安倍晋三首相に代わって菅義偉氏が首相の座に就くことを、苦い思いで眺めている県民がいる。米軍普普天間飛行場の返還に伴う辺野古への移転を巡って国との対立を続けてきた沖縄県だ。米軍専用施設の7割以上が集中していながら、基地返還に伴う代替地が、なぜ同じ沖縄でなければならないのか。構造的差別の悲哀を背負ってきた沖縄の歴史を顧みることなく、「粛々と」工事を進めてきた安倍政権のなかで、沖縄基地対策を担ってきたのが菅氏だからだ。



 総裁選への出馬表明会見で、「担当大臣としての思いをしっかり抱きながら沖縄問題というのはやっています」と答えた菅氏だが、その「思い」の向こう側にいる沖縄県民の「魂の飢餓感」に、向き合おうとはしなかった。菅氏が官房長官に在任した7年8ヵ月の間に生まれた沖縄との軋轢は、そのまま引き継がれる。


 沖縄と菅氏にまつわるエピソードで、忘れられない場面がある。


 2年前の18年10月9日。辺野古新基地建設を阻止しようと闘いながら、任期途中で亡くなった翁長雄志前沖縄県知事の県民葬でのできごとだった。来賓のトップは安倍首相の代理として出席した菅氏だ。淡々と弔辞を読み上げた。


「沖縄県に大きな負担を担っていただいている。その現状はとうてい是認できるものではありません。何としてでも変えていく。政府としてもできることはすべて行う」


「嘘つけ」


 最初は男性の小さな声だった。ひとり、ふたりと声が加わる。菅氏は続ける。


「沖縄県民の皆さんの気持ちに寄り添いながら。沖縄の振興・発展のために」


 弔辞を読み終えると、男性の大きな声が会場に響いた。


「嘘つけ!」


 それを皮切りに堰を切ったように場内から怒号が飛び交った。


「なんで来た!」「恥ずかしくないのか!」「帰れ!」


 腹から絞り出すような怒声が続く。ひとりやふたりではない。男性だけでなく女性も。10人、20人、いや50人はいただろうか。会場となった県民体育館のあちこちに渦巻く憤怒の嵐が、容赦なく菅氏を襲う。2階に設けられた記者席の両脇にある一般参列者の席では、中年のご婦人がハンカチで涙を拭いながら睨みつけている。その斜め後ろの高齢の男性は、膝の上で両手を握りしめ、前のめりになった肩を震わせながら正面を見据える。怒号は40秒近く、菅氏が自席に戻るまで続いた。


翁長前知事の葬儀の日、県庁に立ち寄った棺に最後の別れを告げる県民たち。横断幕には「ありがとう」の文字=18年8月13日


 記者席からは菅氏の表情は遠くて見えない。後にビデオで確かめてみると、ふだんの官房長官会見でみせるポーカーフェイスは失せ、なんとも情けない面持ちで着席する様子がわかる。おそらく菅氏自身、これほどの敵愾心が剥き出しの沖縄の民意に、気付いていなかったのではないだろうか。


 菅氏が沖縄基地負担軽減担当大臣に就任したのは14年9月だ。この年、沖縄は重大な局面を迎えていた。


 その前年12月、沖縄県知事だった仲井眞弘多氏は安倍・菅両氏と面談して、沖縄振興予算を向こう8年間、3000億円以上に引き上げる約束を取り付けた。「有史以来の予算」と仲井眞氏は記者団に語っている。そしてその3日後、仲井眞氏は辺野古新基地建設につながる埋め立てを承認した。米軍普天間飛行場の代替地としての辺野古新基地の建設を容認したことになる。


 振興予算とのバーターのような埋め立て承認に反発したのが、翁長氏だった。14年11月に行われる知事選に、仲井眞氏の対抗馬として名乗りを上げた。翁長氏と言えば自民党県連幹事長を務め、仲井眞知事の選対本部長として選挙を取り仕切った当時の那覇市長だ。いわば保守本流の翁長氏が「辺野古反対」を唱えるには、それ相応の覚悟があっただろう。


