局に四谷の自分の事務所の一室を提供した。


 予定どおり、1925年(大正14年)に普選法が成立した。


 政治研究会では、右派と左派の対立、党派的多数派工作、多数の代議士願望者などで、布施辰治のトルストイ的誠実からすれば、不愉快に陥ることがしばしばであった。


 1926年3月5日、曲がりなりにも、合法的な労働農民党が生まれた。しかし、その年の12月には右派が離脱し、同時期、中間派も離脱した。その結果、無産政党は、右派の社会民衆党(安部磯雄、社民系)、中間派の日本労農党(麻生久、日労系)、左派の労働農民党(大山郁夫、労農系)の三派鼎立となった。布施辰治は純粋に全国的単一無産政党を願っていたら、右派や中間派が脱退してしまい、自動的に左派の労働農民党になってしまった。


 労農党の顧問となり、1928年(昭和3年)2月の初めての普通選挙で、労働農民党の公認で新潟から立候補したが、落選した。労農党にも多くの代議士願望者がいるため、これを批判した。「代議士になるために貧民救済で人気を得る」という利己心を捨て、「純粋に貧民救済にすべてを投入する」という純粋性が大切と訴えたが、それは組織には向かないものだ。そんなことで、労農党とは疎遠になっていく。


 共産党との関係であるが、共産党と名前がつく団体は、暁民共産党で、結成されたかどうかも不明だが、1921年(大正10年)11月に暁民共産党事件を起こした。事件は陸軍大演習に際して、将兵に対して「上官に叛け」という印刷物を配布したもので、40名が一斉検挙された。15名が起訴され8名が禁固・罰金の判決が下された。布施辰治は、この事件の弁護人になっている。布施辰治は、共産党の最初から弁護士という立場で関わりをもっていた。


 1922年(大正11年)に、第1次共産党が創立された。ただし、この頃の共産党の実体は、思想の勉強会、サークルの寄せ集めであった。しかし、日本政府にとっては、容認できる筋ではなく、1923年(大正12年)6月に一斉検挙となり、1923年(大正12年)9月1日の関東大震災をへて、1924年(大正13年)2月には解党した。布施辰治は、この一斉検挙に対しても弁護活動をした。国家権力の政治的弾圧は、スパイ活動、理由不可解な検挙、拷問、長期間拘留など刑事訴訟法を無視した人権蹂躙のデパートみたいなものである。弁護士活動だけでは不十分で、犠牲者の救援、家族への連絡・激励などを組織的に行う「救援会」もつくった。対象者は共産党事件、水平社関連事件が大半だった。


 1926年(大正15年)、共産党が再結成された。しかし、1928年(昭和3年)の3・15事件で治安維持法により約1600人が一斉検挙、1929年(昭和4年)の4・16事件で約1000人が一斉検挙された。


 布施辰治は、3・15事件でも4・16事件でも弁護活動の中心者となっていた。ジャーナリストは、布施辰治を「極左の弁護士」と評価した。


 国家権力は布施辰治の共産党弁護を嫌い、布施辰治への弾圧を開始した。共産党弁護の仕方を種に、布施辰治は1929年(昭和4年)に懲戒裁判所に起訴され、1932年(昭和7年)に弁護士除名判決が確定した。さらに、1933年(昭和8年)3月には、新聞紙法違反で禁固3ヵ月が確定した。そして4月に東京豊多摩刑務所に入った。7月に出所した。


 そしてさらに、1933年(昭和8年)9月、日本労農弁護士団に対して治安維持法違反容疑で一斉検挙がなされた。検挙された弁護士20名、そのなかに、すでに弁護士を除名されている布施辰治もいた。留置所と市ヶ谷刑務所での未決生活の1年半の拘禁生活の後、1935年(昭和10年)3月に保釈された。


 しかし、国家権力は執拗に布施辰治を追い詰める。


 1934年(昭和9年)3月、治安維持法で起訴される。


 1939年(昭和14年)5月、治安維持法有罪確定。懲役2年(未決算入200日)。


 1940年(昭和15年)7月、出獄。神武紀元2600年恩赦により減刑。


 1944年(昭和19年)2月、辰治の次男が治安維持法容疑で京都刑務所で獄死。


 布施辰治の寂しい生活が続く。


 生活費はどうしていたか。妻・光子は金銭の才覚があった。1933年(昭和8年)9月の日本労農弁護士団に対する治安維持法違反容疑で一斉検挙で、光子は、もはや弁護士家業は不可能と判断したのだろう。四谷の家屋を高値で売却し、安い戸塚の家屋へ転居した。その差額を生活費に充てた。それだけではなく、その後も家屋を3回転売して、その都度、相当儲けた。やはり、2人は「割れ鍋に綴じ蓋」である。


(7)戦後


 66歳で敗戦を迎えた。弁護士活動が再開された。戦災で困窮している無産階級をなんとか救済する、法廷の内外でできるだけのことをした。


 食料メーデーで、「朕は満腹」のプラカードが不敬罪で起訴された、辰治は、「不敬罪はすでに存在しないから無罪」と主張して、無罪を勝ち取った。


 戦後、各地で在日朝鮮人の子どもに朝鮮語で教育する朝鮮学校が開校できるようになったが、アメリカの極東政策変更で突然禁止になった。大阪、神戸などで大騒ぎ事件が発生し、阪神教育事件となり、その弁護活動をした。在日朝鮮人が絡む多くの弁護を引き受けた。


 戦後の国鉄3大ミステリー事件、下山、三鷹、松川、が発生する。辰治は三鷹事件の弁護をした。


 血のメーデー事件の弁護もした。


 1953年(昭和28年)永眠、享年73歳。前述したように墓石に、自作の句「生くべくんば民衆とともに 死すべくんば民衆のために」が刻まれている。


 なお、2013年、ドキュメンタリー映画『弁護士 布施辰治』が制作され、DVDとなっている。


…………………………………………………………………

太田哲二(おおたてつじ

中央大学法学部・大学院卒。杉並区議会議員を8期務める傍ら著述業をこなす。お金と福祉の勉強会代表。「世帯分離」で家計を守る(中央経済社)など著書多数。