9月下旬から10月上旬、朝晩の気温がぐっと下がって、夜空の月が白く綺麗に眺められるようになる頃になると、日課の薬用植物園の見廻りに出て帰ってくる筆者は、たいてい栃(トチ)の実を両手にいっぱい掴んでいる。着ている上着にポケットがある時は、中が茶色く汚れることをわかっていながら、そこにも詰め込んでいることが多い。あの大きくてつるつるひかるコロンとした実が落ちているのを見ると、なんだか拾わずにいられないのである。栃の実は栗のように茹でれば食べられるというわけではなく、実験材料にするわけでもないのだが、なぜか見ると放っておけない。しゃがみ込んで夢中で拾っている姿を見られると恥ずかしいので、なるべく朝早くひとけが無い時間帯に拾う。縄文時代、稲作が一般的ではなかった時代に、日本あたりの場所に居たヒトたちの主食はドングリ類だったそうで、水に浸けてアク抜きをして食べていたらしいが、そんな時代には栃の実は粒が大きいのでご馳走の部類になっていたようだ。道端に落ちているのを見て放って置けずに拾うのは、縄文時代からのいにしえの記憶のせいだろうか。



 

 

 栃の実というと、栃餅とか、栃の実煎餅とかの郷土菓子を思い浮かべられる方が多いかもしれない。トチノキは日本全土の水の豊富な山地によく生え、大木になってたくさん実をつけやすいので、この時期に一気にたくさん集まる実を食べられるように加工したというのは納得できる。しかし、じつはこの栃の実はいわゆるアク抜きがかなりたいへんで素人では美味しく仕上げるのは難しい。このアクの正体は多様な植物成分の集まりだが、中でも量的に多いのがサポニンの類である。エスチンというトリテルペン配糖体成分が有名で、セイヨウトチノキの種子エキスの品質評価の際に利用されている。



 セイヨウトチノキは日本のトチノキの近縁種で、マロニエという名前で小説や歌詞に出てきたりする。従来からその種子エキスを主成分とする医薬品は術後・外傷の腫脹、痔核の諸症状(出血、疼痛、腫脹、痒感)の緩解等に有効とされているが、使用頻度はあまり高くないようである。一方、同じセイヨウトチノキ種子エキスを有効成分とする内服薬が、主に足のむくみを改善する要指導薬の西洋ハーブ医薬品として新たに承認される見通しとなった、という記事を最近読んだ。


 西洋ハーブ医薬品は、欧州等の日本と同等以上の科学レベルとみなされる国で伝統的に使われてきた植物由来の医薬品を、その海外データを利用して日本国内での試験を一部省略して承認申請できる一般用医薬品(OTC医薬品)のことで、現在はチェストベリーエキスを有効成分とし、月経前症候群の諸症状を改善する製品が販売されている。少し前までは、もう1品目、足のむくみを改善する赤葡萄の葉エキスを有効成分とする製品が同じ分類で販売されていたのだが、残念ながら、現在は承認整理(今後製造販売する見込みがないということ)されている。市場から消えてしまった足のむくみ改善薬が、今度はセイヨウトチノキ種子エキスを主成分にして、同じ西洋ハーブ医薬品の分類で異なる製品で登場することになるらしい。


 夕方の帰宅時には、疲れて足がむくんでパンパンで痛いほど、という人は男女を問わず多いようだが、帰宅して風呂に入ったり休んだりすれば、明くる日には元に戻っている場合がほとんどで、これを病気として医療機関を受診する理由にする人は多くないだろう。でも、辛い症状はなんとかしたい。こういう時に役立てて欲しいのが、一般用医薬品を扱う薬局、ドラッグストア等の存在である。新型コロナ禍は誰もが医療機関の利用方法を見直す機会となったと思うが、深刻ではない身体の不調、また変化が少ない慢性の生活習慣病などは、自己管理、つまりセルフメディケーションで対応することが望ましいと考えられ、厚生労働省のホームページなどに掲げられている政府の健康政策の中にもあちらこちらにセルフメディケーションが登場する。日本の伝統的な家庭薬や欧州伝統薬由来の西洋ハーブ医薬品などは、ドラッグストア等でも手に取りやすい製品なのではないだろうか。


 さて、トチノキの植物の方であるが、日本のトチノキと前述のセイヨウトチノキ(=マロニエ)はいずれも花が白色、大きな違いは果実のいわゆる殻の外側の様子である。トチノキはぶつぶつと滑り止めのようなざらつきがあるだけだが、セイヨウトチノキはこれが全部長いとげになっている。中のコロンとした実はほぼ同じである。他方、花が桃赤色の種もあって、最近は街路樹にされているのをちょくちょく見かける。例えば、東京国際フォーラムの横あたりである。東京駅に近づいて速度を落とした新幹線から上部だけだが見えるので気がついた。ベニバナトチノキという。ベニバナトチノキは、セイヨウトチノキとアカバナアメリカトチノキをかけ合わせて作った園芸品種で、花の形の華やかさはセイヨウトチノキから、花色はアカバナアメリカトチノキから譲り受け、ベニバナトチノキは華やかな形の桃赤色の花、殻のとげも両親から引き継がれたようで、(アカバナアメリカトチノキはトチノキと同じく殻にとげがない)、ベニバナトチノキはセイヨウトチノキより短かめのとげがある。殻の中の実(=種子)が、セイヨウトチノキと同じく薬用にできる成分を含んでいるかどうかは調べてみないとわからないが。



 最後にもう一つ。セイヨウトチノキの種子エキスは薬用にされているが、これはエキスにする際にエスクリン等の好ましくない成分を取り除き、安全に使用できるエキスとして製造されているものを使っているのであって、素人が不用意に自作できるものではない、ことも知っておいていただきたい。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・伊藤美千穂(いとうみちほ) 1969年大阪生まれ。京都大学大学院薬学研究科准教授。専門は生薬学・薬用植物学。18歳で京都大学に入学して以来、1年弱の米国留学期間を除けばずっと京都大学にいるが、研究手法のひとつにフィールドワークをとりいれており、途上国から先進国まで海外経験は豊富。大学での教育・研究の傍ら厚生労働省、内閣府やPMDAの各種委員、日本学術会議連携会員としての活動、WHOやISOの国際会議出席なども多い。