 明治政府が沖縄王国を廃藩置県によって日本に組み入れた琉球処分以来、沖縄県民は日本への同化と異化の狭間で揺れ続けてきた。


 戦時中には、本土防衛の捨て石となって戦い12万人もの死者を出した。戦後、米国施政下に置かれた沖縄では、住民から土地が奪われて米軍基地が建設された。基地反対闘争が激化した本土から、海兵隊が沖縄に移ってきて、基地はさらに増えていく。憲法を持つ日本に復帰すれば、主権は回復されるはず。そう信じて72年の本土復帰を迎えた。が、基地は固定化されたままだった。


 いまでも米軍専用施設の7割が沖縄に存在するのに、普天間返還に伴う代替地が、なぜ沖縄でなければいけないのか。尊厳と誇りを傷つけられてきた県民の心の叫びを、翁長氏は「魂の飢餓感」と表現した。


 その沖縄も変わった。観光収入が復帰時の20倍に達し、一方の県民所得に占める基地依存は5%台にまで減ってきた。安室奈美恵や「DA PUMP」などアーティストの活躍や、ドラマなどによって沖縄文化が見直され、沖縄に対する理解も進んできた。


 その沖縄県民としてのプライドに火をつけたのが翁長氏だった。保守・革新などというイデオロギーよりも、沖縄県民としての誇りを胸にアイデンティティーを掲げて、ひとつにまとまろうと呼びかけた。これ以上の基地をつくらせないことで保守・革新陣営をまとめた「オール沖縄」を立ち上げた翁長氏は、仲井眞氏に10万票近い差をつけて当選したのだ。


 翌日の官房長官会見で、菅氏は辺野古への移設を進めていくことに変わりないことを強調した。


「米軍の抑止力と普天間飛行場の危険性除去を合わせたなかで(辺野古での基地建設は)唯一の解決策である」


 菅氏の主張の柱である「危険性の除去」の観点だけで論じれば、辺野古への移設は理屈が通る。だが、基地に喘ぐ沖縄にとって、移設先が同じ沖縄であるという理不尽さは消えない。


 同じ会見での、菅氏の言葉だ。


「(知事選は辺野古移設の)賛成反対の投票ではなかった」


 知事選の最大の争点は、辺野古新基地への賛否であったにもかかわらず、菅氏は、その「民意」を否定した。さまざまな争点があったなかで翁長氏が当選したのであって、基地建設の賛否を問うものではなかったと言いたいのだ。


 そして、このときの菅氏の言葉が、沖縄の琴線に触れる。すでに仲井眞氏の埋め立て承認に基づいて、ボーリング調査などの工事が始まっていた。


「(埋め立て工事は)粛々と進めていきたい」


 20分ほどの短い会見の間に、菅氏は「粛々」という言葉を、5回も繰り返した。


 辺野古問題は、さらにこじれる。


 知事に就任した翁長氏は、まずは菅氏に面談を申し入れた。だが、菅氏は「年内は会うつもりはありません」と応じない。年末に上京した翁長氏は、安倍首相はおろか菅官房長官にも面会できず、出鼻を挫かれる。その後も閣僚級への面会さえほとんど実現しなかった。


 菅氏も会見で「(工事を)中止すべき理由はない」「(工事は)国が勝手にやったわけではない」と木で鼻を括ったような答えを続け、相変わらず「粛々」を連発する。


 2人の面談が実現したのは、翌年15年4月5日だった。翁長氏が面談の場所に那覇市のハーバービューホテルを選んだのには理由がある。半世紀も前、米軍施政下の沖縄を統治していたポール・キャラウェイ高等弁務官が、「沖縄住民による統治は神話にすぎない」、つまり住民には何の権利もないことを公言した沖縄にとっては屈辱のスピーチがあった場所だ。悪代官とも呼ばれたキャラウェイに菅氏をなぞらえたわけだ。


