もう10年近く前のことになるが、88歳で他界した私の父親は最晩年の3年ほど、老人介護施設に入所して、途中から軽い認知症を患うようになった。直接会話していると、特段症状は感じられなかったのだが、日付の感覚がしばしば混乱したようで、面会予定日の2~3日前になると、「今日は息子が来る」と玄関ロビーのベンチに座り込み、何時間も動かなくなってしまう。困り果てた職員の連絡を受け、施設に呼び出されるドタバタに何度となく見舞われたものだった。


 もともと短気な性格で、晩年はさらに怒りっぽくなったため、一緒にいるときは認知症の話題は極力避け、当たり障りのないやり取りをすることが多かった。そんなわけで、認知症の親を持ちながらも、正直なところ、当人の意識では何をどう自覚してどんな精神状態だったのか、私にはよくわからず仕舞いだった。


 今週の週刊新潮には、先だって自身の認知症を公表したタレント・漫画家の蛭子能収さんに、テレビ朝日の元プロデューサー・鎮目博道氏が近況を聞くインタビュー『「蛭子さん」がぼそぼそ語った……進行する「認知症」の恐怖に“ボケ”で対抗』が載り、興味深かった。2人は旧知の間柄だったのだが、蛭子さんの言葉は「すみません。覚えてなくて」というショッキングな第一声で始まる。


 それでも蛭子さん、メディアでの仕事は現在も続けていて、このインタビュー翌日にもロケが入っているとのことだった。「できる限りは仕事したいです」「(妻のために)とにかくお金は稼がなきゃ」と労働意欲は旺盛で、自宅にいるときには、本棚の本が突然燃え出したり、取り込んだ洗濯物が妻の姿に見えたりと、“幻視”の症状もあるそうだが、同席したマネージャーによれば、「仕事モードの時には幻視が見えることは少ない」という。


「(妻を)お金で繋いでおかないと」とふと漏らした自分の「失言」にあたふたしてしまうなど、テレビでおなじみの“のほほんとした天然キャラ”は相変わらず。病をめぐるインタビューにもかかわらず、そこには彼ならではのユーモラスな雰囲気が漂っていた。


 本当に病状が深刻化してしまったら難しくなるだろうが、こんな調子でいる間は、番組も視聴者も当人の「認知症キャラ」をしっかり意識したうえで、ぽつりぽつりとでも出演の機会をつくってもらえれば、と感じた。本人の病状や医学的な言及にはもちろん気を遣いつつ、それでもほのぼのとしたお笑いのなかで、フランクに認知症の理解を広めてゆく、そんな役割を果たすことができる稀有なキャラクターに思えるからである。


「シルバーウィーク」のイレギュラーな日程で、週刊朝日は今週火曜日と土曜日、2つの号が発行されているが、その“前号”に載った、アエラの元名物記者・大鹿靖明氏(現朝日新聞記者)の『亡き父が激白した3時間の全記録 菅義偉新首相の知られざる過去』は、大鹿氏が11年前に取材した菅新首相の父親(当時91歳)とのやりとりを振り返った異色のレポートだ。


 元満鉄職員で秋田帰郷後にイチゴ栽培で成功した菅氏の父・和三郎氏は、子ども時代の息子を何度も「バカ」と呼び、隙あらば息子の話題より自分自身の武勇伝を滔々と語りたがる押しの強い人だった。“家出同然”で上京したとされる若き日の菅首相だが、大鹿氏は「この強烈な父性が支配する家から逃げ出したかったのだ」と腑に落ちたようだった。ちなみに13人の周辺取材をしたうえで臨んだ本人インタビューでは、父親の話題に菅氏は困惑を露わにし、極端なほど口ごもる様子を見せている。首相候補となって以来、菅氏にまつわる報道が連日出ているが、なかでも最も印象に残るユニークな記事だった。


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三山喬(みやまたかし) 1961年、神奈川県生まれ。東京大学経済学部卒業。98年まで13年間、朝日新聞記者として東京本社学芸部、社会部などに在籍。ドミニカ移民の訴訟問題を取材したことを機に移民や日系人に興味を持ち、退社してペルーのリマに移住。南米在住のフリージャーナリストとして活躍した。07年に帰国後はテーマを広げて取材・執筆活動を続け、各紙誌に記事を発表している。著書は『ホームレス歌人のいた冬』『さまよえる町・フクシマ爆心地の「こころの声」を追って』(ともに東海教育研究所刊)など。最新刊に沖縄県民の潜在意識を探った『国権と島と涙』(朝日新聞出版)がある。