ジャーナリストの優劣を見る際には、何よりも「取材力」の有無こそが、企画力、分析力、文章力等々より重要な要素となる。ひと昔以上前の記者たちは、そんな感覚を共有したように思う。同じ事件・出来事を取材したライバル社の報道に、たとえ数行でも未知のデータが含まれると、出し抜かれた屈辱を味わったものだった。付け焼刃で書いた記事に対しては、「実情をろくに知らないで」という非難を怖がった。「よく調べている」という評価をこそ、記者たちは喜んだ。


 ネット時代の言論を見ていると、そうした感覚は過去に消え去った観がある。ろくすっぽ実情を知らなくても、読みかじり、聞きかじりで他者を罵倒する。判断材料が乏しいなら拙速な論評は避け、まずは情報収集に徹するはずなのだが、ネットの発言者はプロであれ素人であれ、根拠薄弱のまま平気で意見を表明する。


 個人的にこうした状況はどうにも耐え難い。我が身を振り返れば、3年間に及んだ福島原発事故の取材では、医学的、物理学的な知識不足を自覚して、そのジャンルの論評は保留、避難生活の実情などに絞り込み、ルポを執筆した。沖縄で保守系の反辺野古知事・翁長雄志氏が出現したときには、保革入り混じる「政治的文脈」がとっさに飲み込めず、歴史的背景から事態を理解するために、東京と沖縄を半々で行き来する生活を4年間続けた。


 知識不足なら、時間をかけ実情を把握する。そんな当たり前の行動が、最近は急速に見られなくなっている。無知なくせに平気で強い主張をする。そのことに微塵もためらいが感じられないのだ。原発問題では左派、沖縄問題では右派の人々にその傾向が強かった。とくに後者に関しては、私自身、4年の歳月をかけ、ネット上の沖縄叩きの言論は、9割がたデマもしくは無知ゆえの誤り、と確信するに至った。


 今週の週刊文春、能町みね子氏のコラム『言葉尻とらえ隊』は大坂なおみ選手の話題を取り上げて、私は前述した“決めつけ論評”を連想した。周知のとおり黒人差別に抗議するマスクを着用して全米オープンに優勝、世界的な注目を集めた大坂選手だが、能町氏は彼女への好悪の感情がスポンサー企業・日清の広告にまで飛び火したことに着目した。


 それによると、日清は彼女を使ったカップヌードルの画像宣伝を9月1日に始めたが、全米オープンの開幕は奇しくもこの同日。数日して、大坂選手の「政治的行動」あるいはBLM運動そのものを嫌悪する一部右派の人たちは、スポンサー企業・日清の製品不買運動をネット上で呼びかけた。一方で彼女を称賛する左派勢力の一部は、前述したカップヌードル広告に「原宿に、行きたい。なおみ」という彼女のメッセージ性を黙殺した“かわいいコピー”が使われたことに憤慨、別角度から日清を糾弾した。


 つまり、日清は左右双方から叩かれる格好になったのだが、能町氏は「一億総コメンテーター。コメントするなら少し経緯を調べよう」とこの事態を皮肉っている。そもそも“かわいいコピー”は全米オープン開幕に先立って作られたものであり、ことさらメッセージ性を消そうとしたわけではない。右派は右派でBLM運動=極左の破壊運動という現地差別主義者によるプロパガンダをやみくもに信じている。詳しい実情は自分にはわからない。だから情報を収集する。そんな「常識的態度」が広く蘇ってくれることを、旧世代としては願わずにいられない。


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三山喬(みやまたかし) 1961年、神奈川県生まれ。東京大学経済学部卒業。98年まで13年間、朝日新聞記者として東京本社学芸部、社会部などに在籍。ドミニカ移民の訴訟問題を取材したことを機に移民や日系人に興味を持ち、退社してペルーのリマに移住。南米在住のフリージャーナリストとして活躍した。07年に帰国後はテーマを広げて取材・執筆活動を続け、各紙誌に記事を発表している。著書は『ホームレス歌人のいた冬』『さまよえる町・フクシマ爆心地の「こころの声」を追って』(ともに東海教育研究所刊)など。最新刊に沖縄県民の潜在意識を探った『国権と島と涙』(朝日新聞出版)がある。