 2人の議論は平行線を辿ったが、ここで翁長氏は釘を刺す。


「上から目線の『「粛々』という言葉を使えば使うほど、県民の心は離れて、怒りは増幅していく」


 翌日午前の会見で、記者から「上から目線」について尋ねられた菅氏は、こう答えた。


「粛々と進めていくということが上から目線ということでありましたので、表現は変えていくべきだろう」

 

 以降、しばらくの間、菅氏は「粛々」という表現を封印する。


 政府は15年8月から1ヵ月間、工事を中断して沖縄県と5回にわたって集中協議が行われた。翁長氏が生前に著した『戦う民意』(角川書店)に、当時の様子が描かれている。


「なかでも私が強く求めたのは、沖縄が歩んできた苦難の歴史に対する理解でした。私は菅官房長官に『沖縄県民には魂の飢餓感があるんです』と語りました。(中略)いくら歴史を語っても、菅官房長官からは『私は戦後生まれなものですから、歴史を持ち出されたら困りますよ』『私自身は県内移設が決まった日米合意が原点です』という答えが返ってきました。(中略)私は安倍総理に『総理の言う、日本を取り戻すの中に沖縄は入っているのですか』と問いかけましたが、返事はありませんでした」


 集中協議でも、平行線が続いた。翁長氏が、差別されてきた沖縄の歴史を基地問題の「原点」に据えているのに対して、菅氏は歴史を顧みることなく、危険性除去が「原点」で、辺野古移設が「唯一の解決策」と言って譲らない。


 直後の官房長官会見の言葉が、また物議を醸す。


 記者に「土地を取り上げられて基地を建設されて代替地を求められるのは理不尽だという主張には賛同できないか」と尋ねられた菅氏は、こう答えている。


「賛同できません。戦後、さまざまな日本全体で悲惨ななかで、みなさんがご苦労されて、今日の豊かで平和で自由な国を築き上げていただいた」


 つまり、沖縄だけが悲惨な歴史を辿ってきたのではないと釘を刺したように受け取れる。県民の神経を逆なでするような発言に、翁長氏は「辺野古新基地建設は絶対に阻止する」と宣言する。


 だが、政権によって翁長氏の足元は、次々と切り崩されていく。


 切り崩しの先兵は沖縄振興予算だ。12年度に創設されたい沖縄県に対する一括交付金の推移をみるとわかりやすい。使途が比較的自由な一括交付金は、使い勝手のいい貴重な財源だ。仲井眞氏が基地容認に転じた直後に決まった14年度の一括交付金は1759億円に跳ね上がった。ところが、翁長知事になった途端に減額が続き、18年度は14年度より571億円も少ない1188億円にまでカットされている。


 15年度からは、防衛相が新基地建設の現場に近い名護市の辺野古、豊原、久志の3地区に対して直接補助金を交付する枠組みを創設した。基地建設反対を掲げる稲嶺進氏が市長を務める名護市を通さない補助金交付は、地元の切り崩しと受け止められた。沖縄の分断は、進んでいく。


 県内の選挙では、翁長氏が主導する「オール沖縄」候補の切り崩しが始まった。17年の宮古島市長選、浦添市長選、うるま市長選、そして辺野古の地元となる18年2月の名護市長選で、政府寄りの候補が次々と「オール沖縄」の候補を破って当選を果たした。とくに知事選の前哨戦とも言われた名護市長選では、菅氏も乗り込んでの総力戦を展開した。


 そして、翁長氏にはなかなか会ってくれなかった菅氏が、当選を果たしたこれら政府寄りの市長を官邸に招き面談が実現していく。


 アメとムチを使い分けて沖縄の分断を図り、沖縄の民意を過小評価しようとする。沖縄からすれば、露骨な嫌がらせにみえる。菅氏の対応は、沖縄県民の脳裏に刻み込まれていく。


