2020年のノーベル化学賞で、ゲノム編集技術「クリスパー・キャス9」を生み出した、フランス人のエマニュエル・シャルパンティエ氏と米国人のジェニファー・ダウドナ教授の受賞が決まった。


 2012年の開発発表からわずか8年でのノーベル賞の受賞は、作製に成功したことを発表して6年で受賞したiPS細胞に匹敵する異例の早さである。それだけ影響が大きく、有用性が確実視されているからだろう。


『ゲノム編集とはなにか』は、遺伝子改変の歴史を踏まえつつ、今後の生命科学、ゲノム編集の応用分野がどう変わるのかを予測する1冊である。


 放射線や化学物質(化学変異原物質)などを用いて、人為的にDNA に変異を入れる方法は古くから使われてきた。例えば、和ナシの「二十世紀」と同じ特性を持ち、黒斑病に強い品種「ゴールド二十世紀」は、ガンマ線を照射することで誕生したという。


 ただ、ゲノム編集以前は、生物種を選ばず、目的の遺伝子のみに効率的に変異を入れることは難しかった。しかし、1996年に第1世代のゲノム編集ツールZFN(ジンクフィンガー・ヌクレアーゼ)が誕生して以降、2010年のTALEN(ターレン)、2012年のクリスパー・キャス9と次々に新しい技術が生まれて、状況が大きく変わった。


 簡便、安価で正確、かつさまざまな生物に使えるゲノム編集ツールができたことの意味は大きい。しかも、〈基礎研究目的であれば開発した技術を世界中の研究者に使ってもらうオープンイノベーションの気運が高く、ゲノム編集の研究分野は予想を遥かに越えたスピードで進んでいる〉という。


■ゲノム編集で「おとなしいマグロ」が登場!?


 農林水産業関連では、収量の高いトウモロコシなど収量アップをめざすものに加えて、病気耐性、除草剤耐性のある作物など、応用範囲は広い。果実では従来、品種改良に非常に時間を要していたことから、ゲノム編集を使った品種改良に注目が集まっている。家畜では、ウイルス耐性のある豚、アレルギーを起こさない鶏卵なども研究されている。


 魚食文化のある日本人にとって、水産資源の確保は重要なテーマだ。この分野でもゲノム編集の応用が始まっている。クロマグロの完全養殖で知られる「近大マグロ」だが、〈音や光に過敏に反応して養殖網に衝突し30%以上が死亡するため、生産効率が大きな問題となっている〉。そこで著者らは、ゲノム編集で「おとなしいマグロ」に性格を変える研究を行っているという。生産効率が上がれば、良質なマグロが手ごろな値段で買えるようになるかもしれない。


 他の魚では、品種改良に成功し肉厚のマダイが誕生している。養殖水浄化や自動化などを行う「スマート養殖」と合わせた次世代養殖システムを手掛けるベンチャー企業も事業を開始した。


 ゲノム編集は、世界の食糧事情を大きく変える可能性を秘めているのだ。


 産業関連では、「バイオ燃料」が注目されている。筆者らはゲノム編集によって微細藻類に遺伝子改変を行い、〈油脂を大量に合成してくれる品種の開発を進めている〉という。実現すれば、エネルギー問題だけでなく、CO2削減など環境の観点からも非常に有用になりそうだ。


 医療分野で、本書の最初に登場するのが「疾患モデル」。遺伝性の病気を研究するために、従来はニワトリの細胞やラットなど特定の動物を使うしかなかった。しかし、ゲノム編集技術、とくにクリスパー・キャス9が登場してからは、さまざまなタイプの疾患変異をさまざまな動物の疾患モデルで再現できるようになっている。iPS細胞をゲノム編集することで、疾患を検証する研究も進みそうである。


 医療分野の”大本命“とも言えるがん治療のほか、筋ジストロフィーなど難病治療でも新しい治療法が研究されている。ウイルス感染症への活用も研究されており、HIV感染症の治療は長年開発が進められている分野だ。終息が見えない新型コロナウイルス感染症についても〈ゲノム編集によるCOVID-19の検出法や破壊法の開発も期待される〉。


 ゲノム編集については、技術的な問題だけでなく、生命倫理をめぐる問題ほか、さまざまなリスクや課題が指摘されている。前述のとおり技術開発のスピードは速く、簡単に扱えることから(米国ではDIYバイオと呼ばれる個人や小規模な組織でのバイオテクノロジーの実験も行われている)、ゲノム編集は、まもなく一般の人々の生活に入り込んでくる可能性がある。


 その筆頭は食品分野だろう。なかには〈どのような評価法を使っても自然突然変異と区別することができない〉農水畜産物もあるという。日本は遺伝子組み換えの食物に対して非常に過敏な反応を示す国だ。安全性の検証方法のほか、ゲノム編集を施した食物や、それを原材料として使用する食品への表示方法を早急に決める必要がありそうだ。


 医療でのゲノム編集の活用にあたっては、標的以外のゲノム領域に、変異を起こしてしまう「オフターゲット作用」は解決すべき重要な課題である。後の世代にまで影響が及ぶケースもあるだけに、精度の向上はもちろんのこと、治療の評価や失敗した際の保証など、検討すべき課題は山積みである。


 ノーベル賞受賞で注目されたのを機に、ゲノム編集のさまざまな課題に注目が集まり、議論が始まることに期待したい。(鎌)


<書籍データ>

『ゲノム編集とはなにか』

山本卓著(講談社ブルーバックス 1000円+税)