●スピリチュアルな課題の理解は必要だが
前回、優生学的な差別構造は、日本では戦後も長く温存され、旧優生保護法は1948年に成立し、1996年まで生きていたことを示した。優生思想には消極的優生思想と積極的優生思想があり、前者は何らかの障害等がある者の子孫を残さなくする考え方であり、後者は強者が子孫をたくさん残すようにする考えだ。
日本の旧優生保護法は、消極的優生思想を体現したものだが、とくに20世紀初頭から米国で台頭した「断種法」の影響が強く、ドイツの心理学者ヘラ・ラフルスの優生学年表では、1948年の日本の優生保護法成立は「トピックス」として記述されている。日本でも優生思想受容の恥ずべき歴史があり、医師はこの法に目立った改革を求めたことはなかった。人工妊娠中絶の根拠として批判が高まったことを受けて、「母体保護法」に名を変えたことに同意したことは記されるが。
こうした優生学的差別思想が構造化し、医師の「本質的な科学」に対する無理解と相乗したとき、どうなるのか。ここでは、これまでの死生観の話を繰り返すかもしれない。しかし、記憶に新しいALS患者の自殺ほう助問題は、まさしく、科学者としての医師が、人間優生学の科学的欺瞞に関する不勉強が下敷きになったと考えればわかりやすのではないか。伝えられるところによれば、当該のALS患者は多くの人に迷惑をかける、ゆえに生きていたくないとの苦衷を度々周囲に洩らしたとされる。
患者自身が、精神的に自らを否定し、不可逆的だと思わざるを得ない疾患に遭遇した立場を考えれば、そうした精神状況に陥るのは無理のないことではあるが、それに医師が応じるのは筆者には理解ができない。
患者の苦衷は「人に迷惑をかける」であって、自己否定が内在する。しかし、その自己否定は、医師として患者に向き合い、共感しつつ、傍にいて心を解(ほど)くことが医師の役割である。この自己否定は「自分は人間として生きている価値はない」という優生学的な世界を根拠に出発している。気取っているわけでも、諭すわけでもないが、「人は生まれてきた以上、自然に死ぬまでは生きていく権利がある」のである。
「私は生きている価値がない」という患者の痛苦に同調することは、科学者の医師として、科学に自分の資格を、身を委ねた人間として許されるのだろうか。生を全うさせる任務を放棄し、積極的に患者の人間としての喪失感覚に同調するのは、優生学的な態度にほかならない、と思う。
●不愉快な政治的科学の残滓
優生学は、生物学の一種として出発しているが、人間を生き物のひとつとして捉えたところから間違いが始まっている。メンデルやダーウインがそういう主張をしたわけではなく、生物学を優生学にでっち上げた科学者の一群、また文学者の一群がいたことは明らかである。1914年のロンドンでの優生学会にコナン・ドイルや、のちの英国首相チャーチルが参加していることもそうした科学の意匠を借りた極めて不愉快な政治的な「科学」が台頭したことを物語る。
ヒポクラテスは「医学の父」と呼ばれるが、残っている言葉は医学に関連するとはいえ、非常に哲学的である。ヒポクラテスを哲学者として規定し、三段論法的言えば、医学者は科学者であり哲学者であり、また近年の思潮から見れば倫理学者的な存在でもある。それが、「自分は生きていく価値がない」という患者に同意することが、いかに矛盾しているか、言わなくてもわかることであろう。同意した時点で、1914年にタイムスリップして、優生学者になったのである。
杉岡良彦の『医学とはどのような学問か』では、日本の医学教育でこうした観点での医師教育が疎かにされていることが明らかにされている。同書では「哲学としての医学概論」は、医学教育や医療の現場でまだマイナーな存在であると語られている。筆者をはじめ、多くの人々は、医学・医療が人間を相手にする科学、技術であるという本質的な前提に立って、まず医学の哲学的概論を学ぶものだと思い込んでいたと思う。