 翁長氏の死去によって行われた18年9月の知事選では、翁長氏の遺志を継いだ新基地建設反対を唱える玉城デニー氏と、政府の全面的な支援を受けた宜野湾市長の佐喜眞淳氏の一騎打ちとなった。このときも菅氏は、告示前も含めて3度にわたって佐喜眞氏の応援のために沖縄入りしている。


 筆者の82歳になる知人は、佐喜眞陣営に動員された友人に誘われて、那覇市内の中心部で選挙カーの上から声を張り上げる菅氏の応援演説を聞きに行った。帰り際、その友人が吐き捨てるように呟いたという。


「うぬひゃー」


 沖縄の方言で「このやろー」というニュアンスの言葉だそうだ。「佐喜眞陣営の中枢にいる運動員でさえ、菅官房長官にはいい感情を抱いていない。菅さんの来県は逆効果だった」と話す。


 そして県民は、8万票の差をつけて玉城氏を知事に選んだ。沖縄のアイデンティティーを蔑ろにされた県民の怒りは、過去最高の約39万票の得票に象徴されている。


翁長前知事の遺志を継いだ玉木デニーは、当選を果たして支援者に挨拶=18年9月30日


 辺野古基地の賛否を問う住民投票が実現したのは、翁長氏亡き後の19年2月だった。有効投票60万余票の72%を超える43万余票が新基地建設に反対票を投じた。


 翌日の2月25日の菅官房長官の会見。


「問題の原点というのは、世界で一番危険と言われる普天間飛行場の危険性除去と返還。このまま固定され危険なまま置き去りにされることについては絶対に避けなければならない」


 翁長前知事の県民葬のときも、玉城氏が知事選に当選したときも、さらには自民党総裁選の出馬表明でも、会見で問われた菅氏は、この原点を繰り返してきた。


 確かに菅氏が基地負担軽減策について、「目に見える形で実現する」ことにこだわったのは理解できる。16年12月に米軍北部訓練場のうち約4000ヘクタールの返還に漕ぎ着け、菅氏は「本土復帰後、最大規模の返還」と胸を張った。だが、実際には集落を取り囲むようにオスプレイの着陸するヘリパッドが建設されるなど、負担軽減には程遠い。沖縄・中部の嘉手納空軍基地以南の米軍基地の7割が返還されることも決まっているが、米軍専用施設の割合は、いまでも73.8%から70.3%と3.5ポイントしか減っていない。


 菅氏にしてみれば、基地負担軽減に努力し、県民に寄り添っている自負があったのかもしれない。だから、翁長氏の県民葬でも堂々と弔辞を代読したし、選挙のたびに沖縄に足を運んでいたのだろう。


 文藝春秋10月号に、菅氏が「菅義偉『我が政権構想』」を寄稿している。地方創成を最優先課題に挙げるなかで、こんなフレーズが目についた。


「私が政治の道を志して以来、一貫して重視してきたのは、国民の皆様から見て、何が『当たり前』かをきちんと見極めるということです」


 基地の7割が集中する沖縄で、返還される基地の代替地も沖縄に。どう考えても「当たり前」ではないはずだ。


 アメとムチで沖縄の分断を図ってきた菅氏だが、民意をはぐらかし政権にとって都合のいい「原点」を切り取ったごり押しでは、沖縄問題の解決の糸口は見えてこない。


昨年3月の県民大会。プラカードを一斉に掲げる参加者たち


 翁長氏が15年の沖縄県民大会のスピーチの最後に、方言で付け加えた言葉がある。


「ウチナーンチュ、ウシェーティナイビランドー」


「沖縄をなめんなよ」


 安倍政権だけでなく、本土の人間にも向けられた言葉でもあるのだが。(ノンフィクション作家・辰濃哲郎)