そうではないということに驚いてしまう。最近のトレンドから見ても、科学的にはEBM的態度の導入、人間観であれば人間の多元的理解(生物心理社会モデル)の展開、医療倫理、医療制度への関心の高まりなど、医学は哲学と並行して見直され、学ぶべき学問であることが常識化されていると思う。医師になる、医療者になる、医療の世界で人間を見つめるということはどういうことなのか、最初からそれは学び、咀嚼する作業手順くらいは覚えていくものだろうという「当たり前」感覚が筆者にはあるが、実は医学教育の現場などにはないらしいのである。面倒くさい、非効率だ、で済む問題なのか。
●科学者としての万能感
簡単に安楽死を実行してしまう医師たちの精神世界に、そのような「医学哲学」の咀嚼経験がないのだという推論を持つと、それが筆者には理解のできない「医師であることの万能感」と合同して、彼らの持っておくべき基本の欠落につながるのかもしれない。
杉岡の著書から想起するもうひとつの視点は、医学哲学を考える態度のひとつとして、一貫して「批判」「省みる」ことの重要性だ。杉岡は、科学の進展に批判精神は不可欠だとして、「それは非難ではなく、自らを省みるという反省のこと。臨床疫学/EBMは、新たな治療法の効果を確かめるだけではなく、これまで医療現場であまりその根拠を省みられず行われてきた医療行為そのものを見直そうという態度を促し、その手段を提供」するとして、メタアナリシスの解説に向かうのだが、重要なのは、著者が分子生物学の進展で唯物論(機械論的人間観)と医学が親和性を持ち始めて以後、「物質レベルで根拠のない治療法は科学的とみなされづらい」状況を生んだことを明らかにしていることだ。これも、安楽死を遂行した医師たちには、言い換えると優生学と親和し、医師の万能感に科学というスパイスが加わったような印象を受ける。科学は万能であり、その真っ只中にいる医師は万能だと。
医療哲学の咀嚼とともに杉岡は、臨床疫学への関心を求める。臨床疫学/EBMは、従来の物質レベル生命現象をベースにしたパターナリズムを非難する立場をつくったという点の理解だ。ある意味、「人に迷惑をかける」という心情への共感は、同調圧力としてのパターナリズムそのものではないだろうか。
●コピペで進む標準化のリスク
そうして考えると、医療の現場でもよく使われる「不可逆性」という言葉の認識も考え直したほうがいいかもしれない。
ALS患者は現状の医学的根拠では、その病状の進行は「不可逆的」であることは間違いないのであろう。しかし、それが患者の自殺念慮を肯定する根拠にならないのは当たり前で、どこかにその自殺念慮も不可逆的だと包括した考え違いを生んではいないだろうか。人間観(世界観)に唯物論的に信奉されている「不可逆性」を勘違いする素材のひとつが差別の存在なのである。人間として強いか弱いかという不等感は差別であって、不可逆なものではない。人の心は動く、動くから人間でもある。物差しは、開かれた方法論で固着したものではなく、自由な人間観で測られなければならないのだと思う。
オーストリアの精神科医、ヴィクトール・フランクルは、人間を「生物心理精神社会的存在」として理解することを奨める。人間は「苦しみの意味」や「人生の意味」を問う。患者の苦しみは全人的苦痛であり、極めてスピリチュアルな課題だ。医師が、スピリチュアルな課題の傍にいることを常に理解しておくことは重要なことだ。しかし、判断することはその根拠も含めて医師には許容されてはいない。
こうした自殺ほう助事件を警戒しなければならないもうひとつの視点として、医師の万能感と診断のパターン化が結びつくことの危険だ。最近の医師は、患者と自分の間にパソコンを置く。そのなかにあるのは電子カルテだ。電子カルテは、都合のいい医療の標準化の推進装置である。多くの医師が、電子カルテを疑わない。「痛みがとれない」と執こく訴える患者には、その原因を探らず抗うつ剤を処方する医師も少なくないという。
安楽死を願う患者が現れると、それが容認される同調圧力が進めば、コピーアンドペーストされた「死の処方」を簡単に出してしまう医師が出てこないとは限らない。医師は死生観を自分の臨床経験にしてはならないのである。(幸)